ジェリー・リーバー(Jerry Leiber/出生名:Jerome Leiber/1933年4月25日~2011年8月22日)は、アメリカ合衆国のソングライター、音楽プロデューサー。マイク・ストーラーとのコンビ「リーバー=ストーラー」で作詞担当、多くの名曲を遺した。

 

 

 

1933年4月15日、ジェローム・リーバーはアメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアでユダヤ人の家庭に生まれる。

 

1950年、リーバーがフェアファックス高校4年生の時、ベルモント高校を卒業してロサンゼルス・シティ・カレッジの新入生となったマイク・ストーラー(Mike Stoller/ 1933年3月13日-)にカリフォルニア州ロサンゼルスで出会う。ストーラーの出生時の名前はマイケル・ストーラーだったが、後に法的に「マイク」に変更した。この頃、放課後、ストーラーはピアノを弾き、リーバーはフェアファックス・アベニューのレコード店ノーティーズで働いていた。2人は出会った時、ともにブルーズとリズム・アンド・ブルーズを愛好していることに気付き、一緒に音楽活動を開始、ソングライター・チーム「ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー」(Jerry Leiber and Mike Stoller)としてスタートした。なお、ストーラーが作曲でリーバーが作詞を担当。「リーバー=ストーラー」と呼ぶ場合が多い。エルモ・グリック(Elmo Glick)の変名が使用されることもある。

同年、ジミー・ウィザースプーンが彼らの最初の商業曲“リアル・アグリー・ウーマン”を演奏し、レコーディングした。


1952年、彼らの最初のヒット曲はチャールズ・ブラウン(Charles Brown)が録音した“ハード・タイムズ”(Hard Times)で、米音楽誌『ビルボード』の「Rhythm and Blues chart」(以下「R&B」)7位のヒットとなった。

同年、リズム&ブルーズ歌手のリトル・ウィリー・リトルフィールドにより同年“K. C. ラヴィング”(K.C. Lovin')として初めて録音された楽曲は、1959年に“カンザス・シティ”(Kansas City)としてウィルバート・ハリソン(Wilbert Harrison)により全米1ヒットとなった。

 

リーバーとストーラーは、ブラック・ミュージックを白人の作曲家として取り入れた、最も初期の作曲家チームだった。

 

 

1953年、ブルーズ歌手ビッグ・ママ・ソーントン(Big Mama Thornton)のために前年の1952年に書いた“ハウンド・ドッグ”(Hound Dog)はR&B3位のヒットとなった。その後1956年のエルヴィス・プレスリーがラスベガスのフレディ・ベルのラウンジアクトから取り上げたアレンジを真似たのロックンロール・バージョンは、さらに大きなヒットとなった。

 

また、彼らの後期の曲は、ポップ・ミュージックにふさわしい歌詞のものが多く、リズム・アンド・ブルースとポップ・リリックの組み合わせは、ポップ、ロックンロール、パンクロックに革命をもたらした。

 

1954年、二人は指導者レスター・シルとともに「スパーク・レコード」を設立した。この時期の曲には“スモーキー・ジョーズ・カフェ”(Smokey Joe's Cafe)や“暴動のセルブロック9”があり、どちらも「ロビンズ」(The Robins/後のコースターズ)が録音した。

同年、Willy & Ruthが"Love Me"をリリース、この時はチャート入りしなかったが、1956年にエルヴィスが歌ったヴァージョンは全米2位・R&B7位をマークした。
その後、同レーベルはアトランティック・レコードに買収され、同社はライバーとストーラーを他のレーベルでの仕事を許容する革新的な契約内容で雇用した。一つのレーベルに拘束されない契約により、彼らは事実上、最初の独立系レコード・プロデューサーとなった。アトランティックで彼らは、ドリフターズのキャリアを復活させ、ロビンズのスピンオフ・グループ「コースターズ」(The Coasters)のために数多くのヒット曲を書いた。

