こんにちは侍ままんです。
週末はワクチンの副反応に苦しんでいた私を除いた、旦那様と娘たち3人で、余命1カ月の宣告を受けた、旦那方のお義父さんのお見舞いに出掛けて行きました。
お義父さんは一昨年、肝臓ガンで手術をしたものの、肺に転移が見つかり、現在は自宅療養中。
帰宅後娘たちに「おじいちゃんどんな様子だった?」と聞くと「何ていうか『死にそうだった』よ。」という返答でした。
そうだよね。
余命宣告を受けているんだから『死にそう』というのは、大袈裟な表現ではなくて、むしろ妥当な形容なんだと思う。
娘たちには、本当に『死にそう』な状態ってどう言うことなのかをきちんと知っておいてもらいたかった。
今までに、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんのお葬式に出たことはあるけれど、お葬式で対面するのは、当然だけど亡骸。
そこに至るまでの過程を見ることは、ありませんでした。
私だって、人間がどうやって死に向かって行くのかなんて知りません。
だって大抵の死は、想定外に起こるものだと思うから。
でも今回のお義父さんのケースでは、言い方は良くないのかも知れませんが、先が見えているのです。
最期を迎えるその時まで、当事者であるおじいちゃんとそれを支えるおばあちゃんと、息子である父と、自分を含めたおじいちゃんに関わりのある人たちが、何を感じてどう過ごすのか、一生のうちでそう何度も経験出来ないであろう、貴重な体験。
子どもたちが会いに行ったとき、おばあちゃんは涙を流して喜んだそうです。
なんとなく分かるんだよね。
私も三女さんのアトピーが最高にひどかった頃。何を食べさせてもアトピーが良くならず、全ての食べ物が【悪者】に見えて、いつかこの手で三女さんを死なせてしまうんじゃないかと怯えていました。
具合が悪くて、今にも死んでしまいそうな人間と、四六時中顔を付き合わせていなければならない緊張感。
誰も救ってくれない孤独。
決して好転しないという絶望。
当事者はもちろん辛いですが、それを見守る人間もまた、相当に辛いと思います。
願わくば、苦しい時が出来るだけ短くて済むように、祈るばかりです。