シロナガスクジラのブログ

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好き嫌いは別にして、『ラストタンゴ・イン・パリ』は、メソッド演技を代表する俳優マーロン・ブランドが、ある意味その演技の頂点を極めた作品だった。

 

1950年代に『欲望という名の電車』や『波止場』といったエリア・カザン監督の作品その他で、名声と高い評価を得たブランドだったが、60年代には出演作の興行的な失敗や、様々なトラブルに見舞われ、人気も評価も収入も下降する。1972年に『ゴッドファーザー』で復活をとげることになるのだが、その前作、イギリスで撮られた『妖精たちの森』は、キャリアどん底の作品ともいえる。

 

しかし、すでに大作『ゴッドファーザー』の出演が決まり、監督のコッポラがイギリスで撮影中のブランドを訪ね、打ち合わせをする中で、ブランドの演技に対する情熱は自然と高まっていく。

 

『妖精たちの森』はいかにもB級映画という趣だが、ヘンリー・ジェイムズの小説で映画化もされた『ねじの回転』の前日譚という設定の中、生(性)と死が見事に対比されている。何よりブランド演じるピーター・クイントというキャラクターが強烈な魅力を放つ。

 

貴族の両親を事故で亡くした子供たち、姉のフローラと弟のマイルズの家庭教師を務めるジェスルは、ブランド演じる屋敷の使用人、クイントとのセックスに溺れる。けれども教育を受けた彼女は、学のない彼を心の底で軽蔑している。それを感じたクイントは、ジェスルをロープで縛って責める。言葉でも責める。彼女の優越感をおとしめる。セックスにおいて対等になろうとする。

 

その二人の情事を弟のマイルズがのぞき見している。そして姉と一緒に意味もわからないままにマネをして遊ぶのである。セックスごっこ、あるいはSMごっこである。

 

家政婦に邪魔をされ、逢引きできなくなった二人の手助けをするのは、当然のように子供たちだ。姉弟の手引きで、久々の逢瀬に喜び、興奮するジェスルだったが、「俺には君が必要なんだ。一緒にいて欲しい」とクイントに言われると、思わず「あなたのブタ小屋で一緒に住むの?」と答えてしまう。

 

このやり取りは『ゴッドファーザー』の次の出演作、『ラストタンゴ・イン・パリ』で再現される。「君を愛してる。一緒に暮らしたい」と言うポールに、ジャンヌは「あなたの安宿で?」と応じるのである。

 

映画『ラストタンゴ・イン・パリ』には、ポール(マーロン・ブランド)がジャンヌ(マリア・シュナイダー)を抱きかかえたり、おんぶしたりするシーンが5つある。

 

最初は空室のアパルトマンで偶然に出会う場面。ポールは突然ジャンヌを抱きかかえ、その後セックスする。

 

次はアパルトマンでの会話シーン。ポールがジャンヌのことは何も知りたくないと言う。ジャンヌは怒って、ふてくされる。ポールは全裸のジャンヌを肩に担ぎ、ぐるぐる回ってから降ろす。ジャンヌは子供のようにハシャぎ、「もう1回やって」と催促する。

 

3回目は、フィアンセとの撮影から抜け出したジャンヌが、アパルトマンへ行き、ポールに「あなたとは別れられない」と言った後だ。エレベーターの中で、ドレスの裾をまくり上げ、ポールを刺激するジャンヌ。次のシーンでは、ポールがジャンヌを抱きかかえて部屋に入ってくる。二人でベッドに倒れ込み、当然セックスする流れだったが、ネズミの死骸を見つけたジャンヌは、気味悪がって「帰る」と言い出す。

 

しかし、ポールが雨に濡れたドレスのままだと「肺炎になる」と言い、出て行こうとするジャンヌを引き留めて肩に担ぐ。脚をバタバタさせて抵抗するが、場面が変わると、おとなしく湯につかっている。ポールは子供にするようにジャンヌの体を洗ってやる。これが4回目だ。

 

最後はカフェのシーン。ジャンヌは既にポールに対して白けているが、「踊ろう」とポールに誘われ、おんぶされると笑顔になる。酔っ払った二人は、タンゴのコンテスト中のフロアで楽しそうに戯れる。

 

こんなシーンもある。ジャンヌはフィアンセのトムに撮られる映画に嫌気が差している。自分は物じゃない。トムの思い通りに演じるのは嫌だ。喧嘩して叩き合うが、最後は抱き合い、仲直りする。理屈ではない。こんな風にして男女は、離れたり、くっついたりする。それが本能なのか、愛なのか、共依存なのかは別にして。

