御嶽山の噴火がありました。
ままん家。
登山します。
御嶽山には子供の頃に登ったことがあります。
山に登って、頂上に辿り着いた人はみな思うはずです。
「もし、いまこの山が噴火したらどうなるんだろう。」
ごく自然に思うことです。
頂上に大きく口を開ける噴火口。
「18●●年噴火」
という説明が書かれていたりします。
いかにも、もう噴火はしません、と言いたげです。
しかし辺りには硫黄の匂いが立ちこめて、ところどころから煙が
上がっていたりします。
とても山が死んでいるようには思えないのです。
今噴火しない保証なんて、どこにもない。
そんな気がします。
そして、それが実際に起こった。
山頂はとても危うい場所です。
畏れを感じる場所です。
そこを目指して、苦労の末に辿り着くわけですが、
実はそんなに長居してはいけない場所のような気がするものです。
実際に”山頂”と言う場所は、それほど広くなかったりします。
強風が吹いていることもあります。
互いに登頂を果たすために、長居をしてはいけない
という暗黙のルールがあるような気がします。
しかし、そんなルールを知らなくても、やはりなんとなく
長くいてはいけない、長くいたくない、そういう気持ちになるところです。
それが『自然に対する畏れ』なのではないでしょうか。
人間は所詮、大いなる大自然の
気まぐれの中で、慎ましく生きるしかない。
山に行くと、心からそう思うもの。
信仰とは必ず何らかの”畏れ”を伴うものです。
畏れているからこそ、その対象に”認められた”とき
”生かされている実感”を得ることが出来るのです。
生きていても良いんですね、そう思えます。
山に魅了されている人は、山に”許し”を乞うために
そこを訪れるのでしょう。
山の魅力はまさに、大自然に許してもらった実感を得るところに
あるのです。
しかし、やはり自然は厳しいもの。
こういうことはいつか、必ず起こるはずだった。
許してくれる、ということは許されないときがあることの裏返し。
人間の認識の甘さ故でしょう。
『自然はいつでも想定外』です。
人間は世の中のすべてを把握したつもりになってはいけないのです。
むしろ、把握できるはずもない。
所詮は、お釈迦様の手のひらで暴れる孫悟空と同じこと。
そんなことを再確認させるために、自然はいつも気まぐれに
我々に警鐘を鳴らしているのだと、思えてなりません。
一度でも山に踏み入ったことのある人間なら、
今回山で犠牲になった人々の、恐怖の片鱗が
ほんのわずかながら想像出来るのかも知れません。
畏れながら辿り着いた山頂で、まさかこんなことになろうとは。
改めて、あり得ない話じゃなかった、と思わされます。
やはり山というのはそういう場所、ということなのか。
畏れるからこその信仰であり、信仰があって初めて
人間は謙虚な生き方が出来るのかも知れません。
この度、犠牲になった方々、いまだ行方不明の方がおられるなかで
改めて『謙虚に生きる』意味を考え直す必要があるように思えてなりません。
故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ままん家。
登山します。
御嶽山には子供の頃に登ったことがあります。
山に登って、頂上に辿り着いた人はみな思うはずです。
「もし、いまこの山が噴火したらどうなるんだろう。」
ごく自然に思うことです。
頂上に大きく口を開ける噴火口。
「18●●年噴火」
という説明が書かれていたりします。
いかにも、もう噴火はしません、と言いたげです。
しかし辺りには硫黄の匂いが立ちこめて、ところどころから煙が
上がっていたりします。
とても山が死んでいるようには思えないのです。
今噴火しない保証なんて、どこにもない。
そんな気がします。
そして、それが実際に起こった。
山頂はとても危うい場所です。
畏れを感じる場所です。
そこを目指して、苦労の末に辿り着くわけですが、
実はそんなに長居してはいけない場所のような気がするものです。
実際に”山頂”と言う場所は、それほど広くなかったりします。
強風が吹いていることもあります。
互いに登頂を果たすために、長居をしてはいけない
という暗黙のルールがあるような気がします。
しかし、そんなルールを知らなくても、やはりなんとなく
長くいてはいけない、長くいたくない、そういう気持ちになるところです。
それが『自然に対する畏れ』なのではないでしょうか。
人間は所詮、大いなる大自然の
気まぐれの中で、慎ましく生きるしかない。
山に行くと、心からそう思うもの。
信仰とは必ず何らかの”畏れ”を伴うものです。
畏れているからこそ、その対象に”認められた”とき
”生かされている実感”を得ることが出来るのです。
生きていても良いんですね、そう思えます。
山に魅了されている人は、山に”許し”を乞うために
そこを訪れるのでしょう。
山の魅力はまさに、大自然に許してもらった実感を得るところに
あるのです。
しかし、やはり自然は厳しいもの。
こういうことはいつか、必ず起こるはずだった。
許してくれる、ということは許されないときがあることの裏返し。
人間の認識の甘さ故でしょう。
『自然はいつでも想定外』です。
人間は世の中のすべてを把握したつもりになってはいけないのです。
むしろ、把握できるはずもない。
所詮は、お釈迦様の手のひらで暴れる孫悟空と同じこと。
そんなことを再確認させるために、自然はいつも気まぐれに
我々に警鐘を鳴らしているのだと、思えてなりません。
一度でも山に踏み入ったことのある人間なら、
今回山で犠牲になった人々の、恐怖の片鱗が
ほんのわずかながら想像出来るのかも知れません。
畏れながら辿り着いた山頂で、まさかこんなことになろうとは。
改めて、あり得ない話じゃなかった、と思わされます。
やはり山というのはそういう場所、ということなのか。
畏れるからこその信仰であり、信仰があって初めて
人間は謙虚な生き方が出来るのかも知れません。
この度、犠牲になった方々、いまだ行方不明の方がおられるなかで
改めて『謙虚に生きる』意味を考え直す必要があるように思えてなりません。
故人のご冥福を心よりお祈り申し上げます。