南 正人(みなみ まさと/1944年3月3日~2021年1月7日)は、日本のフォークシンガー、レゲエ、ロック歌手。

 

 

 

1944年3月3日、南正人が生まれる。東京都杉並区出身。

 

1964年、東京外国語大学外国語学部スペイン語学科在籍中、ちょうど二十歳になった時、休学届けを出し、少年の頃からの夢を実現すべく、太平洋を船で渡り、アメリカ、メキシコ、ヨーロッパ各地を丸2年間放浪。

 

帰国後、大学を卒業するものの就職せず、都内のバーにて弾き語りのアルバイトをして生活する。

また、ベトナム戦争という時代背景のもと、反戦集会などで自作のメッセージソングを歌い始める。

 

高田渡、遠藤賢司、真崎義博らと日本語フォーク・ソングのチーム「アゴラ」に参加し、東京を拠点に活動する。

1968年、アゴラの仲間とともに、京都の「第3回関西フォークキャンプ」に出演。“ジャン”、“こんなに遠くまで”などを唄う。他の出演者に、高石ともや、岡林信康、中川五郎、豊田勇造、中山ラビなどがいた。


1969年11月、1stシングル“ジャン/青い面影”をRCAよりリリース。東京青山の「汽車クラブ」で弾き語りのアルバイトをしていたところを、浅川マキのプロデューサーであった寺本幸司氏にスカウトされて制作した記念的初シングルレコード。A面“ジャン”の作詞を手がけたのは、ロンドンのユースホステルで知り合った友人:山田タツロー(ジャケットではヤマダジロウと表記)。南にとって作詞という行為は、まったく未知の領域であったが、同じ汽車クラブのカウンターで働いていた成田ヒロシという同世代の友人に刺激され、シンガーソングライターとしての生き方を決意し、都内ライヴハウスにてコンサートを始める。

 




1970年、岐阜県で行われた「中津川フォークジャンボリー」に出演。

5月、シングル“ヨコスカブルース/赤い花”をRCAより発表。“赤い花”の詞が放送禁止、発売禁止となる。

 

 

この頃、「あさってカムパニー」主催〈魂のコンサート〉に出演。出演者は、遠藤賢司、藤原豊、長谷川きよし、南正人、シモン・サイ、ブレッド&バター 他。
あさってカムパニーは南正人と成田ヒロシたちが、その活動基地としてつくったもので、南たちは孤立無援ながらも、フォークブームの向こう側に見える時代に照準を合わせ、実弾を発射することと同じ重さを引き受けて、こうした自主企画をしていた。
歌う場を自らでつくるより他なかったのだ。


1971年、東京都内を脱出し、郊外の八王子山中で暮らし、山の中での実験的コミューン生活を始める。

この時期、自宅の古民家でレコーディングした1stアルバム『回帰線』をRCAから発表。“こんなに遠くまで”収録。バック・ミュージシャンは、石川鷹彦(G,Org)/細野晴臣(B)/安田弘美(G,Hap)/林立夫(Ds)/田中正子(Pf)/後藤次利(G)/水谷孝(G)が参加、吉野金次をミックスに迎えている。本作は泉谷しげるに影響を与える。

 

 


1972年8月、長男が誕生。

 

 

1973年、セルフ・タイトルの2ndアルバム『南正人』をベルウッドレコードから発表。バック演奏は、キャラメルママ〈細野晴臣(B)/鈴木茂(G)/林立夫(Ds)/松任谷正隆(Key)〉が担当、ミキサーは前作に続き吉野金次が務めた。本作を1stアルバムと表記する伝も多いが、当ブログでは本作を2ndスタジオ・アルバムとして表記する。

 

 

9月、シングル“五月の雨/家へ帰ろう”を発売。

 

 

その後、山の家が火事で全焼し、再び東京都内に戻る。

 

 

1974年3月、アルバムからシングル“上海帰り/川に沿って”を発売。

 

 


1975年、自身初のライヴ・アルバム『南正人LIVE』をフィリップスから発表した。

 