 

アパルトマンを一緒に見たジャンヌとトムは、キスでもハグでもなく、握手して別れる。契約が成立した後のビジネスマンのようである。

 

ジャンヌはポールの性的な魅力に引きつけられたのだろうか。面白いことにジャンヌは、結婚後も愛人の存在を想定しているような会話をトムとしている。

トム「結婚が失敗したら?」

ジャンヌ「車みたいに修理するわ。夫婦は2人の修理工よ。エンジンを修理するの」

トム「不倫した場合はどうなる?」

ジャンヌ「修理工は2人じゃなく、3人か4人よ」

 

 

『ラストタンゴ・イン・パリ』に出演したマリア・シュナイダーは、アナルセックスのシーンについて何も知らされていなかった。脚本にはなかったし、事前の打ち合わせもなかった。撮影でいきなり尻の割れ目にバターを塗られ、マーロン・ブランドに下半身を押し付けられる。屈辱と怒りを感じたマリアは、ベルトルッチ監督を生涯憎み続けた。

 

相手役のブランドも苦しんだ。役になりきって感情をさらけ出し、妻の死に涙し、怒りのシーンでは、本気でドアに拳をたたきつけた。監督には本番行為まで要求されたが、それは拒否した。自伝の中にも出演時の苦痛が綴られている。

 

『ラストタンゴ・イン・パリ』は自分自身の内面との葛藤の連続だったので、撮影が終了すると、私は映画一本のために、二度と自分の精神を追い詰めるものかと誓った。内面の奥の奥まで踏みこんでしまった気がして、そんな苦悩はもうごめんだと思ったのだ。前にも書いたが、苦しみを演じるには、実際に苦しみを「体験」しなければならない。苦しんでいるふりなど、できはしないのである(『母が教えてくれた歌』マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ著 角川書店1995年)。

 

ベルトルッチ監督の次作『1900年』に出演した女優のドミニク・サンダは、レイプシーンで本当に犯されたように感じ、撮影後もしばらく泣き続けたという。『ラストエンペラー』に出演した坂本龍一も、「あの場では、僕はミュージシャンだとか、僕はこういうタイプの俳優だということは許されないような、ベルトルッチの絶対君主制の独裁政治が敷かれていて、その力は圧倒的だったんです」(『WAVE』特集★ベルトルッチ1988年)と語っている。

 

マリア・シュナイダーとマーロン・ブランドは、その後も定期的に手紙のやり取りをしていたそうだ。何週間もの撮影と苦痛を共にした経験が、生涯にわたる二人の絆を作ったのである。

 

 

*ネタバレ注意

 

ベルナルド・ベルトルッチ監督は、映画『ラストタンゴ・イン・パリ』で「自分の正体を隠したままで、二人の人間が関係を持つことができるのか。やがて互いの正体が割れ、外部の世界が彼らの世界に侵入してきた後でも、同じように関係を保つことができるのか。その点を追求したかった」(『母が教えてくれた歌』マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ著 角川書店1995年)と述べたそうだが、その言葉に反して、映画では男の正体を知る前に、女は関係の終わりを自覚している。

 

主人公の女(マリア・シュナイダー)にはフィアンセがいたが、偶然にも空室のアパルトマンで出会ったアメリカ出身の中年男(マーロン・ブランド)と関係し、引き寄せられるようにその部屋を訪れ始める。男に名前や素性を明かすことを禁じられ、二人は動物的に、時には暴力的に交わり、子供のように戯れる。カビ臭い部屋は、実家での少女時代を思い出させる場所でもあった。

 

外の世界では、フィアンセが女を主人公にした映画の撮影を始める。女は何度か拒否したものの、結局は受け入れて自分の役を演じる。それはアパルトマンでの振る舞いとは対照的だった。

 

一方の男は、安宿を経営する妻に自殺されたばかりで、悲しみに暮れていた。知り尽くしたと思っていた妻のことさえ、実は何もわかっていなかった。血まみれだった家にはいたくないのだろう、アパルトマンを借りて、正体の知れぬ若い女との関係を続けた。

 

