ペリー・コモ(Perry Como/出生名:Pierino Ronald Como/1912年5月18日~2001年5月12日)は、アメリカ合衆国の歌手、タレント。

 

 

 

1912年5月18日、ピエリノ・ロナルド・コモは、ピッツバーグから南西へ約20マイル (32km)離れたペンシルベニア州キャノンズバーグにて、ともにイタリアはアブルッツェの町パレナ出身のイタリア人で、1990年に米国へ移住してきた父ピエトロ・コモ(1877年-1945年)と母ルチア・トラヴァリーニ(1883年-1961年)のもとに生まれた。コモは両親が米国に渡って初めて生まれた子で、13人の子どもの7番目であった。

 

家庭には父親が3ドルで買った中古のオルガンがあった。コモはよちよち歩けるようになるとすぐに楽器に向かい、ふいごを動かし、聞いたことのある音楽を演奏した。

 

コモ家では家庭でイタリア語を話していたため、彼が英語を話し始めたのは学校に入学してからだった。

 

工場で働く傍らアマチュアのバリトンでもあったピエトロは、それ程余裕があった訳ではないにもかかわらず、子どもたち全員に音楽のレッスンを受けさせた。1957年の珍しいインタビューで母ルシアは、幼い息子の音楽レッスン代を稼ぐため他の仕事を引き受けた様子を語った。コモは様々な楽器の演奏を学んだものの、声楽のレッスンを受けたことはなかった。


10歳でコモは家族を手助けするため、学校の前後にスティーブ・フラガパンの理髪店で働き始め、週50セント稼るようになる。

 

彼は10代の頃、町のブラスバンドでトロンボーン奏者として、ギターを演奏し、結婚式で歌い、教会のオルガン奏者としてさらに音楽的才能を発揮した。

コモは、バンドリーダーで歌手ボビー・ヴィントンの父親であり、コモの理髪店の常連客でもあったスタン・ヴィントンとともにキャノンズバーグ・イタリアン・バンドのメンバーであった。
 

13歳までにフラガパン理髪店で自分の椅子を持つまでになったが、まだ十分に成長していなかったコモは客の世話をするために箱の上に立って仕事をした。

 

この頃、コモはサイコロゲームで一週間分の賃金を失った。恥ずかしさでいっぱいになった彼は、部屋に閉じこもり、空腹に負けるまで出てこなかった。彼は家族が依存していたお金に何が起こったのかをようやく父親に話した。父は息子に、間違いを犯すのは当然であり、これ以上悪いことをしないことを願っていると語った。

14歳の時、父親は重度の心臓病のため働くことができなくなった。コモと彼の兄弟たちは一家の支えとなった。

コモには音楽的才能があったが、にもかかわらず彼の主な目標はキャノンズバーグで一番の理髪師になることであった。父親に倣い、14歳で自分の店を持つ程技術を習得した。コモの理髪店の常連客の一人は、理髪店エリアを含むギリシャ風コーヒーハウスを所有しており、コモに自分の店のその部分を引き継ぎたいかどうか尋ねた。コモはコーヒーハウスに引っ越してから仕事が多すぎたので、手伝うために2人の理容師を雇わなければならなかった。彼の顧客は主に近くの製鉄所で働いていた。彼らは高収入で、自分のためにお金を使うことを気にせず、コモの歌の演奏を楽しんでいた。

顧客の一人が結婚することになった時、コモは特にうまくいった。新郎とその部下たちは、コモとそのアシスタントが提供するあらゆる治療を利用することになった。他の二人の理容師が新郎のパーティーの残りの作業をしている間、コモはロマンチックな歌を歌いながら新郎の相手をしていた。結婚式の準備中に、新郎の友人や親戚がコモへのお金の贈り物を持って店にやって来た。彼はギリシャ人コミュニティで「結婚式の理容師」として非常に人気があり、ピッツバーグやオハイオ州全域でサービスを提供するよう頼まれた。

 

 

1936年、理髪店をしていた頃に町の歌声コンクールで優勝したことがきっかけで歌手としてデビュー。当時は「歌う床屋さん」と呼ばれ親しまれた。

5月15日、Elmo Tannerとの共演で"Lazy Weather"をシカゴのデッカ(Decca)・レコードで録音。これ以降も順調にレコーディングのキャリアを重ねていった。

 

その後、フレディ・カーロン楽団の専属歌手として活動中にテッド・ウィ―ムスの目に留まり、専属歌手となる。

 

