民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)は普段の生活である「日常」を表している。
「ハレとケ」という概念関係の捉え方は、柳田國男が近代化による民俗の変容を指摘する一つの論拠として、ハレとケの区別の曖昧化が進行していること(例えば、ハレの儀礼時にのみ行っていた特別な飲食が日常的に行われる、など)を提示したのが始まりである。
なんて、本を読んで知った。
自分の生き方を考えると、ケのハレを目指してきたようなところがある。
今日はハレというと、照れくさい。
ケというとなんか、貧乏ったらしい。
男だからというわけでもないが、晴れ着はもたない。
よそ行きもない。
でも、ケであってもちょっと、違った服にとおもいならも、
センスはイマイチだが、ケのハレを目指すのは、同じ。
友達、ガールフレンド、それぞれの個性によって、ご案内、ご一緒する店も変る
まずは、大将の人柄、次が料理、お酒とくるが、もう一つ誰と行くかによって
その店がケのハレになるか。
ハレだけになるか、ケだけになるかは、同行する人によって決まる。
「ケのハレの店」
ちょこっと京都というTV番組にも、偶然そんなフレーズがあった。
もともと、霽れと褻という言葉は、柳田国男(民俗学者)の言葉だったような。
江戸っ子も美学は同じところがある、ケのハレは粋でかっこいい。
行き着くところは、東西とわずだろう。
少し京都のハレとケとは違うのだろうが。
ハレの店は行かないし、服もない、いつもケだけどどこか粋、ケのハレを目指す
人生でありたい。
下北沢を少し南上すると三軒茶屋、下町の中にケのハレの雰囲気が残っている
下北はごっちゃだが。ケでもありハレでもある、ケもハレもないともいえる。
街がこの街のよさか。
好きな場所は、西麻布、狸穴あたり、ケのハレを探して、少しあしをのばして
乃木坂あたりも。
あとは、三鷹、吉祥寺にも、ケのハレは残っている様な気がする。
神楽坂は今はもうほとんど、ケのハレはないが、一寸前まであったはず。
今は、荒木町あたりのほうが、残っている気がする。
京都の美学、東京の粋は違うが、鰻は蒸したもの、鰻の名店、秋本でもランチは、
ケのハレ、リーズーナブルに食べえる。
基本は、関東人だからにぎり寿司でも、押し寿司は、やっぱりサバ街道から来た京都のもの。関西のものがうまい。
鱧、料理は、たん熊、東京ドーム店は、たん熊北店、ハレのハレだが良い店だ。
とはいえ、経費が青天井なんて時代は、そんな店ばかりハレ、ハレばかりだったが。
今は自腹となれば、ケのハレの店、服、人生を探して今日も街を徘徊する。
高級店だからハレでもなく、使い方でケにもなるし、ケの店でもハレになる
それは、大将(マスター)とご一緒する友人知人、女性か男性、年齢も加味して
夜の街の店選び。ランチが良い店、夕方から夜が、あう店。
時間とか、気温、季節により、ケがハレとなったりもする。
明るいうちはケでも、午前零時の深夜からがケのハレになる店もある。
ケのハレの店は、食べ◎◎などでは、なかなか見つからない。
ホームページもない、入りにくい店こそに良い店があるのかも。
僕の行きつけのバー麻布十番の狸穴坂あたり、看板がないバーがあるが
連日、8席~10席の店が、そこそこではやっている。
西麻布では、創業30年のおでん屋、新しいけどレトロな店。
それでも、ケのハレといえるだろう。
口コミ、そして、人と同じ出会いできまる。
袖触れあうのも多生のご縁。
相性がすべてでしょうか。
寿司屋は、そば屋は、天ぷら、ビストロ、イタリアン、何処、
いろいろと、ケのハレの店、それは大将と店と、友人との融合で
変幻自在に変化する。
食べ◎◎で、☆☆☆☆☆でも、僕の好きな店は、☆☆なんてことも
あります。
捉え方は、ひとぞれ、そこそこに混まないのもケのハレを演出する。