妻の自殺の理由も謎だった。葬式のために訪れた母親にも理解できなかった。男は妻の愛人だった宿の住人を訪ねて話をし、妻が愛人に自分と同じガウンを着せ、同じバーボンを飲ませていたことにショックを受ける。妻には夫や愛人の個性など関係なかった。ただ自分の価値観を押し付けていただけだった。

 

男は突然、アパルトマンを引き払う。家具のない空き部屋にやって来た女は驚いて泣き、二人で住む部屋を見つけたから見に来て、とフィアンセに電話する。やって来たフィアンセは、女と子供のように戯れるが、急に真顔になり、「もう子供みたいに遊べない。(僕らは)大人だ」と告げる。「大人は物静かだ。マジメで論理的、計画的で冷静、あらゆる問題を抱えている。このアパルトマンは僕らに向かない。この部屋はカビ臭くてヘドが出る」と言って、別の部屋を探しに出ていく。一人残った女は、戸締りをしてアパルトマンを後にする。子供をやめて大人を演じる時が来たのだ。そして中年男との関係が完全に終わったことを自覚する。

 

部屋から出る女を男は待ち伏せしていた。めかしこんだ男の顔を見るなり、女は「終わりよ」と告げるが、一緒に暮らしたくなった男は、自分の素性を明かし、女を説得しようとカフェに連れ込む。けれども、安宿を経営する流れ者の中年アメリカ人など、若い女にとって軽蔑の対象でしかない。

 

カフェはタンゴのコンテスト会場となっていた。男は女をダンスに誘い、おんぶしてフロアに出ると、女は笑顔になる。無表情で踊っていた10組の男女の間に入り、女は男と楽しそうに踊るが、主催者に追い出されて再びテーブルに着くと、「終わりよ。もう二度と会わない」と言って店から出ていく。走って逃げる女と後を追う男。すでに関係の終わりを自覚した女にとって、しつこく付きまとう男は、もはやストーカーでしかなかった。そして……。

 

 

人間のセックスは独自の進化を遂げたようである。しかし浮気をする点は、人間も他の動物と同じままだ。発情期があってオーガズムがなければ、ただの生殖行為だったのに、なんでこんなに複雑になったのだろうか。

 

『セックスしたがる男、愛を求める女』(アラン・ピーズ+バーバラ・ピーズ著 藤井留美訳 主婦の友社2010年)には、次のような指摘がある。

 

オーガズムがあるのは人間の女だけ。ほかの動物の交尾は7~10秒程度で、純粋に生殖のためだけの行為だ。(中略)オーガズム時の膣内をカメラで調べると、絶頂に達すると膣の筋肉が奥にしぼりあげるように収縮し、子宮頸が下におりて子宮口が開く、掃除機のように、男性から発射された精子を吸い上げようとするのだ。それを考えると、妊娠するためには男と女が同時にイクことが重要になる。

 

しかしながら、多くの女性はセックスでオーガズムが得られない。もちろん男性にも問題があるのだが、鹿島茂氏はこう語っている。

 

オナニー未経験の人(女性)にいきなり快楽を、オーガズムを与えようとするのは、かなりのセックス巧者でも大変です。なぜかというと、私が散々考えたあげくに出した結論によれば、男は勝手に女の体を使ってオナニーをしているけれども、女にとってのセックスも、実は同じなんですね。つまり、男の体を使ってオナニーをしているんですよ(『セックスレス亡国論』鹿島茂著 聞き手・斎藤珠理 朝日新聞出版2009年)。

 

なんだか学生時代に習った「結婚とは性器の相互使用である」、という哲学者カントの言葉を思わせるが、鹿島氏はさらにこう続ける。

 

実は、女の人も、動かなくてはならないんですよ。自分の方から快楽を得るポイント、動きを体得しない限り、駄目なんです。男がどれほどテクニシャンでも、女の方が動かなければダメ。女の人がベテランになればなるほど、快楽のポイントを得られるようになるというのはそのためなんです。繰り返していれば、そのうち、腰の動きなどで、快楽を得るコツがわかりますからね。(中略)欧米映画のセックスシーンがあったら見てください。必ず女性が上、騎乗位で頑張っていますから(『セックスレス亡国論』)。

 

今ぱっと思いつくのは『ブリキの太鼓』だけだが、確かにヨーロッパ映画などでは騎乗位のシーンが多かった気がする。『チャタレイ夫人の恋人』でも、愛人が先にイッてしまったので、主人公のコニーがそのまま腰を動かして、後から悦びを得る様子が描かれている。