ジョイア・ブルーノ(Gioia Bruno/別名:Gioia/ 出生名:Carmen Gioia Bruno/ 1963年6月11日~)は、イタリア出身アメリカ合衆国のポピュラー音楽歌手で、ヴォーカル・グループ「エクスポゼ」(Exposé) のメンバーとして最もよく知られる。

 

 

 

1963年6月11日、カルメン・ジョイア・ブルーノが生まれる。イタリア共和国バーリ(Bari, Italy)出身。

 

 

1984年、Lewis A. Martinee のプロジェクトとしてラテン/ヒップホップ系の女性3人を集めたダンスポップ・グループ「エクスポゼ」(Exposé)がアメリカ合衆国フロリダ州マイアミで結成される。この時のラインナップは、サンドラ・カサニャス(Sandra "Sandeé" Casañas)、アレサンドラ・ロレンゾ(Alejandra "Alé" Lorenzo) 、トーリー・ミラー(Laurie Miller)。

 

 

1986年、グループ最初のスタジオ・アルバムのレコーディング中に、グループのメンバーがすべて入れ替わった。3人のメンバーにスター性が欠けると考えたマーティニーは3人を交代させる決断を自身で下したと述べているが、元メンバーのミラーはすべて自分たちの選択だったと主張している。

こうしてサンドラ・カサニャスとアレサンドラ・ロレンゾ、トーリー・ミラーは、ジャネット・フラード(Jeanette Jurado)とジョイア・ブルーノ(Gioia Bruno)、アン・カーレス(Ann Curless)の3人に取って代られた。

 

 

1987年3月2日、新生エクスポゼは、1stアルバム『エクスポージャー』(Exposure)をリリースしてデビュー、米音楽誌『ビルボード』の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)16位・同誌「R&Bアルバム」チャート20位、最終的に50万枚以上を売り上げて全米レコード協会(RIAA)から3×プラチナ認定を受けた。本アルバムからは、“シーズン・チェンジ”(Seasons Change)が同誌の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)1位・同誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)1位・R&B14位になったのをはじめ、”カム・ゴー・ウィズ・ミー” (Come Go With Me)が全米5位・同誌ダンス・クラブ・ソング(以下「ダンス」)1位、“ポイント・オブ・ミー・ノー・リターン” (Point of No Return)が全米5位・ダンス1位、ブルーノがロードを歌ったミドル・テンポのナンバー“レット・ミー・ビー・ザ・ワン”(Let Me Be the One)が全米7位・ダンス2位、"Point of No Return"がダンス1位とヒット・ナンバーを多数輩出した。

 

 

 

 

 

 

 

いきなり人気絶頂を迎え順風満帆に思えたエクスポゼだったが、グループは舞台裏で法的問題を抱えていた。ブルーノによると、彼女達に支払われたギャラは1公演につき僅か200ドルだけだったという。伝えられるところによると、レコード会社が介入しなければならなかった程この問題はモメていたようだ、結局、この介入にもかかわらずメンバーは訴訟を起こし、最終的に再交渉された契約で法的訴訟を解決した。

 

 

1988年、ブルーノの最初の結婚相手ジョセフ・パストーレとの間に娘ブリアナ・パストーレが生まれた。ブルーノは生涯で2回結婚、離婚する。

 

 

1989年6月13日、2ndアルバム『恋のダンス・パラダイス』(What You Don't Know)をリリース、全米33位・RIAAゴールドを獲得した。ここからは、タイトル・トラック“恋のダンス・パラダイス”(What You Don't Know)が全米8位・ダンス2位・RIAAゴールド、“テル・ミー・ホワイ”(Tell Me Why)が全米9位・ダンス3位、“彼を見つめて”(When I Looked at Him)が全米10位・AC3位、“イン・ブルー”(Your Baby Never Looked Good in Blue)が全米17位・AC17位、“ストップ、リッスン、ルック&シンク”(Stop, Listen, Look & Think)がダンス19位と前作程ではないにしても引き続きヒット・シングルを多数出した。

 

 

 

 

 

 

 

1990年8月、エクスポゼのツアー中、ブルーノは喉の調子が悪くなり始めた。後に声帯の良性腫瘍と判明した。グループは彼女の回復を願ってスケジュールを休んだ。だが結局、ブルーノは声を失い、数年間まったく歌えなくなった。

 

 

1992年、ブルーノの代わりとして、ケリー・マネーメーカー(Kelly Moneymaker)がエクスポゼに加入した。

10月9日、マネーメーカー加入後1枚目のとなる3rdアルバムは、グループにとって初のセルフ・タイトルとしてリリース。ブルーノのいない『エクスポゼ』(Exposé)は、チャートでは全米135位止まりだったが、最終的にはRIAAゴールド認定を受けた。また、マルティネ以外のプロデューサーを起用した最初のアルバムでもあり、クライヴ・デイビスがエグゼクティブ・プロデューサーを引き継ぎ、マルティネは4曲のみのプロデュースに携わった。ここからは、 “ネヴァー・ゲット・オーヴァー・ユー”(I'll Never Get Over You Getting Over Me)”が全米8位・AC1位・RIAAゴールド、“愛のテレフォン・コール”(I Wish the Phone Would Ring)が全米28位、“アイ・キャン・ドリーム”(As Long as I Can Dream)が全米55位・AC21位、“イン・ウォークト・ラヴ”(In Walked Love)が全米84位・AC17位をマークした。

 

 

 

 

1995年、映画『フリー・ウィリー2 冒険の旅』のサウンドトラックに、ダイアン・ウォーレンが書いた曲“アイル・セイ・グッバイ”(I'll Say Good-Bye for the Two of Us)をジュラードがリード・ヴォーカルを務め録音した。

