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こごめ大福が美味い。

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6/22金沢
夜中に金沢に到着。中心市街地は駅から遠く離れているが、トコトコ歩いていく。この離れ具合は新潟と似てる。地方都市全般そうなのかもしれん。もっきりやでライブやっていたのだが間に合わず。サイモンコスグローブという人の。ええと、名前知らない人の音をどんどん聴こうという気持ちです。入れなかったで、近くのpapermoonというところでウイスキーを1杯だけ。そのあとふらふらと金沢探索。夜、新天地で客引きの婆に声をかけられる。だから今回はそういうのいらないよ。12時過ぎまで街中を徘徊して、漫喫へ。あっという間に寝る。翌朝5時起床。不思議と目が覚める。ぼやぼやした頭で街を歩く。川沿いに出る。川が巡っていることの豊かさは郡上八幡にもあったが、それは。
朝、なぜかマックが食いたくなりメガマフィン。
朝から兼六園。で、とても豊かな光景なのだけども、それを手入れしているじいさんとばあさんが光景になじんでいる。ここでも中国人観光客。芭蕉の句、赤々と日はつれなくも秋の風。金沢城への水道。芝生と苔の分布、植栽の分布。空白を埋めるかのような囲い。民芸美術館で浦和高校の池田京史君のspring chairを見て感じ入る。浦和高校は文化祭の門が有名らしい、むべなるかな、彼は門作成の隊長だった。
10時を過ぎたので21世紀美術館へ向かう。内外と半透明の概念を徹底的に推し進めるとこうなるのだなあという建築だと思います。これが成立するのは、物理性が削ぎ落とされたアートだから、なんてことを思ったり。充分なんですね、プロジェクタとモニターとがあれば。陰影効果とかそういうのあんまりいらない。空間性によるアートっていうのが、唯一ジェームスタレルとアンジェロで。彼ら建築じゃない。タレルは建築的ではあるんだけど、あまりに空白というか時間の概念がないというか。風化しちゃったら終わりというか。それで言えばスプツニ子がやっぱりトリだったのだろうな。意味がどんどんメタ化してって、作品内容よりもそれを形成した人脈や環境に話が行ったときやっぱり若い女性っていうどうしようもないアドバンテージになってく。これを俺は超えたい、超えなきゃならない、ゆえにイースタンユース。岐阜へ向かう。

郡上八幡
・岐阜からバスで2時間、郡上八幡。城下町プラザで降りて街をぶらぶらする。宿の予約取ってなかったので、何件か飛び込みで聞いてみたが、今日はもうやってない、との返事。まあそうだよな。都会じゃねーんだから。結局吉田屋で宿をとる。これがこの旅唯一のホテル泊。こういう旅って一人だよな。荷物を置いて街を見て回る。予想以上に大きく、そしていたるところ整備されていて驚く。ディテールまで気が抜かれてないの。デザインされてるというか、気が届いているというか。それは立ち寄ったそば屋兼飲み屋(俄、てなまえだったか)でもわかったが、観光客のいない平日は、街の人らが普通に寄り集まっている。ほかの店でもそうだった。地域のコミュニケーションが濃すぎるのだろう。それゆえにホールの姉さん達はチャキチャキにならざるを得ないし、ま、俺のようなどっちつかずには大変に居心地よろしくないのだろう。この土地で狂ってしまう人もいるかもしれないと思いかけたが、深夜に道を徘徊していたときに聞こえてきた歩道べりの水路のせせらぎを聞いて、これならば狂わないと思った。200年続く、ずっと続くだろう、この土地は。もともとのインフラ整備(水路、樋。下水などの水系)が歴史的に整備されていたことは幸運であったのでしょう、温泉とかの、観光資源でなく住の生活基盤が既存の財として初期装備されていたことは、必要経費のかからないくらし、として優位だった。豊かだったのだろう。加えての公益拠点としての性格から、地場の生産能力を超えて発展しえたのでしょう。そしてやはりここにもあった、ジャズの流れ。土取利行、桃山晴江の世界。正直、youtubeで探した音源は退屈極まりなかったが、それがもたらした力はなんだったのか。そしてなぜどこかしこでジャズは行われるのか。地域が文化で語られる時に、近世の為政者の影は薄くなり、そこで生きている民、じいさまとばあさまの皺があちこちに刻み込まれる。下水の整備と樋屋の稼業については興味を持ちました、この街の。

