数日前にグラッドストーンとういう工業地帯の町を去りただいまエアリービーチというところにいます。
エアリービーチは世界的にも5本の指に入る美しいビーチとして知られているらしいのですが、、、。
ビーチがない、、、wどうしたことかあるのは石ばかりの川瀬みたいなビーチしかもクラゲまみれでだれも泳いでいません。
あるのはパブとクラブとディスコだけでした。ここにいてもやることはなにもないのでさっさと去りたいのですが、なんと台風がケアンズに上陸していて電車も道路も遮断。この地で足止めを食っています。明日には道路も電車も回復するらしいので翌日出発の予定。ですが北上するにつれて気温と湿度が上がっていくのが感じられます。すごく暑いです。不快なほど暑いです。
こんな土地でほんとにフルーツピッキングかよ。うーん相当がんばらないと、、。
なんといいますか、、もうオーストラリアにきて9ヶ月近くが経とうとしています。かなりいろんなことがありました。
結局思うことはどこで生きていても変わらないということですか。言葉の分苦労することがあるのかもしれませんが、
実際はそうでもないようです。自分の英語がうまいというわけではまったくなくて。とりあえず心の強さと行動力、人間性などが
あれば大して苦ではないらしいのです。なぜ ないらしいのですなんという曖昧な言葉を使ったかというと。
自分はふびんなことや嫌なことがあるとなんでも言葉のせいにしていたのですが 他の日本人と同じ境遇でオーストラリアに来ている外国人(イスラエル人やチリ人など)は日本人と同様あんまり英語はうまくないのです(普通の日本人よりはぜんぜんうまいけど)普通に仕事を探し生活するという意味では少しまだ足りないという意味で。
この方たちは文法や語法などまったく無視で作り上げた英語を使います。言葉がどうだとかこうだとか頭の片隅にもない感じです。そしてこの人たちは楽しく暮らし遊びまわって人生を満喫しています。こういう人たちを見ているといったい言葉とはなんなのか。たしかにコミニュイケーションの手段なのでしょうが自分を表現する上で言葉はたいした割合を占めるような状態ではないように感じます。結局のところその人の生まれ育って形成されていた個性がその人自身を表しているような感じで。
例えると外人がなんの日本語もしゃべれないまま日本に来て生活を始めたとして3年が経ちペラペラに変身したとします。
実際のところは日本に来た直後よりも自分のいいたいことを表現できるようなっていることでしょう。
しかし客観的に見たその人の印象、イメージは3年前も3年後も変わっていないような気がして。
つまり個性、性格はその人の行動や雰囲気がその人が言語をしゃべれていない間もその人の表しているからなのだと自分は感じるのだと思います。
自分はオーストラリアにきた当初は英語は少ししかしゃべれずなにか会話の中で不具合があった場合、(これは本当の自分ではない!英語が喋られれば本当の自分を表現できる)という錯覚に陥っていた気がして。
実際は今でも自分の根本的な性格は変わっていない気がして。
英語なんて本当はたいしたことではないのかも。海外で生活するうえで英語は大きな割合を占めていると思っていましたが。
実際はそうではないみたいです。たいしたことではなくなってきたのですがとりあえず当てもなく勉強し続けている次第です。
自分が陥ったこのような錯覚は西洋圏にきた大半のアジア人がもっていると思います。実際 北欧系の言語は英語と同じラテン語から派生しているので言語のつくりも発音もかなり似通っているのに対しアジア圏の言語は英語との類似性まったくがないので北欧人に比べ学ぶ上では格段に難しいのが事実です。
ふさぎこもりがちでシャイになる。客観的に見たアジア人は大半はこのような感じです。がふさぎこもりがちでシャイなのは言語以前に日本人の性格の本質が内向的だからなような気がして。結局英語をしゃべれるようになってもあんまりなにも変わらないのだなーと思うこのごろです。ふさぎこもっている内向的な人間は英語を喋れるようになってもふさぎこもった内向的な人間なのです。
完璧な英語を喋る日本人がいたとします。その完璧な英語はその人の一つの能力です。ですがそれ以上のものはなにもありません。
抽象的で支離滅裂な文章で申し訳ありません。日本語さえもおぼつかないのかもw
ただただ心の中で思ったことです。葉っぱを吸っているときに。一人の日本人がこんなことを言ったので
If I could speak English better, My life will be better.