だが第2次世界大戦の余波で楽団は解散、コモは再び理髪師に戻った。

そんな彼の歌声に対する期待が高まり、ラジオのCBS放送で自身のショウを開始。

 

 

1943年、RCAレコードと契約。

同年、“グッド・バイ・スー”(Goodbye, Sue)でデビュー、米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)20位をマークした。

 

 

1945年、“時の終わりまで”(Till the End of Time)で、全米1位と、ダブル・ゴールド・ディスクのミリオン・セラーを初めて獲得した。

 

同年、“テンプテーション”(Temptation)が全米15位を記録した。

 

同年、"I'm Gonna Love That Gal"が全米4位・ゴールドを獲得、B面の"If I Loved You"も全米3位をマークした。

 

 

同年、"Dig You Later (A Hubba Hubba Hubba)"をリリース、全米3位・ゴールドを獲得した。

 

この時期には数本の映画にも出演したもののすぐに撤退。ラジオやテレビをうまく活用しスターへの道を歩んだ。初期の頃の歌唱スタイルはビング・クロスビーに酷似していたが、やがて自分のスタイルを確立。クロスビーやフランク・シナトラと並び、20世紀を代表する本格派のポピュラー・シンガーとして君臨した。

 

 

1946年、“恋のとりこ”(Prisoner of Love)が全米1位を獲得。

 

同年、"I'm Always Chasing Rainbows"が全米5位・ゴールドを獲得。

 

同年、"Prisoner of Love"と "Surrender"が、ともに全米1位・ゴールドを獲得した。

 

 


1947年、"Chi-Baba, Chi-Baba (My Bambino Go to Sleep)"が全米1位・ゴールド、B面“君が十六だった頃”(When You Were Sweet Sixteen)が全米2位を記録した。

 

 

同年、Ted Weemsと共演した"I Wonder Who's Kissing Her Now"が全米2位をマークした。

 

 

1948年、"Because"が全米4位・ゴールドを獲得。

 

 

1949年、"Forever and Ever"が全米2位をマーク。

 

同年、“夢はひそかに”(A Dream Is A Wish Your Heart Makes)をリリース。

 

同年、“魅惑の宵”(Some Enchanted Evening)をリリース、映画『南太平洋』に起用され、全米1位・ゴールドを獲得。

 

同年、"A Dreamer's Holiday"が全米3位を記録。

 

 

1950年、“ビビディ・バビディ・ブー”(Bibbidi-Bobbidi Boo)が全米14位を記録。

 

同年、"Hoop-Dee-Doo"が全米2位、Betty Huttonと共演した"A Bushel and a Peck"が全米3位をマークした。

 

 

 

1951年、“バラの刺青”(The Rose Tattoo)をリリース。

 

同年、“ハロー・ヤング・ラバーズ”(Hello, Young Lovers)が全米27位。

 

同年、“イフ”(If[They Made Me a King])が全米1位、ゴールド・レコードを獲得。

 

 

1952年、“星を見つめないで”(Don't let the stars get in your eyes)をリリース、全米1位・全英1位、ゴールド・レコードを獲得。

 

同年、エディ・フィッシャー(Eddie Fisher)と共演した"Maybe"が全米3位。

 

 

1953年、"Say You're Mine Again"が全米3位、"No Other Love"が全米2位をマークした。

 

 

同年、『ペリー・コモ・ショー』がスタート、14年に渡り放送される長寿番組となる。同番組は日本でも1959年12月から2年間放送され、人気を呼んだ。1967年以降、『ペリー・コモ・ショー』は毎年のようにTVスペシャルを製作。1994年の「Irish Christmas」まで40本を数えた。また、公演を録画した番組の他、ハワイやロンドン、メキシコ、オーストリア、 ニューヨーク、 ハリウッド、バハマ、 カナダ、パリなど世界各地でゲストを招いて収録され、ファンを楽しませた。

 

 

1954年、ノベルティ・ソング“パパはマンボがお好き”(Papa Loves Mambo)が全米4位・全英16位をマークした。

 

同年、“ウォンテッド”(Wanted)が全米1位・全英4位、"Idle Gossip"が全英3位。

 

 

 

1955年、ノベルティ・ソング"Ko-Ko-Mo (I Love You So)"が全米2位、"Tina Marie"が全米5位・全英24位をマーク。

 

 

同年、アルバム『So smooth』をリリース。

 

 