翌朝は早く起きて郡上城を見学。早すぎて空いてません。最上段の東屋の柱丸太がギミックで作られていて笑う。まあこれが食玩に起源しているわけではないのだろうけど。無駄に高いところに上り、城下を眺める。昔はこれがさぞ絶景だったのだろうけど、それは今も変わらない。土地の物語を少し教えてもらっている気になる。山を降りて街を歩く。象設計の作品も見た。水の径はかなり自然に染まっていてよかった。実に街全体が矍鑠としている。演劇もいいものがやっているっぽい。それでも俺はここに住みたいとは思えない。ミカナさんがここに住みたいと思った訳を聞きたいと思った。
九時をすぎると博覧館が開き、中国人観光客が雪崩をうって押し寄せる。いかにも富裕な人々だ。正直にいえば腹の出た醜い中高年だ。皆ろくに展示など見ていない。郡上踊りの説明をするチャキチャキの女の子が中国語を節々に交えながら郡上おどりを実演して見せていた。通訳のガイドが通訳するたびに拍手が起こる。この光景にいささか思うところはある。展示が終わり、土産物コーナーにたまっている人々を通り抜けて、表通りを歩いているとまた別の団体が。道端では、開店準備をしている喫茶店のママさんが店の前の花壇にしゃがみこみ、手入れをしていた。その横をずんずんと通り過ぎる観光客たち。やはり思うところはある。観光で生きていく、と決めた人たちの誇りの所在、というのを知りたいと思った。城下町プラザから岐阜行きのバスに乗る、途中、円空研究館を通る。



















6/22 柏崎
ひとめ原発を見ようとして柏崎へ。バスで新潟から。途中のインターで降り、歩きで向かう。途中のバスはギャルっぽい子が乗っており、柏崎くんだりまで何しに行くんだといぶかったが、あ、自分ちに帰るのね、と合点。

車しか通らないような道を、でかい荷物背負ってトコトコ歩く。原発が立地されるだけあり、人はてるところという印象が強い。3キロほど歩いたが、その間、他に歩いている人はいなかった。こういう場所だと、場所を点としてしか認識できない。道すがらは移動するためだけの空間になっている。

移動中に田中角栄記念館があり、ふと立ち寄るが今日は閉館。残念。小高い丘の上にあったのだが、隣に中国庭園が併設されていた。日中国交正常化のゆかりによるものらしい。

信越本線沿いに歩いていくと、線路沿いに廃墟がある。原型がわからないほどぐちゃぐちゃになっている。この光景がなんだか柏崎(というか刈羽)の記憶に結びついてしまう。単純に言えば、絶望。これを見た後に柏崎原発を眺めると、原発が希望に見えてくるような心情がよくわかる。廃墟を審美的に眺めるような目つきでは、とても太刀打ちできない。真正面からとらえなおす力、そのよすがが角栄の碑だったり、中国庭園だったりするんじゃないか。途中のコンビニで休憩してたのだが、ワンピースとか食キングとかに交じって、なぜだかデストロ246が置いてあり、すごくこの風景に合うと思いながら読んでいた。

刈羽に着いて原発を見に行く。サービスセンターで丁寧に対応され、展示を見て回る。福島の状況説明に展示の半分近くが割かれている。内容は知っての如し。ただ、これを一から十まで読み込む人がいるのかなあと思う。最上階からは原発の端っこが見えるのだが、端っこしか見えない。

電車を待って柏崎の駅へ。ブルボンの社屋だけがぴかぴかだった。









6/21
婆さんの見舞いと爺さんの墓参りを兼ねて新潟へ。仕事を始めてからは行くのは三度目か。どちらも葬儀がらみであったため、何もなく行くのはこれが初めてだ。前回はじいさまの葬儀。あれから兄貴には子供が生まれた。大ちゃんも。俺だけ、何も変わらない。変わらないこと、っていうのは字面にするとそれなりに意味のあるように見えるが、現実としたらなんともやるせない状況。

