本日は、福沢諭吉の横浜港でのエピソードをもとにした問題を扱います。
当時の蘭学者が接した新文明とでもいうべき話題で、福沢が生きた時代以上に激動する時代に生きる私たちにとっても、感ずるところの多い問題です。
なお、この問題の枕になったと思われる「福翁自伝」は、これから学問の道を歩んでいく受験生の皆さんにとって、読みやすく、ためになる話の多い本です。受験が終わったら、ご一読されることをお勧めします。
問題
福沢諭吉は適塾で蘭学を学んでいました。開港後の横浜に出かけた福沢諭吉は、外国人向けの店のウインドウの外国語が読めないことに驚きました。なぜ福沢諭吉は、横浜で外国語が読めなかったのか、横浜で貿易を行っていた主な国をあげて、説明しなさい。
解説
まず、蘭学について考えます。西洋一般の学問であると理解されがちですが、実のところは、江戸時代を通して日本と国交のあったオランダの学問を蘭学と呼んでいました。
そうすると、蘭学にかかる書物はおおよそオランダ語で書かれたものであるので、蘭学を学ぶためにオランダ語を学ぶ必要があったのです。適塾で蘭学を学んだ福沢諭吉はオランダ語の読み書きは修めていましたが、江戸時代末期から横浜港などの開港地で貿易を始めたアメリカやイギリスの言葉である英語は知らなかったのです。
ちなみにオランダ語ではこんにちはを”Godedag”(フッデダッハ)、英語では”Hello”(ハロー)といいます。同じ欧州の国なのですが、このように言葉に少なからぬ違いがありますので、当時の福沢が読むことができないのも致し方のなかったことでした。
余談ですが、その後、福沢は幕府の英語通訳や時には子どもにまで頭を下げて必死に英語を学び、のちに咸臨丸で渡米し、ウェブスター辞典をはじめとする英語書籍を大量に蒐集し、福沢が開いた慶應義塾では、英語の書籍をもとに講義をしました。蘭学を学んだ話や英語のそのあたりの話は、福沢の自伝にあたる「福翁自伝」に詳しいので、受験が終わった後にでもぜひ読んでみてください。
解答例
福沢諭吉は、蘭学を学ぶことでオランダ語を読むことができたが、主にイギリスと貿易を行っていた横浜港では、イギリス人向けに英語が使われており、英語を知らない福沢にとっては英語のウインドウは読むことのできないものであった。