黒猫の宿題ー2-
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ノアは
鶏の胸肉とマグロを一皿ずつ
ぺろりと平らげ
ゴクゴク喉を鳴らして水を飲み
右の脚を引きずりながら
ピンクちゃんに横になった。
翌月曜日の朝、
寝室のドアを開け
リビングにいるノアに声をかけた。
すると昨夜横になったときと同じ姿のまま
「ンナァ」と
吐息のような挨拶を返してきた。
「ノア君、今朝も特別大サービスね!」
私は、寝間着のまま
まな板で刺身を叩いた。
トントン
ノアには心地よいはずの音。
でも、昨夜と違うのは
起き上がってもこないことだった。
・・・ノア、もう長くはないのかも。
既に独立した三人の子ども達にLINEで伝えることにした。
「ノア君、急にあまり動かなくなりました。
会いたい人は、私が居なくても会いに来てね」
出かけなければならない時間が迫っていた。
私は、
ノアが寝ている横に
水と、叩いた刺身を置いた。
「ノア君、お仕事に行ってきますよ。
お利口さんにお留守番していてくださいネ」
ノアは昨夜から少しも動いていない姿のまま
「ハァ」と
息だけの挨拶をした。
放り出されるように伸びていた細い脚が
なんだか寒そうで
白のタオルをかけ、手足を覆ってあげた。
私は仕事用のスーツに着替えた。
ネックレスは
白のブラウスに合わせて白い小さな十字架を着けた。
これはずいぶん前に旅先で買ったものだった。
「ノア君、行ってきますからね。
お母さん、お仕事ですから。
今日は早く帰ってきますよ。
お利口さんで待っていてくださいネ。」
頭をなで、
身体をさすってタオルをかけ直し、階段を下りた。
慌ただしく降りた玄関で
その日来たスーツに
色を合わせたハイヒールを履いた。
なんとなくしっくりこない。
「やっぱ今日は歩きやすい靴にしよう」
と靴を脱いだ瞬間
何かに憑りつかれたかのように
たまらなく不安になり
私は二階に駆け上がった。
・・・ノアに行ってきますって
・・・もう一度言わなきゃ
「ノア君!お仕事行ってきますね。
ドロボウが来たら、エイッてカッコ良くやっつけてね!
セコムさんもいるけど、ノア君の方がカッコいいから、
宜しくお願いしますね。
お母さん、
行ってきます、ね。」
ノアは
薄く「ハァ」と
息で応えた。
「今日は早く帰りますからね!行ってきますね!」
その日はとても忙しく、
私は永田町と赤坂の事務所を行ったり来たりしていた。
ひと息つくたびに腕時計を見ては、
ノアが独りでいることが気になっていた。
もっと早く帰るつもりだったのに
窓の外は少し変わった色合いの夕暮れ空だった。
ゲリラ雷雨の分厚く濃い灰色の雲が
ビルの向こうからモクモクと大きな塊で空に立ち昇り、
その背後からは、
オレンジの光が風にたなびく西陣織の布のように黄金の光を放ち、
分厚い雲とビルの谷間を縁取っていた。
圧倒的な自然の力に、
人間にできることなんかちっぽけなものだ。
灰色の
美しくも猛々しい空に追い立てられるように
私は家路を急いだ。
家に着いたのは18時半過ぎた頃だった。
玄関のドアを開けると
私は、もうどんな我慢もできなかった。
靴を脱ぎ捨て、
バッグを放り投げて
着替えもせず
階段を駆け上がった。
ノアー!
ノア君!
ノア―!!
帰ってきましたよ!
ノアーー!
リビングには
テーブルの陰のピンクちゃんに朝と同じ姿で横たわるノアが居た。
上にかけておいた白いタオルもそのままだった。
ノア君!
ノア!
ノア!
ノア!
ノアー!
ノア?
ノア君?
ノア君
ノア・・・
何度呼んだだろう
顔をさすり
頭をなで
砂糖菓子のように華奢で軽くなった身体を
抱き上げ
抱きしめた。
ノア
ノア君
ノア君
閉じられたままのノアの瞼に
ポタポタと涙が落ちた
ノア君
あなた、独りで逝ったの?
お母さんのいないときに、
淋しくなかった?
ごめんねぇ。
ノア君
一緒に居られなくてごめんね。
でも
カッコイイねぇ。
やっぱりノア君は
カッコいい黒猫だわねぇ。
ノア君
仕事を終えた娘と息子たちが
駆けつけてきた。
皆、
それぞれの思い出を抱きしめ
言葉をかけ
止まらない涙とお喋りで
別れを惜しんだ。
東日本大震災の後、
北海道の妹の家に子ども達とノアを疎開したときのこと。
家の建て替えで、
二回も引っ越しをしたときのこと。
アレックスの首にからみついて沢山遊んでもらったこと。
この夜
私は久しぶりに子ども達3人と過ごした。
23年間一緒に過ごしたノアと
お別れの時間を
誰にも遠慮することなく、
泣けるだけ泣いて
皆で過ごした。
ペット葬祭は、
9年前にダルメシアン犬のアレックスをお願いしたのと同じ場所だった。
最期のお別れは
いつも切ない。
ありがとうと
ごめんねとが
幾度となく交差する。
歳をとるにつれ、
毛に艶がなくなり
体臭がするようになり、
風呂に入れれば
疲れて寝込むようになり、
風呂を諦め、
嫌がるようになったブラッシングももうやめた。
トイレが分らなくなり
オムツになったのはこの日からちょうど3週間前の事だった。
歳をとる
ということ。
生きる
ということ。
どこかが痛くなり
どこかが動かなくなり
それでも
愚痴を言うでもなく
自分を卑下するわけでもなく
たんたんと
命のある今日を生き、
最期が近いと悟っていたのだろうか
食欲が落ちたノアに慌てている私を気遣い
鶏肉とマグロを一皿旨そうに食べて見せてくれた。
その後は
一切食べず
一口の水も飲まず
独りの時間に
独りで旅立った。
命は
生れて
いつかは終るもの。
生のその先には必ず死がある。
誰にも平等に与えられた
「命」の始まりと終わり。
私にも
終わりの時は
いつか必ずやって来る。
その最期を
選ぶことができるなら
どうやって過ごすのだろう。
私はどこでその時を迎えたいのだろう。
いつもの景色を眺め、
いつもの台所と
いつものテーブルと
いつものソファーを眺め
穏やかにその時を迎えるのだろうか。
黒猫ノアが私に残したのは
沢山の大笑いの思い出と
命の限り生ききること。
そして
いつか必ず訪れる死について
目を逸らさず向き合うこと。
私はどんな最期を迎えたいのだろう。
叶うか叶わないかではなく
今を生きるために
向き合わなければ進めない現実と対峙することだった。
黒猫ノアが私に残した宿題
ありがとね
ノア
23年もの間
一緒にいてくれて
ありがとう。
また、いつか会おうね
さようなら
段ボールが大好きで
ちびっ子にはいつまでも好き放題に触らせてくれた
ノア君
ありがとう
さようなら
いつまでも
忘れないよ
一緒に過ごした
ステキな日々
心からの
敬意とともに
ノアへ