前日に新潟入りして、夜の元町を歩く。客引きとおぼしき黒服もあまり声をかけてこない。政令指定都市の指定時に、条例が強化されたとかされていないとか。こうまで声をかけられないと、お前ら仕事しろという気になってくる。
目当てのJAZZ FLASHへ。いわゆるジャズバーに入るのは初めてなのでそれなりに緊張する。今日はちょうどライブだったらしく、チャージを払って中に入った。聞いたことないジャズバンドがやっており、上手いか下手かわからないのだがああこれがジャズバーなのねと思いながら内輪で構成された店内に座る。こういう内輪感は、好きなような嫌いなような。属したがってるのは本音なのだろうけど。落ち着く店ではあると思います。終わった後の飲みで、リーダーのサックスの方が輪に入れと言ってくれた。どうもありがとう、だがちょっと今はそういう気分でない。飲みは早々に辞す。おわりに新潟ジャズフェス的なものの存在を知った。このあと、行く先々でジャズフェスなるものを目にすることになる。

その後、プルエミタージュっていうバーで飲む。ラフロイグとフォアローゼス。ロックのみやめようかな。マスターが元絨毯屋だたり、途中でギター兄貴が入ってきたりして、その間も店のビジョンにはコパアメリカが写っていた。モニターがある飲み屋、っていうのは、なにかを感じてしまう。その日は三幸製菓の下で床に横になって眠る。

翌朝、始発の越後線で寺尾へ。駅に降り立って、亀貝まで歩く。土曜日だからなのか、人影はまばらだった。いつも盆にしか帰らないので、日常を見られた気がする。俺がここに住んでいたら、どうなったんだろうか。間違いなく東京に行きてえと思っただろう。それほどに何もなかった。亀貝橋を渡るときに、流通センター側が開発されてるのを見、また、川向うに県庁がそびえてるのを見る。拡幅される道路や、小さいころから変わらない公園を見る。以前ほど、目の前の光景に絶望や憤りを感じることがなくなり、それよりも、目を細めてありがたがることが多い。こうなること理由や必然がわかり、そこに僕の意思なんて関係がないこと、そしてどんな状況も人々の営為なのだ、ということで、肯定するしかない光景というものを強く感じる。どうやって肯定するか、に興味がある。世を変えたいとは思わない、認識を変えたいんだ。

婆さんは痩せていたが肌艶よく元気だった。すこしほっとする。声荒げて怒ることなく、爺さんの思い出を語ること、自分の病状を語ることが多い。もうそこにしか興味はないのかもしれぬ。私の父母もいずれそうなる。そうなったときに、俺はどんな気持ちで、いまの父母のポジションにいるのかと思う。実に面倒だ、実に面倒だが、もっとあけらかんと接したいものだ。私の父母はちっと野暮なのだ。まじめだけど。

爺さんの墓参り。3人で出かける。墓に手を合わせることが、自然にできるようになる。逆にいえば、何を祈っていいかわからないのだ。無心で手を合わせている。その時、横にいる人のことは目に入っていない。どういう心持なのか、今度聞いてみようとは思う。

急きょ村松へ、母方の祖父母の墓参り。伯父伯母と話す。いとこは実家に帰ってきていた。彼にがんばれ頑張れと声をかける私の母に少し苛立ちながらも、落ち着いた顔のおじさんに助けられる。一時間ほどで辞して亀貝へ帰る。

父親に車出してもらい建築めぐり。新発田のレーモンド建築と内井照蔵建築を見る。帰りに村野藤吾の瞑想庵。それよりも、併設してあった中国庭園に何かを思う。田中角栄と中国について。柏崎でも同じことを思う。
レーモンド建築を見て思ったが、断面にするとアイデアがよくわかる。プランで問題を整理し、エレベーションで表象を謳い、セクションで建築にする。その感覚は設計にとても役立ちそうだ。内井建築は頑健そのもので、同業者好みな感じがしました。

帰って爺さんの仏壇に線香あげて晩飯。酒を飲んで寝る。酒にだらしなくて母親があきれる。おっしゃる通りで、もうあんまり飲まないようにしよう。

翌朝、父親に送ってもらい、駅へ。ふと思うところあり、予定を変更して柏崎へ向かう。