北 公次(きた こうじ/本名:松下公次[まつした こうじ]/1949年1月20日~2012年2月22日)は、日本の歌手、俳優、タレント。男性アイドル・グループ「フォーリーブス」のリーダー。

 

 

 

1949年1月20日、松下公次は、「清定(せいてい)菓子株式会社」の社長の次男として生まれる。和歌山県田辺市出身。父親は他にも工場などを経営していた。

 

小学校2年生の時、父の会社が倒産。一気に貧乏暮らしとなり、母もボタン工場にパートに出なければならなくなった。


和歌山県田辺市立東陽中学校時代は体操で学内随一の才能と見込まれ、地域では将来のオリンピック選手と期待された。また、水泳も得意とし、3年時に県大会・中学生の部で優勝するなど、幼少より優れた運動能力の持ち主であった。

だが、家庭の厳しい経済事情から中学卒業後は直ぐ名古屋の玩具問屋へと集団就職。

その後は兄を頼って大阪へ移り、寿司店や鉄工場など住みこみ仕事を転々とする。

 

家電メーカーの工場に勤めていたある日、休憩時間に工場の食堂にてテレビで初めて「ジャニーズ」を視て「俺なら得意のアクロバットを駆使してもっともっと人気スターになれる」と確信し、きっかけを求めジャズ喫茶を彷徨い歩く。そして、当時大阪にあったジャズ喫茶「ナンバ一番」にてスリーファンキーズのステージを鑑賞した際、頼み込んでスリーファンキーズのバックバンド「ワゴンスターズ」のバンドボーイにしてもらい、その後バンドが帰京したため1964年暮れに新幹線で上京する。

1965年正月、日劇ウエスタンカーニバルでスリーファンキーズのショーの合間にやっていた映画をステージ裾で一人観ていた際、ジャニーズ事務所(当時)社長・ジャニー喜多川に見初められ「君、ジャニーズが好きなの?それじゃあジャニーズに会わせてあげるよ!」と楽屋へ誘われ、そのままジャニーズの付き人になることを快諾、同日より四谷三丁目のお茶漬け屋2階にあったジャニーの自宅兼合宿所で住み込みを開始。その後間もなく渋谷区神宮前2-21-21の御子柴ビルに転居。なお、お茶漬け屋が入る前のテナントは、メリー喜多川が経営していたカウンターバー「スポット」であった。

1966年、付人をする傍ら、ジャニーズ主演映画『青春大統領』に出演。

同年、ジャニーズのバックバンド「嶺のぼるとジャニーズ・ジュニア」にタンバリン担当として参加し、日本テレビ『ジャニーズ・セブン・ショウ』にてテレビ初出演。当時はまだ芸名がなく、本名「松下公次」のままで活動していた。

8月28日、ジャニーズが本格的なダンスレッスンをするため、ジャニー喜多川とともに渡米。一人東京に残された北は、この間に新宿のフーテン族「紀伊国屋グループ」に属して遊び歩くようになる。三光町のディスコ「チェック」に毎日朝まで入り浸り、ケンカ、シンナー、麻薬に明け暮れる荒んだ生活に埋没していた。

10月、ジャニーズのバック・ダンス・グループ(後の「フォーリーブス」)を結成。

1967年1月5日、約4か月ぶりにジャニー喜多川とジャニーズが日本へ帰国。これを機にフーテン生活を止めて付き人に戻る。

4月1日、ジャニーズの曲“太陽のあいつ”のバックダンサー・グループを結成。この時、ジャニーより「北公次」と命名される。芸名の由来は喜多川の「喜多」、愛称は「コーちゃん」であった。最年長でリーダーでもあった北以外のメンバーは、3歳から子役で活躍していた「トシ坊」こと「江木俊夫」(1952年6月4日-)、劇団若草出身でファッションモデルをしていた「マー坊」こと「おりも政夫」(1953年7月4日-)、同じく劇団若草出身の「永田英二」(1955年5月29日-)だった。

