我が名はディオニュソス~現代ニーチェ論~ 

我が名はディオニュソス~現代ニーチェ論~ 

このブログの主旨は、ニーチェ思想への誤解すなわち「反社会的である」「現代では通用しない」「そもそも思想ではない」などに反駁すると共に、その思想を明らかにし現代に即した形で表現することである。我が名はディオニュソス!

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繰り返し神とは何か、という問いについて答えるなら、それは3条件を充たすものである。この条件とは受動性・時間性・一般性を充たしているということだ。受動性とは「追わなくても存在する」ということであり、時間性とは「選択するようなものではなくそれでしかない」ということであり、一般性とは「個人の認識ではなく皆の認識においてつまり自明」ということである。これが神の正体であり理念であるとするなら、前近代における現実の神とはどのようなものだったのだろうか。

まず人類においてはハレとケがあり、これは非日常と日常のことだ。日常とは刺激の無い普段の生活であるが、しかし人はそれだけだと生存実感を失って生きることが出来なくなってしまう。もし日常、すなわちケだけだと自らが生きているのかどうか分からなくなってしまい、気が狂ってしまうだろう。そこで人類存続の課題は常にケを維持するためにハレを獲得することであった。

さて前近代における社会は透明性を持っており、流動性は低いものである。その様な社会においてのハレとケは、受動性・時間性・一般性を保っていた。自らがハレを追わなくとも一部のセットアッパーが祭りを担っていたし、選択しなくてもその時代に即した決められた祭りがあったし、個人の発見ではなく皆にとっての自明なものであった。

それは酩酊薬物の使用であったり、生贄の祭祀であったり、公開処刑であったりした。それは時代によって異なる装置が用いられたが、その論理構造は同様であった。こうして人類は何百万年もの間、ハレとケを交互に繰り返すことによって存続してきたのである。ニーチェはこの人類のあり方を看破した上で、これをギリシャ悲劇に読み取ってギリシャ人を評価した。ギリシャの伝説における「人類にとって最善のことは生まれなければ良かったことである、次善はまもなく死ぬことである」の言葉にあるとおり、アポロン的な華々しい芸術活動の裏には生存の悲劇があり、それを支えるのは根源的なディオニュソス的なものなのだ。

次回は直接性への回帰について書く。

我が名はディオニュソス!

神とは皆のものであって初めて神といわれる。皆の神というのは通用的なものであるという意味だ。通用的とは自明性のことであって、これはつまり我々に通低する価値観や概念の枠組みにおいて、神が受け入れられているということだ。そこで個人の認識について翻ってみよう。

我々の個人の認識と思われているものは実は個人の認識ではなく、実は我々の認識の影響を受けている。例えばある認識に対して議論しあえるということそれ自体が、ある種の同型の価値観や概念を前提に行われているわけだ。美人/不美人という概念があったとして、そこでは確かに微妙な食い違いはあるにせよ、大抵は共通する線引きがなされており、その様な前提的な枠組みを我々は無意識的に採用して生活を送っているのだ。

この様な個人の認識に先立つ、無意識下における我々に共通する通用的な価値観や概念は共同主観性といわれるのだが、皆の神とはこの様な共同主観性が関わってくる。すなわち時には不協和が先鋭化して更新を迫られることはあるものの、通常は前提の枠組みとして無意識下に存在する共同主観性において、神が懐かれているということが皆の神ということなのだ。あの人は美人/不美人であれ、今日は暑い/寒いであれ、これは犬/猫であれ、それは自明なことである。それと同様に神はいると自明なのである。

次回は前近代における神について書く。

我が名はディオニュソス!

神は彼岸にいるのではない。少なくとも人類を何百万年も支え続けたあの神は、現世に存在していた。では神が彼岸に追いやられたのは何故か。それは現世で神が死んだがゆえにその代わりを望んで、そこでまがい物をこしらえてその代替としたに過ぎないのである。

今日崇められている神はまがい物であり、代替品である。この様な現世で捉えられない彼岸の神は、実は無なのだ。彼岸の神を掲げることを謳うものは、現世で神を獲得することの不可能性を担保しつつ、現世で権力を獲得する。

あの人類を支えた神は、その人類によって今日死んでいる。そしてその神が復活するということは、けして他の何かによって代替するということではない。それは彼岸の神でもなければ、神を僭称する教祖でもない。それは人類史に則った現実のあの神なのだ。

次回は皆の神について書く。

我が名はディオニュソス!

