ブラック、つまり黒というのは、厳密には色でないとされている。それは明暗を表わすもので、色彩のことではないと。自分はそのことを、高校生の頃に美術の時間で知った覚えがある。それ以降変わらず色の一つとして挙げるけれど、それは世間的な見方によるところが大きい。

 自分が通っていた専門学校(便宜上そう呼ぶ)では講師が外部から招かれ授業が進められていた。またそういったことを触れ込みの一つともしていた。さらには企業の案件に学生が、制作現場を学校に置きながらも携わったりする。そういう外部との関係の中進められる教育を、産学連携のように考えることもあった。そして授業の中でも、アパレル業の業態を教える講師が話していた。表に映る華やかな部分とは別の、リアリティのある部分を教えているつもりだと。またそういうことを抜きにファッションやアパレルという業界は成り立たないと。それから業界の裏の方はドロドロだとも言っていた。けれど自分には世間知のおさらいのようにも聞こえる。言ってしまえばゴシップのように。クラスメイトの女の子は漏らしていた。勤めるアルバイト先のアパレルショップを「ブラックやしよ~」と。それには残業代の下りないことを例に挙げていた。それから社長がゲイで、勤め先の男性(イケメン)店長をお目当てに足しげく通いに来ていたと。授業中とは言え暇になるとそういうことが言いたくなるのか、否定的に幾度も聞くことになる。



 「こんな経験は初めてです」といつか一人の女性から聞くことになった。職場の上司から言い寄られ、それに困る姿があった。上司からのアプローチは幾度も繰り返され、もはや言葉のある姿もない姿も、受け入れられずにいた。そしてその表情や仕種を「堪らない」と言い、自分は聞いていて、綺麗な人なので無理もないなと思ったりしていた。自分とて惹かれるものはあり、なんとはなしにその上司と自身を重ねたりすることもあった。



 彼女の話をどれだけの思いで聞いていたのかはわからない。この記事はその話を元に書かれているけれど、書きながら自分は傍にコーヒーを置いていた。当時は珍しくと言うべきか、ブラックで飲んでいたことを覚えている。いつもならミルクを入れて飲んでいるはずのところを。それはこの記事が書かれる三日前も同様だった。そしてその三日の間に胸が気持ち良くない形で満たされることがあり、彼女が脳裏にイメージとなって現れた。自分はそのイメージに何も手につかず、ただ彼女の姿に呑み込まれていくばかりだった。彼女は男に言い寄られ、その男を毒のある口で嘲り、羞恥を煽り、手にかけさせる。その顔を嫌悪とおぞましさで満たしながら。その毒牙にかかった男は居ても立ってもいられず彼女の体を汚す。その体を貪る中、屈辱にまみれる。彼女はそれを嘲笑い続ける。男の耳にその笑い声がこだまする。胸を蝕むものとして、消えないものとして。そして彼女の美しさは一際意味を持つ。



 彼女はこんなことを言っていた。「表情や仕種の見えてこない、文章だからじゃないかなぁ」と。「頭を使っているようにしか見えないのよ」とも言いながら。それはもちろん自分に向けられていた。自分も読み返しては、抽象的な言葉を多く感じたり、行動している人の言葉じゃないなと思うことになった。アダムとイブは、知恵の実を食べることで天界を追われる。自分にはもはや天上で彼女と戯れていられるような言葉はなかったのかもしれない。浅薄な付き合いとでも言えばいいのか、顔を合わせることはないままだった。そして並べた自分の言葉を思っては、自分は彼女に一体どのように映るのだろうと考えることがある。言葉のある姿も、ない姿も、彼女の顔にただおぞましさだけを浮かべることになるのだろうかと。



 自分の知り合いにやたらと女遊びの上手い男がいる。手練手管と言えばいいのか、その腕に堕ちた女は数知れないと言えそうだった。それを聞きながら自分はこう言う。「まあ自分は、~~さんに裏社会のこと教わってるんで」と。とは言え、彼からはこんなことも聞く。「好きな人とだけは上手く行かなかったんで」と。何と言うか、聞いていて納得してしまうと言うか、リアリティがあると言うか。彼女はその上司のことを話しながら、嫌な気持ちになるとも言っていた。つまりはそういうことを、たしなみのようには考えていなかったのだろうと。その上司と話し合う姿もあったようだけれど、ストレスの溜まるもので、ドロドロとした感情に呑み込まれていくのを危惧していた。



 その写真を見ると、多くが黒いものをまとっているデザイナーが、コム・デ・ギャルソンの川久保玲だった。そして「ビジネス・ウーマン」と自称していた。今風に言えば「ビジネス・パーソン」だろうか。上司に言い寄られるその女性も、黒いスーツを着て店舗に立つ姿があった。言葉を交わしながら「後継を育てる必要がある」と、職場を去る意志とともに残していた。その言葉の真偽を知る機会が自分に訪れることはなかった。今どこでどうしているのかは知らない。



 いつ頃からかわからないが、言葉の意味が一人歩きしては、自身に降りかかっているような覚えがある。たとえばその一つが、「ドロドロとした」胸の内だったのか。そして一人歩きすることの現れか。まみれたはずの屈辱やその光景が悪くはないなと思うことになる。ドロドロしている故か、同時に温かくもあるかのように。何と言ってもその代償に、女の体を汚しているのだから。言い換えれば、何を自身は綺麗なままで、と考えてもみる。そんな時には、正義すらも茶番に取って代わる。そして去ってしまった彼女には思うことがある。どこへ行っても同じではないだろうかと。彼女は行く先々で同じような目に遭い、同じような毒を吐き、同じようなおぞましさをその顔に浮かべているのかもしれないと。あるいはそれこそが彼女を包む温かさであり、それは同時に変わらぬ代償なのかもしれない。その代償と引き換えになるものがあるなら、それはやはり美貌、と自分は言うことになる。



 冒頭で書いたようにアパレルの教育機関に通っていたわけだけれど、服を選びながら、いつしか黒い物に落ち着こうとする自分がいる。そしてそれを良しともしない自分もいる。抗うかのように、落ち着けないかのように。父親がいつか言っていた。「今は大人がガキばっかりやんけ」と。コム・デ・ギャルソンとは「少年のように」を意味するが、度々思うのが「少年」そのものではないのだなと。彼女はこちらが関心としたことを、好奇心という言葉に置き換えた。手にかけるには、それで十分なのかもしれない。お金と男の話を一切しない人だった。そして時には自らの暗部が光に晒されては、自身の姿を思い知らされることにもなった。彼女は白くも黒くも、変わらず美しい人だった。まるで何を羞恥とするのかも知れないままに。記憶にあるのはただ、その女の姿ばかりだった。