11月21日、ベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』(Greatest Hits)をリリース。ここからは、“アイル・セイ・グッバイ”が全米117位、“恋はお手のもの”(I Specialize in Love)がダンス6位になった。

 

同年末、レコード・デビューしてから10年、エクスポゼはメンバーそれぞれが異なるキャリアを築くため、解散の道を選んだ。

 

 

1997年、喉の腫瘍を抱えていたブルーノは完全に回復し、再び歌い始めた。

ブルーノはバンド「ウエット」(Wet)にリード・ヴォーカリストとして参加、アルバム『Shelter』をリリースした。

 

 

ウェットでの活動を短期間で終えた後、ブルーノは主にダンス指向の素材に重点を置いたソロ活動に取り組んだ。

 

 

2003年8月1日、エクスポゼはカリフォルニア州パソ・ロブレスのミッド・ステート・フェアで再結成コンサートを行うため短期間再結成した。しかしこの時のラインナップは、カーレス、ジュラド、マネーメーカーで、ブルーノは参加しなかった。

 

 

2004年春、ブルーノは「ジョイア」(Gioia)名義で最初のソロ・アルバム『エクスポーズ・ディス』(Expose This)をリリース。KISSのカヴァー“I Was Made For Loving You”等を収録。

 

同年、彼女はジョイア名義でマイアミのグループ「ウィル・トゥ・パワー」(Will to Power)のアルバム『スピリット・ウォリアー』(Spirit Warrior)でもリード・ヴォーカルを務めた。

 


2006年1月、ジョイア・ブルーノは自分がバイセクシャルであることを認めた。

同年、ジュラドはMySpaceで大手ブッキングエージェンシーと契約したことを発表し、ブルーノは15年ぶりにエクスポゼに復帰したことを発表した。ブルーノ不在時の穴を埋めたマネーメーカーはグループの名誉メンバーとしてその名を残している。
10月21日、エクスポゼはマイアミのアメリカン・エアラインズ・アリーナでフリースタイル・エクスプロージョン・コンサートを開催し、カーレス、ジュラド、ブルーノの3名でツアーを開始した。

11月29日、ミルウォーキーのポタワトミ・ビンゴ・カジノ・ノーザン・ライツ・シアターで、エクスポゼはスティーブ・ファンスラー率いるフルバンドで16曲のショーを披露し、1990年以来初めてブルーノと共演したフル・コンサートとなった。

グループは、エプコットやモヒガン・サンのウルフ・デンなどの会場を含む全米各地の特別イベントで演奏を続けている。

 

 

2007年12月、ジュラド、ブルーノ、カーレス、マネーメーカーとParadise Artists、Walking Distance Entertainment が、Crystal Entertainment & Filmworks (I & II) による訴訟の被告に指名された。争点は、「Exposé」という名前を使用する権利に関する商標ライセンス契約であった。最初の訴訟は、不利益な扱いを受けずに却下された。2番目の訴訟は、裁判に持ち込まれた。この訴訟の過程で、Paradise Artists と Moneymaker の両社は被告として却下され、原告に対して反訴が提起された。

 

 

2009年5月26日、裁判所は、ほとんどの点で被告に有利な判決を下し、原告との契約違反のみで有罪とした。また裁判所は、被告がコモンロー上の所有権の証明を示しており、「Exposé に関連する [消費者] 信用はメンバーにある」と判決。裁判所は、ジュラド、ブルーノ、カーレスに、商標としての「Exposé」という名前に対する独占的権利を与えた。

6月14日、エクスポゼはこの勝利について語り、LAゲイプライドフェスティバルで初めてゲスト出演したマネーメーカーと共演、これがジュラド、ブルーノ、カーレス、マネーメーカーの4人全員がステージに揃った最初の機会となった。


2010年、エクスポゼはFacebookでファンに新アルバムをレコーディング中であることを告知。エクスポゼは、ダンスプロデューサーのジュゼッペ・Dとクリス・コックスと共同でヒット曲“Point Of No Return”の2011年バージョンをレコーディングした。

 

 

2011年6月20日、エクスポゼのCDシングルがリリースされた。

12月には、アダム・ゴルゴニ、ジャネット・フラド、シェリー・ペイケンが共同で書いたクリスマス用のシングル“I Believe In Christmas (Like It Used To Be)”をリリースした。このシングルの収益は負傷兵支援プロジェクトに寄付された。

 

 

2012年8月、グループはアン・カーレスと共作したシングル“シャイン・オン”(Shine On....)を独自にリリース。カーレスはこの曲でリード・ヴォーカルも歌っている。

 

 

2013年、ブルーノは2ndソロ・アルバム『A GIOIAful Christmas』をリリース。

 

 

2015年1月、Cherry Pop Recordsはエクスポゼのデビュー・アルバムを再発。2枚組となったこの再発盤には、エクスポゼの歴史、曲の背景、全曲の歌詞を詳述した詳細な小冊子が付属している。ディスク1にはフル・アルバムの他、“Come Go With Me”、“Point Of No Return”、 “Seasons Change”、“Let Me Be The One”のラジオバージョンや、“December”、 “Exposed To Love”など多数のボーナストラックを収録。ディスク2には、12インチ シングルやCDシングルに収録されている拡張ヴァージョンとクロスオーバー・ミックスが収録された。これらの拡張ヴァージョンには、 “Exposed To Love”の珍しいオリジナル 12インチ・ヴァージョンも含んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Gioia Bruno」「Exposé (group)」

 

 

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