6月、大阪フェスティバルホールでジャニーズ主演ミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』に、4人はグループ名が無いまま「ジャニーズJr.」として出演。

8月、第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出演。この時、初めてグループ名が正式に「フォーリーブス」に決定。なお、グループ名の意味は「フォー・リーヴズ」(4枚の葉=Four Leaves)が定説だが、本当は、ジャニー喜多川が脚本を書いた上記のミュージカル『いつかどこかで〜フォーリーブス物語』内のグループ名からで、「4つに別れる、去る、出発する」という意味の自動詞「leave」を用いた「Four Leaves」が由来である。

10月、結成メンバーの永田が当時小学6年生だったため、デビュー前に脱退、後任にスクールメイツ出身の「ター坊」こと「青山孝」(1951年8月10日-2009年1月28日/2002年に青山孝史と改名)が加入した。

10月より日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にレギュラー出演が始まる。

 

 

1968年、フォーリーブスはコカ・コーラのCMソング“青い空青いからコカ・コーラ”(作詞:なかにし札/作曲:すぎやまこういち)を歌唱。

9月5日、CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)の国内契約第1号アーティストとして、シングル“オリビアの調べ/壁のむこうに”(作詞:北公次/作曲:鈴木邦彦/編曲:森岡賢一郎/作詞:片桐和子/作曲:G.Sacher・M.Ahari/編曲:東海林修)でフォーリーブスの一員としてデビュー。オリコン15位を記録した。

 

フォーリーブスは、ミュージカル活動を基本とした歌って踊れるジャニーズのスタイルを継承。当時の少女達の圧倒的支持を得て、結果的にGSブームを終焉に追い込み、新御三家登場までの時代をつなぐ人気アイドルとなる。

ジャニーとメリーの喜多川姉弟は「タイガーズやテンプターズなど他の人気グループと違い、フォーリーブスはグループ内にスター的存在のメンバーを作らない」「言うなればメンバー全員がスター」という確固たるポリシーを結成当時から一貫して持ち続け、雑誌等でも度々その主旨の発言をしていた。また、ジャニーズの付き人をしていた北公次をどうしてもデビューさせたいがために、各所から人材を取捨選択して作ったグループだと後にジャニーが発言している。

なお、北はステージでバック転を披露した最初の歌手(アイドル)である。また、北はジャニー喜多川が他の事務所に先駆けていち早く導入したビデオレコーダーでレッスンビデオをリピートしながら練習する程ダンスに対して熱心な姿勢を見せていた。

因みに、デビュー曲をはじめフォーリーブスの多くの楽曲の作詞も北が担当したが、後に自著で多くは代作だったと述べている。

12月10日、2thシングル“涙のオルフェ”(作詞:寺山修司/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、オリコン23位。

 

 

1969年3月21日、3rdシングル“恋するジャック”(作詞:橋本淳/作・編曲:すぎやまこういち)を発売、オリコン23位。

 

8月1日、4thシングル“シャボンの匂いの女の子”(作詞:遠藤千恵子・片桐和子/作・編曲:Milt Rogers)を発売、オリコン24位。

 

9月5日、アルバム(LP)『フォーリーブス - ヒット・ヒット・ヒット ゴールデン・ショー』を発売。

11月24日、5thシングル“君にこの歌を/課外授業”(作詞:藤田敏雄/作・編曲:白鳥八郎/作詞:阿久悠/作曲:山本直純/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン31位。

 

 

12月5日、サウンドトラック・アルバム『フォーリーブス・ヤング・サプライズ 少年たち 〜小さな抵抗〜』を発売。

 

 

1970年2月1日、6thシングル“若者は旅をつづける”(作詞:岩谷時子/作曲:いずみたく/編曲:大柿隆)を発売、オリコン29位。

 

5月21日、7thシングル“ある兵士の賭け”(作詞:阪田寛夫/作曲:山本直純/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン32位。

 

7月1日、8thシングル“あしたが生まれる”(作詞:三瓶茂夫/作曲:梶沢知弘/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン23位。

