おはようございます☀️
みなさまいかがお過ごしでしょうか。
わたしは一年の中で12月が一番好きであり、待ち遠しい月です。クリスマスもあり、年末もあり、新年を迎えるワクワクに満ちる師走。
主真愛教会では、クリスマス会も行われます
来月来るのが楽しみだー!と期待しながら過ごす11月もまた好きなのです。
さて、今日は職場でのことを少し書いてみようかと思います。
わたしは日本語教師として、過去3つの学校で留学生に日本語を教えてきました。
「教える」ということは簡単なことではなく、日本語教師駆け出しのときは日々、本当に苦労の連続でした。
国も、文化も、考え方も違えば、育ってきた環境や、国の教育も、その方法も様々。
教えるクラスには多様な国籍の学生たちがいて、ベトナム、中国、フランス、ネパール、フィリピン、カンボジア。
それこそ何カ国もの国籍の学生たちをまえにして、緊張もし、どんな言葉をかけたらいいか悩みもし……日々うまくできないことのほうが圧倒的に多かったなと感じます。そのたびに落ち込み、悩み、涙し、駆け出しのころは夢を見る度に毎回留学生が出てきていました(笑)
特に頭を悩ませたのは、学生との関わり方。
いま思えば、「教える」ことだけで毎日精一杯で、目の前にいる学生一人一人の声を拾うことも、向き合うことも全くと言っていいほどできていませんでした。
この文型をどう教えたらいい?
教案はどう作る?
一日のスケジュールは?
進路面談はいつする?
試験も作らないといけないし、
引き継ぎもしないといけないし……
自分の頭の中はそれこそ、毎日余裕なんてなくて、教案ひとつ作るのにも、区切りの付け方がわからず、毎度徹夜をし、休みの日も頭の中は授業のことばかりでした。
一人一人、個性があって、日本語を学ぶ目的や理由があるはずなのに、わたしはその声を拾えず、ひとりの学生にさえまっすぐに向き合うことができず、ひとりよがりの日々を過ごしていたなと思います。
そんなわたしにも、心の持ち方が少しずつ変わっていく、初めのきっかけがありました。
ある日、わたしが新学期、新しいクラスにはいったときのこと。
そのクラスにはネパールから来日した学生がいました。
その学生は授業で会うたびに、じっと。わたしの目を見つめてきたんです。
板書を見るでもなく、わたしの目をまっすぐと。
そして
「この人は信じられる人なのだろうか」
「信じていいんだろうか」
ネパールの学生にはそれまで何人も出会ってきましたが、その学生からは心の声が聞こえてきて、そう言われているような感覚に陥ったことがありました。
その目から聞こえる一言の問いかけに、当時のわたしは答えることができず、悶々とし、そして祈るようになったのを今でも覚えています。
家族とも離れ、
故郷からも離れ、
文化も言葉も違う遠い国へ来て、
初めて接する言葉と
初めて会う人と
初めて経験する新しい土地での生活で
彼らはどんな気持ちでしょうか。
どんな目的で日本へ来たかもわからない。
日本語を学びたくて?日本が好きで?
道がわからないとき、地図を頼りにするように、新しい生活で初めてだらけの彼らにとって、目の前の教師ひとりが信頼できる人間でなかったら、どんなに不安なことだろうか。
「上手く日本語を教える」ことよりももっと大切なこと。それは彼らがわたしを信じられるように、わたしも目の前にいる学生を信じることなのではないか。
そしてその信頼関係には、教師としてうまくたち振る舞えることが問題なのではなくて、一人の人間として相手に向き合えるか、向き合おうとする心があるかどうかが大切なのではないか、と考えるようになりました。
日本語教師として「語学」を教える仕事をしていますが、「相手との信頼、相手を信じること、相手と心が通じ合えること」には「言葉」は必要ないとも感じました。
祈る中で、「教案を作らなければ」「やらなければ」から、「あの学生にどう問いかけたら伝わるだろうか」と思うようになり
祈る中で、学生がうまくできなくても「やろう」「がんばろう」と思うその想いを「わかろう」と思うようになりました。
私の中で少しずつ、「心」のあり方が変わるようになりました。そこから、わたしは目の前の学生の成長が愛しいとも感じたし、学生の心をもっとわかりたいと思うようになったし、うまくできなくても、結果をすぐに出せなかったとしても、最後まで共にする人になりたいと思うようになりました。
それはわたしにとって、変化、成長に繋がる大きな経験となりました。それは「教師」としての気づきでもあったと思いますし、「人」としても物事の捉え方が変わるきっかけでもあったなと思います。
わたしは聖書に出会うまえは「信じる」ことは不確かで、怖くて、儚くて、どこか自分を臆病にさせるものだと思っていました。
けれどかっこ悪い自分も、どうしようもないくらい小さい自分を心の底から愛してくれ、何百回も失敗した自分も受け止めてくれ、いつも背中を押してくれたのが御言葉であり、神様であり、真理でした。
ヘブル人の手紙11/1
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」
不確かなところから、神様を「信じてみよう」とはじまったわたしの信仰が少しずつ確信に変わっていったように。
わたしは目の前にいる学生を「信じよう」と思ったし、「信じてもらいたい」と思うようになり、そこから学生との向き合い方、働くときの心の持ちようが変わっていくようになりました。
ローマ人への手紙 10:17
「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」
コロナで留学生の入国制限がかかっていたが、最近はまた段々と、入国する留学生も増えている。
入国を楽しみに待っていた学生たちに会い、キラキラとした目を見ると「全力でやろう」という想いが湧き上がる。
学生の国のことを知りたいとも思うし、日本をもっと知ってもらいたいとも思うし、留学という経験を通して互いに成長しよう、という想いが溢れる。
今年も残り僅か。
一年、本当にお疲れ様!と学生にも自分にも言えるくらいに、全力で最後までやろう。
ではまた!
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最近は名所湯めぐり入浴剤を購入し、あったかいお湯につかりながら一日の疲れをとっています。
日曜日久しぶりにバレーをし、またもや体バキバキのわたしです。
今晩も湯めぐりしよう。日本一あったかい教会主真愛教会のホームページはこちら。