日常生活でなかなか、この【馬鹿】という言葉を使うことがない現代。
しっかりとした定義も無く、考えもせず放置されたまま使い続けるこの
馬鹿という言葉。
今回、しっかりと自分なりに定義してみることにする。
まず、馬鹿は増えるのか? または馬鹿は増えているのか?
などの使いまわしをネットでよく見かけます。
馬鹿というレッテルを貼るにはまず定義が必要でしょう。
環境
・誰が
・いつ
・誰に
など、色々考えなければならないことが多いように感じますが
【誰が誰に】を考えると個人が個人に向けて放つとするとやや問題があります。
その問題とはモラル的な問題ではなく、個人の能力の差を表すだけの言葉に
なってしまう点です。
いくらPCに詳しかろうが、東大に合格しようが、農家や大工からしたら
前述した者たちは、こんなこともできない馬鹿と言われてもぐうの音もでないのだ
持つ者と持たざる者においては突出した能力を基準に馬鹿という言葉を
使ってしまうと、国民全員が馬鹿というレッテルを貼られる事になってしまう。
では考え方を変えて、ある基準や試験を元に人の能力を数値化した上で、
下位数%を馬鹿と定義したとする。
すると、ここでも問題が生じる。
国民全員が極めて能力知力が低くても良いことになる。
国民全員の能力が著しく低いと国家の危機となるため、せっかくの馬鹿という言葉
は道具として意味を成さなくなる。
個人間または個人感でこの【馬鹿】という言葉が利用できないとすると
【誰が】という環境がなくなってしまう事になる。
それでは言う人がいなくなるという事になり、必然的に言われる人もいなくなる。
少し結論が時期尚早かと思い、もう少し見方を変えてみる。
もし、馬鹿の比率が変わっても良いと定義するならば?
何故、馬鹿が嫌われるのかに注目すると
それは社会に迷惑をかけるから、道徳的社会・合理的社会が成り立たないから
ではないでしょうか。
するとどうでしょう。問題点が見えてきた気がします。
馬鹿の定義は現行の法律やルール(道徳)に従わない者と定義出来そうです。
ここで正確に咀嚼解釈しなければならないのは
現行のという点です。
いくら進歩進化した行いであろうと、現行のという点が欠落してしまえば
その行いは馬鹿な行動・馬鹿な言動となってしまうようです。
権利を主張したければ義務を果たすという不変の理があります。
権利は恩恵であり、義務を果たさず湧いてくるものではありません。
恐らく、日本という安全神話が語られる中で、義務を果たさず
権利を主張し、恩恵だけを浪費する者を【馬鹿】と定義したほうがしっくりきます
どうやら、馬鹿を定義するのは義務と権利のバランスを著しく乱す者であるようです
そうなると、【馬鹿が増えた】も成り立ち、全体的に議論が落ち着いた気がします。
いくら進化進歩した行いであろうと、恩恵と義務のバランスを崩すことを
国民全員の同意なく行うことは馬鹿のレッテルを貼られても文句は言えない
とうい事でよさそうです。