10月、シングル“あたしのブギウギ/気ままなあの娘”をフィリップスから発売。

 

 

1976年7月、シングル“ヨコスカブルース/大森三丁目”をフィリップスから発売。

 


1977年、3rdスタジオ・アルバム『希望峰』をキングレコードから発表。ブレッド&バターがコーラスで参加している。

 


1979年、4thスタジオ・アルバム『Lady Let Me Go』を日本コロムビアから発表。

 

 


1980年11月、薬物事件を起こす。南が麻薬所持で逮捕されたが、マリファナを他の薬物と一緒にしないでくれとの想いから国に対して裁判を起こす。マリファナは自然の物から作られ、魂の解放や祝いの席の必需品であったりと各国で色々な文化の中でも根付いているのに、それを命の危険がある化学的に作成した薬物と一緒にしないでほしいと真剣に闘った。なお、この訴えを取り下げたら刑期が短縮されたという。

だが、この一連の騒動のため、音楽活動がしばらく停滞する。


1980年代、ライヴ活動を中心に全国を回る。


1981年、「ONE LOVE CONCERT」を一橋大学兼松講堂にて開催、憂歌団や喜多郎、白竜他と共演した。


1984年、音楽活動を再開。ロックバンド「River」を結成する。

 

 


1985年、「ジャパン・レゲエ・フェスティバル」に出演。レゲエについては、レゲエはかつてのロックが持っていたつかみどころのない強烈なエネルギーが「おーい、こっちだ、こっちだ」と俺たちを呼んでいた、という言葉を遺している。


1986年、全国ライヴ・ツアーを実施。

また、マンスリー・コンサートを高円寺:稲生座、吉祥寺:曼荼羅にて開催。


1987年、「寿町夏祭りコンサート」に出演。

また、ピースボート水先案内人として乗船。


1988年8月11~18日の8日間、「NO NUKES」、「ONE LOVE」、「いのちの祭り」の中心メンバーとして、マスコミから「日本のウッドストック」と称された「祭り」を開催。


1989年、お互いのコンサートにゲスト出演しあう仲の浅川マキをゲストに迎え『スタート・アゲイン』をテトラからリリース。ジャケット写真は群馬県の樹齢千年のカヤの大木の根に素足で腰かけて撮影。撮影は『AERA』(朝日新聞社出版本部(現朝日新聞出版))の表紙の人物を撮り続けていた坂田栄一郎が手掛けた。

 

同年、熱帯森林保護団体 –(Rainforest Foundation Japan)RFJ発足のサポート。
12月3日、全労済ホールにて「南正人20周年記念コンサート」開催。


1990年、全国ライヴ・ハウス・ツアー、マンスリー・コンサートの他、「アパルトヘイト否!国際美術展コンサート」(杉並)、「丸木美術館支援コンサート」(北浦和)、長谷川行進「かっぽれdeかっぽれ」コンサート、「アースデイコンサート」(夢の島公園)、「地球人学校コンサート」(和歌山)、森の音楽祭(渋川)、「風土記の丘コンサート」(山梨)、「地球回帰の祭り」(福島獏原人村)、「みどりの祭り」(熊本)、「大山いのちの祭り」(鳥取)、熱帯林週間アピール街頭パフォーマンス(渋谷)、ネルソン・マンデラ歓迎集会(日比谷野外音楽堂)と精力的にライヴ活動を展開。


1991年、タイ北部山岳地帯を約2ヶ月回る。


1992年、全国ライヴ・ハウス・ツアー、コンサート合わせて200か所を回る。


1993年、自叙伝『風のように自由に旅するヒッピー人生』(JICC出版局(現宝島社))を出版。


1995年、アルバム『恋心』をペルメージ・レコードからリリース。

 

同年、タイのチェンマイで出会ったタイ人ロック・アーティスト「トゥック」を日本に招待。

同年、九州を皮切りに、広島、神戸、京都、新潟、佐渡、東京と全7か所でライヴを開催した。


1996年、全国ライヴ・ハウスツアーを催行。


1997年、「ジュビリー・ジャム」をタイにて実施。


1999年、アルバム『馬尾馬尾 Mao Mao』をテトラからリリース。

 

