もうすぐ娘が卒園。
上の子から数えて9年。長かったなぁ。ようやく私も卒園を迎える。
9年の間に何があっただろう。
あらためて振り返ると、本当にいろんなことがあったような気がする。
思えば、子どもが幼稚園に入って、周りのお母さん方との
適切な距離の取り方がわからなかったことが
結局のところ最大の悩みだったと思う。
みんなとうまくやらなければ、と思って
でもうまくできなくて
自分を責め
自分はどこかおかしいのではないだろうか、
これは病気?それとも何らかのコミュニケーション障害?
でも、そうじゃなくてただ単に自分の資質が悪いだけなら
もう立ち直れない、と病院にも行けず
一人で家で泣いていた。
こんな母でごめんね。こんな妻でごめんね。
こんな私が家族を作ってしまって申し訳ない。
もうどうしたらいいんだろう? 取り返しがつかない。
こんな私がいる家族のみんながかわいそう。
どうみんなに償ったらいいんだろう。
と、本気で思っていた。
どもることも含めて、自分をさらさないから
人と打ち解けられないのかな、と
自分を奮い立たせて幼稚園のサークルに入って
どもることをカミングアウトしてみたりもした。
でも、カミングアウトしようがしまいが
やっぱり合う人と合わない人はおり、
そこの判断ができないまま
カミングアウトした後味の悪さだけが残り、サークルもやめた。
ううっ、思い出したら何だかしんどくなってきてしまった![]()
で、今はどうなのかというと
うまくやることは諦めて、一人でもいいや、となかば開き直っている。
話せそうな時に、話せそうな人と話したりしている。
でも、寂しいと思う事はしょっちゅうあるし、毎日の送り迎えは苦痛。
ただ、あきらめた。
そんなこんなで、試行錯誤しながらいろんな学び、気づきが始まっている。
少しずつ、楽になってるな、と感じるときもある。
辛い想いを抱えていたからこそ、
学び、気づき、そして楽になった幸せを感じることができる。
だから、この経験があって良かった。
・・・とは思えない。
今でも、思い出すと辛いから。
吃音に関してもそうなんだけど、
「どもりがあったから良かった(どもりでなければ、できない体験をできている)」
という風に私はなかなか思えなくて、
やっぱりスラスラ話すことができるのであれば
一度くらいは「この言葉、つまるかな?」と考えないで話してみたい、と
思う気持ちは正直ある。
「良かった」と思えないことが、逆に自分を責める材料にもなっていたし。
でも、いま確実に言えるのは、
どもることも、幼稚園ママ時代の辛い思い出も、
私にとっては意味のあることだったんだろうな、ということ。
そして必要なことだったんだろうな、ということ。
「良かった」とは思えなくてもいい。
これから生きていく上で、いつか役に立つことがあるかもしれない。
それで充分・・・かもしれない。(言い切れないところがまだまだ弱い私(;´▽`A`` )