こんにちは。
ブランディング戦略家の鈴鹿久美子です。
蒸し暑くて
雨が降りそうな日の夜は
何かの拍子に
ふと思い出す景色ががあります。
それは
自分の姿なのですが
もう
20年くらい前のことです。
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腕時計を見ると
22時10分でした。
酒臭い電車の中で
吊革からぶら下がる自分の腕の時計を見て
コマーシャルのようにきれいに針が揃う文字盤に
苦笑い。
――今日は早く帰れるはずだったのに
代議士が予定通り夜の会合に出かけさえすれば
19時には家に帰りつく予定だった。
――まったく
――勝手に自分の気分で予定変えないでよね
――こっちはお腹空かせた子どもが3人もいるのよ~!
――ご飯、作ってこなかったのに、もう夜の11時になっちゃう
私は、時計の針を見ては
イライラしていた代議士の顔を思い出していた。
電車が駅につくと
私は
開きかかるドアをこじ開けるように
改札口に向かって
猛ダッシュで定期券をタッチし
駅前のマーケットに走った。
――いつもなら
――夕食の支度なんか朝のうちに
――完璧に済ませてから出かけているのに
――今日に限ってなのよねー。
今日は早く帰れるはずだったから
ご飯の支度、何もしていない。
子ども達はとっくに帰っていて
携帯のショートメールに
「お仕事忙しいの?頑張ってね」だって。
そう言えば、
明日部活があるから早いって言っていたし
ごはん早く作らなきゃ!
あー、やっぱり何か作って出ればよかった。
遅くなる予定じゃなかったのにー!
焦りと後悔が頭の中を
同じことがグルグル回る。
とにかく簡単にすぐできるもの
駅から走ると30秒の所に
24時間営業の古いスーパーマーケットがある。
B級品が安く売られているので
食べ盛りの子どもがお腹を空かせている我が家には
とてもありがたい店だった。
薄暗い階段を下りた先
マーケットの入り口には
乱雑に積まれた野菜のパックが並ぶ。
クリップで止められた「100円均一」の黄色い札。
私は目についた
チンゲン菜とシイタケをかごに放り込んだ。
――なんでもいいや。肉野菜炒めだな、今夜は。
――ご飯は、冷凍してあったのがあるから、それでいいか
店内は
残業帰りのサラリーマンしかいない時間帯。
果物を横目に奥に進むと
精肉売り場は5割引シールの貼られたパックの肉が
ズラリと並んでいた。
――安い~~!これはまとめ買いだわ!
――明日の分も今夜のうちに作っておこう。
――反省だな。国会開会中に早く帰れるなんて期待する方が間違っていた。
その頃の我が家はエンゲル係数が激高だった。
食費はいくら切りつめても
総量が小さな節約を凌駕する。
お米は、朝晩それぞれ10合=「一升」が消えてなくなる。
焼肉をするなら、肉は3㎏、イモ、玉ねぎ、なす、人参、南瓜、山盛り。
肉じゃがは、肉2㎏、イモ2㎏、玉ねぎ2個。
餃子は250個。包むのだけで2時間。
夕食は大皿で4品つくると決めていたので、
たとえ冷蔵庫に肉が10㎏あっても
3日で消える計算だ。
5割引きのシールが貼られた肉のパックを
片っ端からカゴに放り込み
レジへ急いだ。
合計3,000円ちょっとかぁ!
これで5日は食べられる。
お買い得!
マーケットの滞在時間は3分だった。
レジ袋に買った肉や野菜を手際よく詰め込む。
両手にずっしりと袋を携えて店を出ると
じっとりと雨が降りはじめていた。
――えーっ。もう降ってきたのかー。
――夜半に雨降るって言ってたなー。
――もう「夜半」か。さ、急いで帰ろう!
