今日は疲れたなぁ、疲れるといっても人間が関係して対人で心身に影響が及ぶ疲れはストレスであるから始末が悪いものがある。例えば今日病院の診察で医師と話したが医師というものがそもそもお偉いとされている観念は何かと言うと学位が高いからだとか、患者を治癒する権威を持っているからだとかであろうが十人十色の通り浴世離れした観念を元に対人する医師がいるがそれは医師の人格の所在であり、またはこちらの人格が医師に対人的な影響を与えている意味では対人というのは人格の相互であっていわゆる合う合わないと言われる方は人格とは何か、また人格が自他の心身に及ぼす影響を体感として知っていく事で意識上の苦悶の動機が晴れたりする。話しは逸脱したが今日の事に戻ると医師は私が抗不安薬処方でかかったので心療科目になるが心療内科には内科も属するので医師は物理的側面、心理的側面から状態を干渉のない程度に把握せねばならない。例えば食生活とはよく言われる事だがコレステロール値の要因が必ずしも物理的側面にのみ存在する訳ではない。そうであるならば対極陰陽の概念は崩壊してしまう。体が心へ、心が体へと相互し合って発程しているのが症状で、心筋梗塞も鬱病も心身に不具合が起きて自身の生き方の修正を本人に垂らしめる為に発芽している。だから我々は症状を抑え込んだりする対症療法に傾いてはいけない。知るべきは症状が目的としている意向の部分である。それを肥やしにならない形で食生活が悪いから悪い、とか運動をしないからセロトニンがとか、これは医師会が提示した医学説が一般に解り易い形で流布され人々は医師が自身を救うという観念を持っているからやがてそれが一般論化するのであって、いつの時代も健康に良いのは実はこれだった!なんてものは人間が作り出した魔妖のサイクルであって我々は結局答えがないという事と原因もないというところの曖昧圏に存在していなければ本意は解り得ないのである。対極陰陽の立場に立ってじっくり考える事が必要である。鵜呑みにもせず自他の価値観や生き方から自身が学べうる事が必要である。今日の医師は不快だった。その医師は自分が信じる医学のマニュアルにはまっているからである。フロイディアンが患者の治療に携わって患者がボロボロになるのも固定観念化されたものを相手にはめているからである。本当の所何の主義にも傾倒する必要はない。それよりも自分自身が悩む事そのものに意味がある。今は悩めないような社会的構造になっている。文明を過信する人達である。文明を過信する者が自然の脅威に勇猛に立ち向かっていった姿を私は見た事がない。彼らは小波にも恐れるであろう。勿論夜の荒野にさえも。