こんにちは。
ブランディング戦略家の鈴鹿久美子です。
6月7日(金)
大麻取締法違反の罪で起訴された若者が
保釈のあとに
土下座するシーンが報道されました。
謝罪会見を仕事として仕切る側から見て
この姿には考えるところがありました。
彼は間違いを犯しました。
その行為は非難されるに値することです。
でも
間違ったことをして
謝る場面での土下座に
少し違和感を感じました。
疑問は大きく3つ
ひとつは
彼は「謝る」場面でなぜ「土下座」を選んだのだろう
もうひとつは
土下座の姿勢をとってからは
誰に向かって謝っていたのだろう
そして
この土下座という行為で
効果として何が示され、
何が解消・解決されたのだろう
ということです。
ひとつめの
なぜ土下座を選んだのかということ
土下座が
謝罪の最上級の形として認識されたのは
昭和初期以降のことだといわれています。
土下座というと
時代劇でお代官様が通るときに
平民が「ははぁーーっ!」と
道端に両手をつき頭を下げて伏している姿
これがザ・土下座のイメージ、
でも
調べてみると違うのです
江戸時代
大名行列に出会った時は
道端に立ったままよけたり
しゃがんだりするだけでOKでした
これは当時の風刺画などから見ても
くっきり書かれています
現在の「土下座」=「謝罪の最上級の姿」
というイメージがつくられたのは
時代劇や小説などで
「圧制時苦しめられる平民」
の姿を現すのに頻繁に用いられたのが
始まり
となると
土下座の意味や価値はどこにあるのでしょう
畳の上ではなく
土足で歩く場所に
両手をつき伏して謝る姿は
「もうあなたに殺されても仕方がありません」
と
首を差し出すに等しい姿。
切腹すらも許されなかった武士が
首を差し出す無念さを
この「土下座」に想定するとしたら
それは現代であっても
惨めで無念な最期の姿
に映ります
今回の報道をみて
気持ちが引っかかったのは
ふたつめの疑問
「誰に対して土下座をしているのか」が
全く見えなかったのが
「土下座」を選んだ理由とともに
さらに不明瞭な印象を
作ってしまったのだと思いました。
ですから
3つめの
これで何かが解決したり解消されたりするように
見えなかった
のだと
ましてや
想定外に突然土下座された
見ている側は
許すか許さないかの判断を
強要されたような印象になることも
否めません。
罪を犯したのですから
「釈明」は違うかもしれませんが
「謝罪」はきっちりと伝わるようにすることが
その目的に適います。
今回報道された姿に
私が違和感をもったのは
宛先のない土下座
に見えたから
形だけの謝罪は
どんなスタイルを使っても
見る側の心に届けることができません。
「オーバーアクション」と取られてしまったら
心から謝りたいと思っていたとしても
真意は伝わりません
謝罪をするなら
誰に
何を謝るのか
どうしたら、伝わるのか
それを
とことん考えて
形をも整える。
これが「謝罪」の誠意でもあると
思っています
罪は罪。
かんたんに許されることではありません。
でも
保釈の直後
沢山のフラッシュに囲まれた中で
彼が
誰にどう謝っていいのかわからないまま
混乱の中で
咄嗟にやってしまったのが
今回の「土下座」だとしたら
批判するだけではなく
きちんと叱ってやらなければならないとも
思いました。
映像として残ってしまうあの場面を
彼の未来を思って指導してくれる人がいなかったのかと思うと
それもまた
淋しい気持ちになったことも
正直なところ
寂しさとか
不安とか
悲しさとか
犯罪の底の底の底に常に在る
これらの感情に
どうやって寄り添えば
犯罪という形になる前に
くい止めることができるのか
間違いは
その過程の
どこにくい止めるチャンスが
隠れていたのか
謝罪会見を仕事として受けるたびに
私は
社会構成員のひとりとして
責任を持って
考えなけれならないと
思います。
今日は
こんなことも考える鈴鹿でした!