同年、芝居に初出演。


2000年、新バンド「マイペンライ」を結成し、「南正人&マイペンライバンド」名義でアルバム『人生の楽屋裏』をキャプテン・トリップ・レコーズから発表。

 


2001年、全国ライヴ・ハウス・ツアー。


2002年、日タイ交流コンサート、全国ライヴ・ハウス・ツアー。


2003年、アルバム『SONGS〜歌たちよ〜』をペルメージ・レコードからリリース。


2004年、ライヴ・アルバム『Live on The Road 80s』(LA VIDA MUSIC COLLECTION)をリリース。

同年、アルバム『風来坊の唄』をLA VIDA MUSIC COLLECTIONからリリース。

同年、九州にて還暦祝い第一回「ナミさん祭り」開始。
 

 

2005年、書籍『KEEP ON! Minami Masato』をマガジンファイブから出版。
 

 

2006年、書籍『国境の南』をマガジンファイブから出版。
 

 

2007年、DVD『'88 いのちの祭り』をテトラから再発売。

 

2008年、バンド「みどり組」結成。元Big Frogのton(Ds)、 shimi(B)と元アナコンダの孝介(G)に南正人が合体した形であった。バンド活動も含め、引き続き、ギター片手に全国各地400箇所以上を回る。

 

2009年、全国ライヴ・ハウス・ツアーで120か所程を回る。

同年、「みどり組」解散。

 

2010年2月、「第1回シャンバラ祭り」(タイ・チェンダオ)に参加。

全国ライブ・ツアーで100か所程を回る。

 

2011年2月、「第2回シャンバラ祭り」参加。

5月、「虹の岬祭り」参加。

7月、「風の祭り」参加。

9月、「山水人祭り」参加。

10月、仙台「平和の祈り」参加。

12月、「なみさん祭り」参加。

東北大震災発生時はタイに居たため帰国時に食糧(パン)をたくさん持ってきて周りから喜ばれる。以後、チャリティーコンサートなどで定期的に東北に向かう。

 

2012年1月、アルバム『平和のラップ』をTETRAからリリース。

同年、「第3回シャンバラ祭り」、「いのちの祭り2012ーNO NUKES ONE LOVEー@ふもとっぱら」、全国ライヴ・ツアーを催行。



2013年、「第4回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー。


2014年、「第5回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー。


2015年、「第6回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー。


2016年、「第7回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー。


2017年、「第8回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー。

7月1日~3日、73歳になったことを記念し、73とナミをかけて、三夜連続のライヴ「NAMI's DAY」を原宿クロコダイルにて開催。


2018年、「第9回シャンバラ祭り」(10日間 参加者のべ3,500人、63カ国籍)、全国ライヴ・ツアーを開催。


2019年、アルバム『ON THE ROAD AGAIN』を「南正人&OLD SPACESHIP BAND」名義でNaminabe-Recordsからリリース。

同年、「第10回シャンバラ祭り」、全国ライヴ・ツアー開催。


2020年、「第11回シャンバラ祭り」、タイから帰国後、コロナ禍のためライヴ活動が中止や延期などを余儀なくされ、ツアーも激減した。このため、時間を有効に使って自身の過去のライヴ音源も含めた『南正人自選集』を発表する。vol.1〜vol.12の大作となり、2021年3月3日現在vol.1〜3までリリース済み、vol.4〜12は制作準備中。





2021年1月7日、横浜サムズアップでライヴ中に意識を失い救急搬送された。搬送先の病院で家族立会いのもと、解離性大動脈瘤での死亡が確認された。76歳没。




南は生前、テレビ東京系のバラエティ番組『家、ついて行ってイイですか?』から取材を受け、自宅を公開していた。その映像は、最後のライヴ映像とともに同番組で2021年3月10日に放送された。スタジオ・ゲストは、南の旧知の友人である泉谷しげる。撮影スタッフはディレクターの渕聡、ライヴ映像を撮影していたのは沖内辰郎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「南正人」

 

 

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