晴れわたった青空を背に

コンクリートの黒い塊が浮かび上がった

 




 

軍艦島

 

正式には「端島(はしま)」という

 

 



 

 

こんにちは。

 

ブランディング戦略家の鈴鹿久美子です。

 

軍艦島に行ってきました

今日はそのレポートを書きます♪

 

 

 

 

「今日は、上陸できますよ!皆さん運がいい!」

 

軍艦島の船着き場から

歓声が上がった

 



 

 

この島で生まれ育ったという女性が

案内をしてくれるガイドさんだ

 

 

当時の暮らしの様子を

その場所ごとに

丁寧に語ってくれた

 

 



 


 

この島は

元々

南北320m×東西120mだったものを

埋め立て工事を繰り返し

 

海岸線全長1200mの

海底炭坑の島に作り上げた

 

文字通り人工の島

 

 


 

昭和35年には

5千人を超える人々が暮らしていた

この小さな島は

 

 

同じ長崎で建造された

軍艦「土佐」に似ていることから

 

軍艦島

 

と呼ばれた

 

 

 

島は一つの完結した共同体

 

 

小学校、中学校、保育園もあり

駄菓子よりも安い定額の電気代を払えば

どれだけ使っても良かったことから

白物家電はどの家も最先端のものを持っていた

 

 

高いモノから順に売れたという

 

 

↑船内での案内用のテレビ画面です


 

 

落盤や

爆発事故で亡くなる人の数が

住人の40%だった時期もあり

 

 

 

この小さな島に

宗派を問わない寺を作り

近くの島に火葬場を作ったのもの

そんな背景があるからだ

 

 

 

神社の祭り、

運動会、

大浴場、

パチンコ、

スナックに遊郭

 



 

 

労働力を確保しようとした企業が

作り上げた軍艦島の魅力は

今でいう「福利厚生」なのだろう

 



 

1890年に三菱社が入手し

国のエネルギー政策が

石炭から石油へと移行し閉山となる

1974年(昭和49年)まで

ここは生きた町だった

 







 

 

 

2015年には世界文化遺産として正式に登録され

このレンガの壁はかつて「総合事務所」と呼ばれた場所で

地下から生きて帰ってきた坑夫たちが

風呂に入る場所だった

 

 

 

 ↑横から見ると、崩壊防止の骨組みが




この窓枠の中で

どんな顔をした人が

どんな暮らしを紡いでいたのか

 

 

生きて帰るかどうかも分からない夫を

毎日どんな思いで送り出していたのだろう

 

 

 

ここで生きることを選び

このコンクリートの塊の中で

 

生きていた人々の

暮らしの片鱗

 

 

 

 

 

あのコンクリートの塊が

歯を食いしばって立っている弁慶のように見えたのは

死と隣り合わせの炭鉱で働いた男たちと

そこで子どもを産み育てた女たちの

暮らしの姿が重なって見えたからか

 







 

不思議と

哀しさはなく

 

エネルギーを求める国策と

その変遷の歴史の上に上陸した

貴重な体験でした



 自撮りでモタモタしていたら

ガイドさんが「撮りますよー」と♪