余震に目を覚まし、寝ることもできそうにない。

原発の様子も気になったのでYahooのニュースを

開いてみた。


原発の様子は一向に変わらず。


悪化しているというわけではなく、

おそらくは、もともと悪かったその状況が、

徐々に明らかになってきているというだけで、

現状は変わっていないのだろうと感じる記事だった。



もう一つ、今回の死者の多くが溺死であるという記事を読んだ。


その中にはこんな高齢者たちも含まれていたという。


防寒のため7枚も8枚も重ね着し、リュックを背負い

その中には非常食であろうと思われるチョコレートや

印鑑、保険証、思い出写真のアルバムなどが入っていたそうだ。


つまり彼らは避難せずに津波に巻き込まれたわけではない。


必死に生きようとして、生き抜こうとして、その最善の努力として

準備をしている最中、もしくは逃げている最中に波に

のまれてしまったのだ。



きっとそれぞれの生き抜きたい理由があったのだと思う。


しかし、想定外とされるその津波は、容赦なく彼らの

命を奪っていった。



彼らの無念さを思うと、いたたまれない気持ちになる。



一方、避難することには成功し、避難所で辛い思いを

しながら暮らしているある高齢者の言葉が、印象的であった

ことを思い出す。


「こんな経験するなら長生きするものじゃないね…」


その方の表情を見ていると、

その気持ちも痛いほど伝わってくる。


つい前日までは暖かい家で、おいしい食事をし、

やわらかい布団でぐっすりと寝れていた日常が一転、

寒く、床は固く、食事もろくに取れず、

プライバシーなど存在しない空間で

寝ることもできず、孤独な時間が過ぎ去るのを

ただひたすら待つしかないそんな状況では

上記のような言葉が出てくるのも自然なことなのだと思う。



もう一つ似たような意味を持つ話を、私は知っていた。


私の友人の祖父母の話のなのだが、

以前に震度6クラスの地震があった時に、

友人と祖父母は一緒に家にいたそうなのだが、

その時に、友人は祖父母に対し

「早く逃げよう」

と必死に祖父母を逃がそうとしたそうだ。


しかし祖父母は

「私たちはもう十分長く生きたのだから

ここで死んでも大丈夫。お前だけ逃げなさい。」

と笑いながら友人に語ったそうなのだ。


結局その地震は大きな被害もなく過ぎ去ったのだが、

これらの話を考えると生きるとは何なのかと

考えさせられずをえない。


生きたかったのに、生きれなかった人々。

生き残ったが、生きてなくても良かった言う人々。

死んでもいいと笑顔で語る人。


私はまだ彼らほどの長い人生を生きたわけではないので、

彼らの心境を深く理解することはできないかもしれない。


だからそれぞれの考え方を否定することも、肯定することもできない…。




生きるということは、一体何を意味するのだろうか?



ちょうどこの文章を綴りながら、もう一つ別な話を思い出していた。


記憶に新しい、ニュージーランドの大地震である。


夢を持ち、新たな一歩を踏み出すために留学という

道を選んだ多くの志高き人々の命が、

無残にもその地震によって奪われた。


しかも、夢のために学んでいた、

まさしくその場所で命を落とすことになってしまったのだから、

本当にいたたまれない気持ちになる。



そんな多くの出来事が世界中で起きている中で、

私自身は今ここで、こうして生きている。


私はこれからどのように生きていけば良いのだろうか?


私が生きている意味とはなんなのだろうか?


この文章の中で答えにたどり着くことはないが、

人間は生きている限り、何らかの意味を持ち、

その意味を果たす役割があるのだと私は信じていたい。



最後にはなるが、私自身が二十歳の時に母を亡くし、

悲しみに暮れている時に、葬儀を担当してくれた僧の方が

私に何度も伝えてくれた言葉があるのだが、

その言葉を紹介してこの文章結びたいと思う。




『あなたのお母さんが、52年間という人生において

最後に「死」という形であなたに何かを教えている。

その何かを感じてほしい。感じて欲しい。』