今日は珍しく朝の更新です

吃音について、いま思うこと② の続きです。
「話すことが苦手な人のアサーション-どもる人とのワークショップの記録-」
(平木典子 伊藤伸二 著 敬称略)
という本の中で
鼎談が収録されていて、その中から少し長くなりますが抜粋しますね。
(ここから)
伊藤さん:
どもる人が、自分がなぜ自己表現ができないかと考えていることがらや自己表現の実態について、どもらない人との差というものがありますか?
平木さん:
私のところで自己表現のトレーニングをしている人たちが自己表現を妨げるもの
としてあげていることと、どもる人とに差があるという気はほとんどしませんね。
自分は「どもるからこうなっている」と思っているのを、
「どもるから」というのを取ると、ほとんどほかの人と変わらない。
ほかの人は「どもるから」のところに違う理由があるのです。
たとえば、「私は気が小さいから」とか、
「小さいときからほとんどお母さんと話をしないで育ったから」とか、
「から」の前に違う理由があるということです。
皆さんたちには「どもるから」ということが大きいのでしょうか。
もしかして、それが原因だというふうに思い込まなければ、気持ちが変わるかなあという感じがしています。
(ここまで)
私はこれを初めて読んだ時、
「いやいや、そうは言ってもほかの理由とどもりは違うよ。
どもるのが一番しんどいし。」 と思っていました。
続けますね。
(ここから)
伊藤さん:
アサーション・トレーニングは、「どもるから自己表現できない」という思い込みをとれば、
どもる人を含めて、すべての人が共通してできる取り組みだと考えられますね。
平木さん:
そう考えることができると思いますね。
それぞれの人がこだわっている理由は多分いろいろおありになるわけで、
どもる人たちのなかでも、どもるからって思っている人もいるだろうし、
そうではない人もいる可能性があります。
私がほかの対象者向けに行うアサーションのトレーニングでは、
どもるということがないから、「・・・・・・から」の部分が
多分ほかの理由になっていると思うのです。
どもるということは、
それ自体とても大きなことであることは確かだと思うのです。
どもることは、自分自身の自己表現に直接かかわっていることですから。
けれども、そうじゃない理由まで、どもりのせいにしているとすると、
それは取り除いたほうがいいかもしれないと思います。
(ここまで)
私は、当時どもるから自己表現できない、という
思い込みの塊だったので
どもる人の中で、どもるから自己表現できないって思っていない人がいるかも、とは
考えたことがなかったのでこのお話は衝撃だったし、
ホンマかいな?と半信半疑でした。失礼な私です(;´∀`)
けれど、最近読み返してみて
このお話がスッと胸に入ってきたのです。
「どもるから」 という理由が入ることもあるけれど
「〇〇〇〇から」という違う理由が入ることもあるし、
(むしろ違う理由の方が大きく、多いかもしれない)
人によってもその内容は違う。
どもるから〇〇できない、ではなくて
その奥にもっと深い気持ちがあって、
劣った人間と思われたくない、とか
傷つきたくない、とか
そこがもしかして根っこなのかな、と。
そう考えたら、どもる私がすべてではなくて
私の中の一部分がどもり、というか。
そんな気がしてきたのです。
それでもどもりはかなりの面積は占めています、私の中では(*^^*)
仮にどもりが治ったとしても、
会話する時にとっさに言いやすい言葉を頭のなかで探す習慣は
生涯消えないと思いますし、
これからも、どもってヘコむこともあると思います。
現に今でもしょっちゅうヘコみます(;´▽`A``
でも、頭の中がどもりのことでいっぱいだった頃から
シフトチェンジして、
自分の中で数ある気になることのひとつがどもりであること。
そう心から思えるようになってきたので
今回、卒業を決心することができました。
なんでこう思うことができるようになったのか
それがわかればいいのですが、なぜでしょう?
これもまたいろんなことの積み重ね、なんでしょうね。
ブログネタで「卒業」がテーマになっていたのと
最近、お会いする方に
「ブログで吃音のこと書いてるけど、全然気にならないよ。」
と言われる機会が何回かあったので
いまの思いを書いてみました。
どもって「あー」とか「うー」とか言ってると
思慮深く見えるのか(爆)
ブログを見て、そんなに悩んでたのかと驚かれるようです(^_^;)
長くなりましたが、最後までお付き合い下さってありがとうございましたm(__)m