人は“意味のないもの”に耐えられない



たとえば、雨の中でじっと濡れている犬の映像を見たとき。

それはただ、犬が濡れているだけの映像にすぎない。

でも人は勝手にそこに物語を作り出す。

「ご主人を待っているのかもしれない」「悲しい別れがあったのかもしれない」。

そして、その“作られた物語”に涙を流す。


面白いのは、涙の理由が犬ではなく、自分の中にあるということだ。

人は、映像に感動しているのではなく、自分の解釈に感動している。





意味がないことに、人は耐えられない



この世界は、本来、無言だ。

起こる出来事には意図も意味もない。

でも人間の脳は、沈黙に耐えられない。

「これはなぜ起きたのか」「何か理由があるはずだ」と、

強迫的に意味を求めてしまう。


なぜか。

意味がない=制御不能=不安、だからだ。

だから私たちは、“生きやすくするための物語”を自動的に作る。

それが「自分の人生には意味がある」「あれは運命だった」という考え方。

実際には、ただの偶然でも。





意味づけとは、心の自作自演



誰かに振られたとき、「あれは私を成長させるための経験だった」と言う。

病気になったとき、「きっと神様がくれた試練なんだ」と思う。

そうやって私たちは、痛みの中に意味を置くことで耐えようとする。

意味づけとは、苦しみを正当化するための“精神の包帯”だ。


けれど、包帯を巻き続けるうちに、

いつのまにか人は「包帯の中身=自分」だと錯覚する。

意味を失ったら、自分が壊れるような錯覚に陥る。





無意味を受け入れる勇気



でも、本当に強い人は、意味がなくても立っていられる。

「なぜかわからないけど、こうなった」

その無意味を受け入れた瞬間、人は初めて現実と握手できる。


犬がただ濡れている。

それを見て「かわいそう」とも「尊い」とも言わない。

ただ、「そういう瞬間があった」と受け止められる人こそ、

意味の幻から自由になれる。





結論



人は、真実よりも「意味のある世界」に生きていたい生き物だ。

でも、世界に意味を与えているのは、いつだって私たちの心だ。


つまり、世界は最初から何も語っていない。

語り続けているのは、いつも人間のほうだ。