商店街の薄汚れた桜の花飾りが
街灯の下で揺れている。
――もう梅雨に入るのに
――まだ桜なんかぶら下げているからここはパッとしないのよ
今日の私は少し毒気があるかもと
思いながら
バックから折り畳み傘を出して
大量に買い込んだ食材を
両腕にぶら下げ
雨の小道を急いだ。
ド近眼の私には
雨の夜道は
道路の凹凸が判別しにくく
危なっかしい。
――歩道の段差に気をつけないと
――こないだ国会見学案内で転びかけて捻挫しちゃったんだから、
――まだちょっと痛いし
霧雨は
蒸し暑さを伴って
靴を濡らし
安物の折り畳み傘からはみ出た肩には
雨がじっとりと浸みこんでいた。
腕に下げたビニールの買い物袋が
重さでずるりと手首まで落ちる。
ビニール袋と一緒に
上着の袖もずり下がった。
半分脱げかけた上着から
カットソーの肩がむき出しになる。
――重いーーー。
――なんでこんなに買っちゃったんだろう。
顎と肩にはさんで
なんとかさしていた傘が
一歩歩くたびに
ずり下がってくる。
霧雨は
私の眼鏡を濡らしていた。
――それじゃなくても見えにくいのにー
――重たいよー
――肉、買い過ぎた~~
――今日はついてないな、ほんと。
真っ黒に濡れた歩道を
重いレジ袋に重心を取られながら
よろよろと歩く。
捻挫した右の足首も
まだ少し腫れている。
雨なのか
汗なのか分からないくらい
額も濡れていた。
街灯の真下を通るとき
足元の水たまりに
白く反射する街灯が
雨のしずくでゆらりと揺れた。
その瞬間、
今朝の会議の席で
議員に怒鳴られた言葉が耳に蘇った。
「政策秘書なのにわからないなんて
どういうことなの!
アンタ!やる気あるの!辞めたいの!!」
50人もいる会議の席で
そんな言い方しなくても。
意地の悪いお局秘書が聞こえないフリしながら
私が叱られているのが嬉しそうだった。
辞められるものなら
辞めたいよ
私だって。
そう呟きながら
目を上げると
真っ暗な小学校のブロック塀が見えた。
ここを過ぎて
通りを渡り
左に曲がれば
家だ。
もう22時半過ぎたかな。
急いでご飯作っても
23時は過ぎるなぁ。
お腹空かしているだろうなー
悪いことした
ごめんねぇ。
お母さん、でき悪いなぁー。
急いで帰るからね。
ごめんねぇ。
早足で歩く脚元に
いつの間に両腕からぶら下がっているレジ袋の列が
振り子のように私の脚元に交互にぶつかる
ぶつかってくる袋を
脚でさばきながら
目の前に現れた
水たまりを
よけようとした
次の瞬間
レジ袋は
私の脚にからまり
その重さで
私はブロック塀に右の上半身をぶつけ
スローモーションのように
歩道にゆっくりと倒れこんだ
突っ伏した水たまりの中に
破れたレジ袋から
さっき詰め込んだ肉のパックが散らばっている。
転んだ瞬間にずり下がった眼鏡は
雨と汗と
私の吐く息で白く曇っていた。
私は
散らばった食材をかき集め
肩から掛けていた鞄に押し込んだ。
「豚肉どれでも3つで1000円!」
「鶏もも肉380円均一」
「半額」
「半額」
「半額」
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・
・
。
破れたレジ袋と
散乱した半額の肉のパックを鞄に詰め込む
泥だらけの
自分の手を見たとき
何かの塊が
喉の奥のあたりから
噴き出してきた
ううう
うわああああーーん
Orz
わたしは
水たまりに両腕を突き立てたまま
地面に向かって
声をあげて泣いていた
涙の塊が
決壊したダムのように
とめどなく
溢れ出た。
どのくらい泣いていただろう。
しゃくりあげながら
脱げた靴を拾い
私の膝の下でつぶれたチンゲン菜を拾い
びしょ濡れになった自分を見て
もう一度
泣いた
私は泣いた顔のまま家に帰った。
化粧はとっくにはげ落ちていただろう。
子ども達は
玄関でいつも私がするように
「お帰りー!
濡れちゃったね」と
バスタオルを持ってきて
びしょ濡れの私を拭いてくれた。
私は
あの日の夜のことを
忘れない。
仕事もできなくて
頼る人もいなくて
嫌な仕事を辞められもしなくて
「助けて」とも言えなかった
あの日の私を
平気なフリをして
涙の塊を飲み込んで生きていた
独りで頑張っていた
格好悪い私を
いまでは愛しい私を
一生
忘れない。
雨の夜に。




