※今日の記事は、
もしかしたら不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんので、
不快になるのは嫌だ!と思われる方は
どうぞこのままページをお閉じくださいませm(__)m
吃音に関しては、
「吃音さえ無ければ
私の人生変わるのに」
といった気持ちは
今はもうありません。
ただ、会話に困る事があるのは事実だし
どもることを格好悪い、と思っている自分は
確実に存在します。
でもだからと言って
どもることで「自分が相手から下に見られる」という気持ちは
あくまで自分自身のもので
相手が自分のことを
「劣っている人間だ」と思っているわけではないことも知っています。
(そう思っている人もいるかもしれないけれど、
今までの経験では、そうは思っていない人が大半だと感じています。)
そう分かってはいるけれど。
自分がどもることで会話に支障を来しているんじゃないか、とか
からかわれた悲しさ、悔しさ
やっぱりどこかで自分は一人前じゃないんじゃないか、という思い。
を、どもりのせいにしたくなる自分。
吃音を持っている自分から
離れることはできない。
そういう意味では、やっぱり根幹に触れることなんですよね。
だから、吃音である私について
深く掘って行くと、どうしても感情が溢れてしまう。
表面的に吃音について悩んでいるんではないと思う。
でも大元なのかもしれない。
いろいろ言われるけれども
どこかで「どもらない人には分からない!」と
思ってしまう自分もいる。
結局は吃音である自分でもいいんだよ、と
心から納得できないと
根本は解決できない気がする。
今の私には、まだ
「吃音だったから良かった」とは言えない。
やっぱり会話が円滑に進まないと
自分を責めてしまったり、自分に苛立つことが多々あるから。
もちろん得たことは多いのだけれど。
でも・・・
そんな風に心から納得できる日は本当に来るのだろうか。
傷ついた、その時の自分に
「そっか。悲しかったんだね、辛かったんだね。」と
言って寄り添ってあげることはできるけど
吃音は日々進行形なので、
寄り添っている今の私自体が、
日々傷ついていることもある訳で
それを私のテーマにしてしまうと
ちょっと苦しいような。
久々に吃音に関する記事を読んだので
感じたことをそのまま書いてみました。
以前、受けたセッションで
吃音がテーマになったことがあるのですが
(感情が溢れちゃうからね)
ちょっと不完全燃焼というか、
どもっても何も起こらないことは
分かっているのだけど
やっぱりどうにもできない現実が目の前にあって。
捉え方や受け取り方を変える努力は
多々してきたつもりだけれど、
吃音であることは変えられないし、
ふとした時に、こういう
やりきれない思いが顔を出す。
あー、なんかすごく毒を吐いちゃった気分です。
もし不快に思われた方がいらっしゃったら
申し訳ありませんm(__)m