神は意味で捉えることは出来ない。意味とは目的合理性のことだ。つまり例えば人は虫を捉えようとして網を振りかざす。確かにそれで虫を捉えることはできる。捕獲するという目的を掲げて、それに対して合理的にアクセスすることで虫は捕らえられうるのだ。しかし神は違う。

神は確保しようと思った途端に手からこぼれて落ちてしまう。神を目指し努力した所で神は網の目からこぼれてしまっており、いくらそれを振るっても捉えることは出来ないのだ。優れたキリスト者であるキルケゴールは神の捕獲に挑戦した一人であるが、彼の挙げた提案は「死後に神を確保する」というアクロバットであった。これは彼自身が意味的に神が確保できると考えていたのではなく、現世で確保することが不可能であると自覚していたからこそ、信仰というアクロバットに依拠せざるを得なかったのである。

この様に神の確保を目標に掲げた時点でそのこと自体は神とは無関係になる。神を目指すということ自体が新たなる偽神の捏造であり、ニヒリスティックな振る舞いであり、神殺しなのだ。意味的にアクセスする神などは無への信仰という気晴らしでしかないだろう。では意味で捉えられない神とはどのようなものなのだろうか。

それはこちらから探したり、確保するものではない。神は確かにおり、いつでもやってくるのだ。神がやってくるというのは無神論の立ち位置がまずあり、そこに侵入してくるということではない。神は常にいるという関係性を示すということだ。太陽が明日昇る事を疑う人間がいるだろうか?神はあり、神は探すものではなくやってくる。受動性としての神がここに示される。

次回は現世にいる神について書く。

我が名はディオニュソス!

神は3条件を充たすことで神といわれるのであり、それは一般性・受動性・時間性であるということだ。この様な神が人類を何百万年も維持させたわけだが、近代社会に入ると神は死んでしまった。いや、人類の進化が神を殺したのである。ニーチェの著作における、狂人の「お前たちに言ってやろう、我々が神を殺したのだ、お前たちと俺がだ!われわれは皆神の殺害者なのだ!」の一説はこの事を言い表してる。

3条件の一般性とは、全ての人々においてということだ。社会の流動性が低い単純な社会においては、社会的に振舞うことと一般的に神を享受することが同時に成り立つ。また受動性とは、神がやってくるということだ。自らが選択するのではなく選ぶ余地が無いという所に、神の存在が当然である事を表す。また時間性とは、歴史のただ中に神が出現するということだ。それは仮のフィクションではなく現実的なものである。この3条件を充たすものが神といわれるのであるが、近代社会がこれを解消した。

社会の流動性の高まりは社会を維持するために、成員各々が多様な生活をする事をもたらした。もしかつてのように社会の成員全てが集まれば、今日の複雑な社会は立ち行かなくなるだろう。神は最早成員全てではなく個別的な出会いになったのである。こうして一般性は廃棄される。また自ら神へ赴くということは、成員に無神論の立場を与えることである。無神論の立場にあるものが、敢えて神へアクセスしようとする。しかしそれは一時的な気晴らしであって、再び着地するのは無神論の立場だ。こうして受動性は廃棄される。また空間的にアクセスするということは、神を相対化するということである。神へアクセスしてもいいし、しなくてもいい。行きたい時に自己都合で合一すればよいのだ。こうして時間性は廃棄された。しかし一般性でなく受動性でもなく時間性でもないようなものは、神ではない。これは神の取り違えであり、無の信仰でしかない。

こうして一般性・受動性・時間性である神は近代社会に殺され、個別性・能動性・空間性となることで偽神となったのである。現代の我々が崇めているのは神とは無関係な何かであって、今日も神は死んでいる。

次回は意味で捉えられない神について書く。

我が名はディオニュソス!

ニーチェは神の死を宣告し、自らが最初のニヒリストである事を明らかにした。では神とはなんで、そして何故死んだのか。その疑問を紐解く鍵がギリシャ悲劇にある。

ギリシャ悲劇とは人間の生存という悲劇を表したものであり、そこにこそギリシャ人の偉大さがあった。なぜなら一見ギリシャ文化は華やかで、アポロン神に象徴されるような芸術活動が光り輝いていた。しかしそれは端的に明るいのではない。それはギリシャ悲劇で表されるような、人間の生存における苦しみに耐えうるべく、産出されたものだったのである。アポロン的にあるだけでなく、そこに奥行きがあるということがギリシャ人の偉大さであった。この様な人間の生存における光と影を、ギリシャ人は教えてくれる。

人々は意志によっては生まれない。それは不条理に基づいており、この虚無は悲劇だ。アポロン神に象徴される光は、影を耐え忍ぼうというものであり、それはこの影にこそ生み出されたに過ぎない。ではこの影とは何か。これこそ人間の本質であり、借り物に過ぎないアポロン的な相対性とは異なる、絶対的なものである。

人間の本質とはアポロン的な表層的なものではなく、その奥にある根源的なものである。アポロン神と対置して、ここで出てくるのがディオニュソス神だ。この神は自我を殺すものであり、言葉を滅殺するものであり、忘我の境地で陶酔感を与えるものだ。人間の誕生という不条理がなかったならそれこそ最善だったのかもしれない。しかし既に存在している人類にとって、次善はディオニュソス神と共にあることであり、根源的なものと合一するということではないのか。このディオニュソス神の与える生き方こそが、人類を何百万年も維持させてきたのではないのか。生存の悲劇を真に救うのはこの神なのである。

次回はこの様な神が何故死んだのかを書く。

我が名はディオニュソス!

このブログの主旨は、ニーチェの思想に対する誤解、すなわち「反社会的である」「現代では通用しない」「そもそも思想ではない」などに反駁するとともに、ニーチェ思想を明らかにし現代に即した形で表現することである。

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