「ただいまー」

 

 

 

 

 

 

街灯の青白い光が、扉を開けた玄関にスッと差し込み、帽子掛けの足元を照らした。

 

 

 

うちの猫もこの灯のように、開いた扉から、スッとよく抜け出したものだ。

 

 

 

 

扉をくぐり出た猫を、瞳のきらめきだけを頼りに暗闇で探し出すのは容易ではない。

 

 

ましてやウチのは黒猫。

 

 

生垣のすき間、車の下、逆さに伏せた植木鉢の陰も、黒猫が隠れるには十分な暗闇だった。

 

 

 

「ノアー!」「ノア君!」「かつお節ですよー!」

 

 

 

懐中電灯とかつお節を手に、真夜中にノアを探し歩いたことが何度あっただろう。

 

ノアが抜け出すのは大抵忙しい時だった。

 

議員からの急な呼び出しで、大至急永田町に向かわなければならなかったとき、

 

除夜の鐘が鳴り終わり、初詣に出かけようと、扉を開けると、自分が先にでかけるんだと言わんばかりに足元のすき間を潜り抜けたときも、

 

ノアは猛スピードで闇に紛れた。

 

 

 

 

 

 

 

先週の土曜日のことだった。

いつもより少し遅くなって家に帰ると、いつもなら二階のリビングにいるノアが、玄関で私を待っていた。

 

 

 

「どうしたの?下に降りていたの?」

 

 

 

最近はドアが開いても、

外に出ることは無い。

 

扉が開くとふと外を見やりはするものの、のそりと向きを変えて階段を上り二階のリビングに向かうのが常になっていた。

 

 

 

 

「そうよね、ノア君も23歳!貫禄のお年頃よね」

「さ、リビングに行くわよ。ノアもご飯にしよ!」

 

 

 

 

クロゼットにバッグを置き、階段を上がって、パントリーにあるキャットフードの容器を開けた。

 

 

 

「はい、ご飯ですよー」

 

 

 

食べ残しが入っていた陶器のご飯入れを洗い

キッチンペーパーで水気を拭いて

フードを入れた。

 

 

 

カラカラ

 

 

 

10年前から愛用の

「15歳以上の老猫用ドライフード」が

乾いた音をたて容器に山盛りになる。

 

 

 

もっと柔らかいフードが良いのではと

買い与えたことがあったが

喜んで食いつきはしたものの

食べた直後に全部吐いてしまったし、

 

頂き物の高級なオーガニックのドライフードは

一口も食べなかった。

 

 

 

 

「ノアはこの庶民的な味が好きなんだよ!

だって保護猫だからワイルドなんだよな!」

 

 

 

息子がそう言って笑っていたのを思い出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

山盛りのご飯入れをいつもの場所に置き

ノアを振り返った。

 

 

 

 

あれ?

 

「ノア君?」

 

 

 

 

いつもなら足元にまとわりついて離れないノアがいない。

 

 

 

「ノアー!どこにいるの?ご飯ですよー!」

 

 

 

 

程なく「ニャーッ」と声がしたのは

階段の下からだった。

 

 

 

 

「まだ下にいたの?どうしたのよ」

 

 

駆け下りてみると

ノアはいつもの女座りで私を見上げていた。

 

 

 

1年ほど前から、

ノアは床に座ると必ず右脚を下にするようになっていた。

眠るときもそうだった。

 

 

 

「おしとやかに座っているのよね」

 

 

と私は言っていたが、

内心、どこか痛いのではないかと心配でもあった。

 

 

 

 

 

でも私は、

ノアの老化はそのまま受け入れようと決めていた。

 

 

 

 

東日本大震災の2日前に13歳で亡くなったダルメシアン犬のアレックスは、

体調を崩し入院させてから急に歩けなくなった。

 

 

それも寿命だったのだとは思う。

 

 

でも、最期の貴重な時間を、狭いゲージで心細く過ごさせてしまったかと思うと、

今でもその時間が悔やまれてならなかった。

 

家に連れて帰ってからは、

子ども達が毎晩添い寝して見守るなか

アレックスは最期の時を迎えた。

退院後から4日目のことだった。

 

 

その時から、

ノアもそれなりの年齢になってからのことなら、

大好きな自宅で、

好きなものを食べさせて、

最期まで、暖かでゆっくりとした時間を過ごさせようと決めていた。

 

 

 

 

 

 

 

ノアは階段の下でおしとやかに座ったまま

私を見上げ

「ニャアーッ!」と怒っていた。

 

 

 

 

「はいはい!どうしたの?脚痛くて上がれない?」

ノアを抱きあげると、背骨のゴツゴツした感覚がが私の掌にあたった。

お世辞にも「ツヤがある」とは言えない毛並み。

毛づくろいもいつの間にかしなくなっていた。

 