1956年、ノベルティ・ソング“ホット・ディギティ”(Hot Diggity [Dog Ziggity Boom])"をリリース、全米1位・全英4位・ゴールドを獲得。B面の"Juke Box Baby"も全米10位・全英22位に達した。

 

 

同年、"More"が全米4位・全英10位、B面の"Glendora"も全米8位・全英18位をマークした。

 

 

 

1957年、“流れ星をつかもう”(Catch a Falling Star)をリリース、全米1位・全英9位・ゴールドを獲得、さらにグラミー賞最優秀男性歌唱賞を受賞。また、B面収録のバート・バカラック作"マジック・モーメンツ"(Magic Moments)も全米4位・全英1位をマークした。

 

 

同年、アルバム『Merry christmas music』がRIAA公認ゴールドディスクを獲得。

 

 

 

1958年、"Kewpie Doll"が全米6位・全英9位、"Love Makes the World Go 'Round"が全米33位・全英6位に達した。

 

 

 

1960年、"Delaware"が全米22位・全英3位に入った。

 

同年、アルバム『Season's greetings』がRIAA公認ゴールドディスクを獲得。

 

 

1962年、"Caterina"が全米23位・『ビルボード』誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)6位・全英37位を記録した。

 

 

1963年、“酒とバラの日々”(The Days of Wine and Roses)をリリース。

 

 

1965年、“夢で恋すれば”(Dream on little dreamer)が全米25位・AC3位。

 

 

1967年、"Stop! And Think It Over"がAC1位、"You Made It That Way (Watermelon Summer)"がAC2位。

 

 

 

1969年、“シアトル”(Seattle)が全米38位・AC2位。

 

 

1970年、“イッツ・インポッシブル”(It's Impossible)が全米10位・AC1位・全英4位をマークした。

 

 

同年、ラスベガスのインターナショナル・ホテル(現:ヒルトン・ホテル)に6月25-27日まで出演。その模様は『Perry Como in person at the International hotel, Las Vegas』でレコード化され、大変な話題になった。

 

 

1971年、"I Think of You"が全米53位・AC5位・全英14位。

 

 

1973年、“アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー”(And I Love You So)が全米29位・AC1位・全英3位、"For the Good Times"が全英7位をマーク。

 

 

同年、アルバム『And I love you so』がRIAA公認ゴールドディスクを獲得。

 


1974年、"Weave Me the Sunshine"がAC5位に入った。

 


レコード会社は、デビュー当時から40年以上にわたりRCAに所属した。このような長期間同じ会社にいることは、当時から待遇アップなどの条件でレコード会社を移籍するのを常識としたアメリカの考え方としては非常に珍しく、国内外問わずファンに誠実な印象を与えた。またマフィアとの関係を嫌いカジノでの公演を拒否し続けた人物としても知られ、フランク・シナトラと異なりスキャンダルの少ないクリーンな歌手として、芸能生活を送った。

 

 

1979年、初めての来日公演を果たしている。「Warm at heart」ともいわれるその暖かく優しい歌声は時代を超越して支持されている。

 

1999年5月15日 故郷のペンシルベニア州キャノンズバーグに,それまでの功績を称えコモの等身大の彫像が設置された。


2000年、コモの長男ロニーと娘テリーは、前年1999年のコモのリビングウイルの解釈に同意できず、裁判所に提起した。




2001年5月12日、フロリダ州ジュピター・インレット・コロニーの自宅で睡眠中に亡くなった。アルツハイマー病の症状に悩まされていたと伝えられている。88歳没。89歳の誕生日を迎える6日前だった。

 

彼の葬儀ミサはサンクトペテルブルクで執り行われた。フロリダ州パームビーチにあるエドワード・カトリック教会。コモと妻ローゼルはフロリダ州パームビーチ郡テクエスタのリバーサイド記念公園に埋葬されている。
 

 

 

 

2002年、Grammy lifetime achievement Awardを受賞。

 

 

2020年、00年代に入ってからチャート入りしていた"It's Beginning to Look a Lot Like Christmas"が全米12位にランクイン。

 

 

2023年、"It's Beginning to Look a Lot Like Christmas"が全米14位・全英76位、"(There's No Place Like) Home for the Holidays" (1954 version)が全米50位をマークするなど、ペリー・コモの歌声は今なお多くの人に愛され続けている。

 

 

 

今やスタンダードとなっているヒット曲の多いペリー・コモの楽曲は多数出ているベスト・アルバムで手軽に楽しめる。クリスマス・ベストもお勧め。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ペリー・コモ」「Perry Como」

 

 

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