この時期の彼らの曲には多くのヒット曲があるが、コースターズだけでも、米音楽誌『ビルボード』の全米ポップ・チャートやR&Bチャートに24曲を送り込んだ。


1955 年、ライバーとストーラーは、白人のヴォーカル・グループ「チアーズ」(The Cheers)とともに“ブラック・デニム・トラウザーズ・アンド・モーターサイクル・ブーツ”(Black Denim Trousers and Motorcycle Boots)を録音、全米5位を記録した。

 

その後すぐにこの歌はエディット・ピアフにより“L'Homme à la Moto”の題で仏語訳詞で録音された。全米15位になったチアーズの別の楽曲“Bazoom (I Need Your Lovin')” の欧州での印税収入は、1956年にストーラーと最初の妻メリルの欧州旅行の資金となり、そこで彼らはピアフと対面。彼らはSSアンドレア・ドーリア号に乗ってニューヨークに戻ったが、この船はスウェーデンの定期船MSストックホルム号に衝突され不運にも沈没したため、ストーラー夫妻は別の船ケープ・アン号に乗ってニューヨークへ戻ることを余儀なくされた。

救出後、ライバーは埠頭でストーラーに“ハウンド・ドッグ”がエルヴィス・プレスリーが歌い全米1位・R&B1位・全英2位の大ヒットになったと伝えたが、彼の返事は一言「エルヴィスって誰?」だった。二人はその後もプレスリーのためにヒット曲を書き続け、その中には彼の主演映画3本の主題歌“ラヴィング・ユー”(Loving You/1957年全米20位・全英24位)、“監獄ロック”(Jailhouse Rock/1957年全米1位・R&B1位・全英1位)、“キング・クレオール”(King Creole/ 1958年全英2位)をはじめ、“ドント” (Don't/1958年全米1位・R&B5位・全英2位)、"She's Not You"が全米5位・R&B13位・全英1位や、プレスリー初のクリスマス・アルバムに収録されたロックンロール・クリスマス・ソング“サンタ・クロースが帰ってきた”(Santa Claus Is Back in Town/1957年全英7位)などがある。

 

 

 

1957年、コースターズの“サーチン”(Searchin')が"Searchin'"が全米3位・R&B1位・全英30位、"ヤング・ブラッド"(Young Blood)が全米8位・R&B1位をマークした。

 


1958年3月9日、リーバーとストーラーは、テレビのクイズ番組『What's My Line?』に“ハウンドドッグ”、“監獄ロック”、“ドント”といったエルヴィスの歌うロックンロールの作曲者として出演した。

同年、コースターズの“ヤケティー・ヤック”(Yakety Yak)が"Yakety Yak"が全米1位・R&B1位・全英12位を記録した。

 

 

1959年、ドリフターズの“ゼア・ゴーズ・マイ・ベイビー”(There Goes My Baby)ではストリングスを導入し、ドリフターズの歌の情感を引き出し、全米2位・R&B1位の大ヒット、フィル・スペクターに刺激を与えた、なお、スペクターはドリフターズやベン・E・キングのレコーディングで彼らを手伝っていた。

 

同年、コースターズの“チャーリー・ブラウン”(Charlie Brown)が全米2位・R&B2位・全英6位、"Along Came Jones"が全米9位・R&B14位、"Poison Ivy"が全米7位・R&B1位・全英15位をマーク。

 

 

1960年、ドリフターズのシングル“ラストダンスは私に”(Save the Last Dance for Me)がリリース、全米1位をマークした。レコード発売当時のリード・ヴォーカルは、その後間もなくグループを脱退するベン・E・キング。なお、作詞者がドク・ポーマス&モルト・シューマン、作曲者がドク・ ポーマス&モルト・シューマンであるが、リーバー=ストーラーはプロデュースを担当した。

 

12月、リーバーとフィル・スペクターが作詞作曲し、リーバーがプロデュースした、ベン・E.・キング(Ben E. King/1938年9月28日-2015年4月30日)のシングル“スパニッシュ・ハーレム”(Spanish Harlem)が発売、全米10位・R&B15位をマークした。クレジットされてはいないが、ストーラーが編曲に加わり、一部作曲にもかかわっているといわれている。ドリフターズを脱退したベン・E.・キングにとって最初のヒットとなった。