 

 

 

昔は、

真っ黒な毛並みが艶々と美しい貫禄のある黒猫だった。

 

「ノア君は大きくなったらクロヒョウになるのよね」

 

娘からそう言われていたノアは、

夜中になると娘の机の前に陣取り、受験勉強で必死な彼女を見つめ続けていたものだ。

 

 

 

 

 

 

階段を上がり、ご飯の前でノアを下すと

ノアはもの凄い勢いでドライフードを食べ始めた。

 

 

 

お腹が空いていたのだろう。

 

 

 

 

カリカリ食べては

横にある水をゴクゴク飲み、

むせて咳をし、

また

カリカリと食べては

ゴクゴクと大量に水を飲んでいた。

 

 

 

 

 

・・・ノア、

まさかあなた、

下に降りたのは良いけど、

 

もしかして、

 

階段上がれなくて

ずっと下にいた?・・・

 

 

 

 

 

 

食欲があるのがこの子の良いところだけど

 

 

 

カリカリ

ゴクゴク

 

 

 

もしかしたら

もう階段は上れないのかもしれない。

 

 

 

ノアはお皿がほぼ空になるまで音をたててカリカリを食べ、

そして満足気にお気に入りのクッション

ピンクちゃんに横になった。

 

 

 

元々私のものだったピンクちゃんは触り心地の良いふわふわのクッションだ。

何度もノアと奪い合ううちに

私が根負けし、ノアに譲り渡したものだった。

 

 

 

ノアはそのピンクちゃんで眠るのが大好きだった。

 

 

 

 

 

翌朝、

私が起きていくと

 

「ンニャーーオ!」

 

ノア独特の挨拶があった。

 

 

 

 

「はいはい、朝のかつお節ですね」

 

 

 

 

ご飯入れにカリカリとかつお節をひとつまみ入れ

水を替えた。

 

 

 

 

日曜日だったが、

原稿の締め切りが迫っていた私は

着替えてコーヒーを淹れ、

ダイニングテーブルにパソコンを出して仕事を始めた。

 

 

 

 

元々集中すると時間がとんだような気がするが、

その日は気がつくと、日が暮れかかっていた。

7~8時間は経っていたのだろう。

 

 

 

顔をあげて

ピンクちゃんに目をやると

ノアはスースーと寝息を立てて眠っていた。

 

 

 

お水を替えてあげようと

隣のご飯入れをのぞくと

 

 

カリカリが

減っていなかった。

 

 

朝のかつお節もそのままだ。

 

 

 

 

「あれ?ノア?ご飯食べてないの?」

 

 

 

 

ノアはピンクちゃんに横になったまま

こちらをチラッと見て「ニャオ」と言ったきり

また首を下ろす。

 

 

 

 

 

ノア、

具合悪い?

 

 

 

 

話しかけてみたが

どうも様子がおかしい。

 

 

 

 

そうだ!!

鶏の胸肉とマグロを買ってこよう!

ノアはいつもこれで元気になるし!

半年前にもこんなことがあったけど、

元気になったし!

 

 

 

 

 

これまでノアは何度もこれで元気を取り戻していた。

 

 

 

 

 

私はマーケットへ急いだ。

鶏肉とマグロ、

ついでに卵1パックと

自分用にお刺身も1パックかごに入れ

急いで家に帰った。

 

 

 

 

玄関のドアを開けた。

 

何とも言えない不安がこみ上げ

私は

買ったものを入れた袋を持ったまま

階段を駆け上がった。

 

 

 

 

 

「ノア!鳥の胸肉とマグロ!買ってきたよ!」

 

 

 

 

 首をもたげてこちらをチラと見た。

 

 

 

 

・・・生きてた・・・。

 

 

 

 

まな板の上でトントンと肉を叩く音がすると

自分のご馳走だと

必ず私の足元に寄って来たのだが、

 

 

 

 

この日は

目線でこちらを見るだけ。

 

 

 

 

 

 

 

叩いた鶏肉を持ち

ノアを抱き上げお皿の前に立たせると

 

ノアは

嬉しそうにクンクンと臭いをかぎ

ひと皿ぺろりと平らげた。

 

 

 

食欲があるのがノアの良いところ!

 

 

 

「じゃ、もう少し食べる?

生マグロも奮発したのよ!」

 

 

 

 

私はマグロの脂のないところを切り

まな板で叩き、皿に盛ってノアに見せた。

 

 

鶏肉を食べて疲れたのか

横になっていたノアを抱き上げ

腰を支えて立たせると

 

嬉しそうに

今度はマグロを食べ始めた。

 

 

 

 

ただ、支えてあげないと

立ってご飯を食べるのは難しくなっていた。

 

 

 

 

 

嫌な予感がした。

 

ーー明日へ続く