 

8月1日、サウンドトラック・アルバム『夏の嵐 〜第1章 光/第2章 影〜』を発売。

10月21日、サウンドトラック・アルバム『素足で駆けるとき -ある少年の記録-』を発売。

11月21日、9thシングル“人生は一度きりだから”(作詞:岩谷時子/作曲:いずみたく/編曲:大柿隆)を発売、オリコン23位。

 

12月31日、『NHK紅白歌合戦』に初出場、以降解散までに7年連続で出場。1971年度に一度は落選するも、内山田洋とクール・ファイブのメイン・ヴォーカルである前川清が急病に倒れたことにより振り替え出場した。

 

 

1971年3月1日、10thシングル“約束”(作詞:阿久悠/作・編曲:筒美京平)を発売、オリコン31位。

 

5月1日、サウンドトラック・アルバム『少年たちシリーズ 〜太陽からの少年〜』を発売。

7月1日、11thシングル“夏の誘惑”(作詞:北公次/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、初のトップ10入りとなるオリコン10位。

 

9月1日、サウンドトラック・アルバム『フォーリーブス・ミュージカル 少年たちシリーズ 〜明日なき友情〜』を発売。

11月1日、12thシングル“地球はひとつ”(作詞:北公次/作・編曲:都倉俊一)を発売、オリコン13位。ベスト・アルバム『ベスト・オブ・ベスト』を同時発売。

 

 

12月1日、13tシングル“はじめての世界で”(作詞:北公次/B.Gordy・G.Gordy・R.Davis/編曲:G.Tage)を発売。A面の原曲はマーヴ・ジョンソンの1959年の曲『You Got What It Takes (心の底から好きだから)』。日本語詞の部分は北のクレジットだが、実際はジャニー喜多川によるものだった。オリコン26位。

 

 

1972年2月21日、ライヴ・アルバム『フォーリーブス・ライブ・ミュージカル 生きていくのは僕たちだ!』を発売。

 

3月21日、14thシングル“新しい冒険”(作詞:北公次/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、オリコン15位。

 

7月1日、15thシングル“フォーリーブスの ヤンヤン体操”(作詞:田村隆/作曲:三保敬太郎/編曲:岩崎宏康)を発売、オリコン35位。

 

7月21日、16thシングル“夏のふれあい”(作詞:北公次/作・編曲:筒美京平)を発売、オリコン12位。

 

8月21日、アルバム『スーパー・プレゼント』を発売。

10月21日、17thシングル“あなたの前に僕がいた”(作詞:北公次/作・編曲:都倉俊一)を発売、オリコン10位。

 

 

1973年2月1日、18thシングル“愛と死/青空のおしゃべり”(ともに作詞:北公次/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、オリコン13位。

 

 

3月21日、アルバム『北公次ロマン詩集より 青春』を発売。

6月1日、19thシングル“ふたりの朝”(作詞:北公次/作曲:A.Osmond/編曲:森岡賢一郎)を発売、オリコン11位。

 

7月21日、坂本九のカヴァーを20thシングル“見上げてごらん夜の星を”(作詞:永六輔/作曲:いずみたく/編曲:高田弘)として発売、オリコン24位。フォーリーブス結成7周年記念版サウンドトラック・アルバム『見上げてごらん夜の星を』を同時発売。

 

8月にフォーリーブスへのプレゼント代や追っかけ費用を稼ぐために売春していたという女子中学生グループが書類送検されて批判を浴びた。

10月~1974年3月、日本テレビの郷ひろみ主演ドラマ『ぼくは叔父さん』にフォーリーブス全員で出演。

10月5日~12月、フジテレビのドラマ『ボクは女学生』に北が「清水二郎」役で単独初主演、郷ひろみやフォーリーブスの他のメンバーも出演した。

この頃からグループでの歌以外にも活躍の場を広げる。

11月1日、21thシングル“大人への階段/若いふたりに何が起る”(ともに作詞:安井かずみ/作・編曲:川口真)を発売、オリコン15位。

 

