夏の蝉が喧しい早朝の晴れ。僕は少し平坦さに違和を抱いている。人々の中には必ず弾ける様な花火玉の様なものが必要であると思う。安全の対語の事である。心から危険が奪われれば蝉の殻の様に鳴く事も叶わない。嗚呼、僕は鳴いていないんだと思う。娯楽で魔妖を行って来たけども本質的な現実に心的な実りがない。かつての僕は精神病棟の中で神経症に苦悶していた。世から自身の虚無を払拭するものは何処へかと探していた。ふとベンチに腰掛けていた時にボーっと過ぎった陶芸という創っていくもの、破壊されてニヒルに至らない保証を陶芸に確信した。しかし甘美に心で追うだけでどうやらニヒリズムの立場を取り続けている。そして関係性による依存や嗜癖によって倦怠な日常を過ごしている。関係性における依存故の激しいぶつかり合いが虚無に潤いを応急で処置するならそれが空白となった時僕等はそれぞれ一体どこへ虚無を埋める浅はかな転移を見出すのだろうか。
つまらない。身体が発する声には普段は耳を傾けてないけども何と平凡なのか倦怠を催すのか、境界例の人間に根底の恐怖の動機をこちらが武器にして黙らせたら今度は奥ゆかしい他人のように妙にすれ違い様に肩もぶつけない。ニヒルを覆うものを喪失した時に矛先は転移する。それで永遠の愛とかずっと一緒とかまるで僕らは童話の中に存在する妖精なのではないか。
一緒に居る意味とは既存的に解せば互いが世界を共有していて二人だけの万能感、その空間においては無秩序で居られるという状態を指していた。しかし今となっては一緒に居ても居なくても変わらないものがある。喪失でも煌きでもない。二人が諦めたという事だ。ニヒルを埋める愛と呼ばれるものの存続をである。故にニヒルを感じて立たずんでいる。
情愛がぶつからないようになったのだ。例えば寂しい故に癇癪を起こして憤怒する、とか見捨てられ不安から攻撃性をもよおりたり。際限のある、限度がある事を二人は知ったから登るより地面に座ったのだ。けどもこれは地獄のようなもので転移出来ない程の恐怖を感じられれば人間誰しも諦める。深い寂しみの中で まだ元の状態は良いかなと。多少の恐怖はあっても黙り込んで防衛を張り、他人にはならない程の関係性の依存に定例な馴れ合い、お互いの関係性だけ何でも許されるという甘えである。それを生じさせる観念の枠組みに成功すればまたもそうとはなりえる関係性である。