 

 

1961年4月24日、ベン・E・キングと共作した楽曲“スタンド・バイ・ミー”(Stand By Me)をベン・E・キングがソロ・シンガーとして歌い、アトコ・レコードからシングル盤として発売、全米4位・R&B1位・全英27位をマークした。本楽曲はベン・E・キングの代表曲になるとともに数多くのカヴァーを生んだが、中でも全米20位・全英30位になった1975年のジョン・レノン(John Lennon)によるヴァージョンが有名。

 

 

1960年代初頭、フィル・スペクターがスタッフとして彼らの下で働き、ドリフターズ“オン・ブロードウェイ”などでギター・ソロを演奏しながらレコード・プロデューサーとして成長していった。

その後、アトランティック・レコードを去り、ユナイテッド・アーティスツ・レコードにて、「ジェイ・アンド・ヂ・アメリカンズ」(Jay and the Americans)“シー・クライド”(She Cried/1962年全米5位)、「エキサイターズ」(The Exciters)“テル・ヒム”(Get Him/1963年全米76位)、「クローヴァーズ」(The Clovers)“ラブ・ポーションNo.9” (Love Potion No. 9/1959年23位・R&&B23位)などを録音した。

 

 

1960年代にレッド・バード・レコードを創設して短期間所有した。この間に、シャングリラスの“リーダー・オブ・ザ・パック”(全米1位)、ディキシー・カップスの“愛のチャペル”(全米1位、作詞作曲はバリー=グリニッチ=スペクター)などをレコーディングした。

 


レッド・バードを売ると、二人は独立チームとして仕事を続けた。

 

 

1969年、この時期の最大ヒットはペギー・リー(Peggy Lee/1920年5月26日-2002年1月21日)の“イズ・ザット・オール・ゼア・イズ” (Is That All There Is?)で、グラミー賞をリーにもたらした。その前にリーとは“I'm a Woman”のヒットもある。

 


1972年、スティーラーズ・ホイール(Stealers Wheel)のデビュー・アルバムをプロデュース。

 

 

1973年にシングルカットされたスティーラーズ・ホイールのシングル“スタック・イン・ザ・ミドル・ウィズ・ユー”(Stuck in the Middle with You)は全米6位・全英8位など世界各国で大ヒットとなった。

 


1975年、ペギー・リーのアルバム『Mirrors』をプロデュースした。同アルバムは30年後の2005年に『Peggy Lee Sings Leiber and Stoller』としてリイシューされた。
同年にはプロコル・ハルムのアルバム『プロコルズ・ナインス』もプロデュースしている。

 

 

1982年、マイケル・マクドナルドが“I Keep Forgettin' (Every Time You're Near)” をレコーディングしたが、この曲がリーバー=ストーラーの“I Keep Forgettin'”に似ていたため、コンビの名前がクレジットされることとなった。

 

 

1985年にソングライターの殿堂、1987年にはロックの殿堂入りを果たす。

 

 

2007年、ベン・E・キングの“スタンド・バイ・ミー”をサンプリングしたSean Kingstonの"Beautiful Girls"が全米1位・R&B12位・全英1位をマークした。

 

 

2011年8月22日、ジェリー・リーバーはロサンゼルスのCedars Sinai Medical Centerで亡くなった。彼には三人の息子、Jed、Oliver、Jakeがいた。

 

 

 

 

数多くの作品を翌に送り出し、その多くがヒットを記録、さらにいくつかの曲はポピュラー音楽誌で極めて重要なポジションを占める、ソングライター兼プロデューサーチーム、リーバー=ストーラー。そんな彼らが多くの曲を提供したコースターズやドリフターズのベストで多くの作品を聴くことができる。また、エルヴィス・プレスリーではデュオの曲だけをセレクトした作品集がリリースされている。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー」「Jerry Leiber and Mike Stoller」

 

 

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