 

同年、公開コメディー番組『とことんやれ大奮戦!』に出演。

 

 

1974年 1月21日、22thシングル“あしたの悩み”(作詞:安井かずみ/作・編曲:鈴木邦彦)を発売、オリコン25位。

 

4月1日、23thシングル“ヘイベイビー”(作詞:宮下康仁/作・編曲:都倉俊一)を発売、オリコン21位。作曲に都倉俊一を迎え、この頃から軽快なソウルミュージックに方向転換し、人気の持続に成功した。

 

4月5日~9月27日、フジテレビ系テレビドラマ『ボクは恋人』に主演。フォーリーブスによる主題歌“君のために”では青山がヴォーカルを取った。

7月21日、24thシングル“急げ!若者”(作詞:千家和也/作曲:都倉俊一/編曲:東海林修)を発売、オリコン28位。アルバム『スーパープレゼント'74』を同時発売。

 

8・9月、NHK『みんなのうた』にフォーリーブスが歌うビートルズ“オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ”(Ob-La-Di, Ob-La-Da)のカヴァー(訳詞:黒木宏/作詞・曲:レノン―マッカートニー)が使用された。

9月5日、同年5月3日の大阪フェスティバルホールでの郷ひろみとのジョイント・コンサートの模様を収めたライヴ盤『フォーリーブス・郷ひろみ ジョイントリサイタル』を発売。

11月1日、25thシングル“友情”(作詞:千家和也/作曲:都倉俊一/編曲:東海林修)を発売、オリコン27位。

 

11月21日、アルバム『若者』を発売。

 

 

1970年代後半になるとニューミュージックに人気が集まり男性アイドル冬の時代に突入、フォーリーブスの人気も下降し、ジャニーズ事務所も低迷期に陥る。

 

 

1975年2月1日、26thシングル“ふたりの問題”(作詞:橋本淳/作曲:鈴木邦彦/編曲:馬飼野康二)を発売、オリコン25位。

 

6月1日、27thシングル“嵐のあと”(作詞:安井かずみ/作・編曲:馬飼野康二)を発売、オリコン34位。

 

10月1日、同年8月12日の大阪フェスティバルホールでのライブ盤『FOUR LEAVES LIVE』を発売。

11月1日、28thシングル“遠い日”(作詞:葉月多夢/作曲:小椋佳/編曲:安田裕美)を発売、オリコン41位。

 

12月5日、ナレーション入りの2枚組LPベスト・アルバム『フォーリーブス:1965〜1975』を発売。

同年、自伝『256ページの絶叫』を出版。

 

 

1976年1月21日、29thシングル“めぐり逢い”(作詞:片桐和子/作曲:いずみたく/編曲:宮本光雄)を発売、オリコン52位。

 

4月21日、30thシングル“魅せられし魂”(作詞:片桐和子/作曲:P.Anka/編曲:F.Harlow)を発売、第5回東京音楽祭国内大会・ゴールデンカナリー賞、第5回東京音楽祭世界大会・チェリー・ブロッサム賞。オリコン65位。

 

6月30日、31stシングル“踊り子”(作詞:阿久悠/作曲:井上忠夫/編曲:いしだかつのり)を発売、オリコン41位。

 

7月21日、同年4月4日の中野サンプラザでのライブ盤『フォーリーブス10周年記念PART1』を発売。JOHNNYS' ジュニア・スペシャルと豊川誕も参加。フォーリーブスの座談会入り。

10月21日、32ndシングル“ハートブレイク急行”(作詞:阿久悠/作曲:井上忠夫/編曲:井上忠夫・いしだかつのり)を発売、オリコン50位。

 

11月21日、アルバム『一本の樹』を発売。

 

 

1977年2月25日、33thシングル“乾杯グラス”(作詞:阿久悠/作曲:井上忠夫/編曲:馬飼野康二)を発売、オリコン64位。

 

4月2日に公開された、横溝正史作の同名長編推理小説の映画化作品『悪魔の手毬唄』に、「青池歌名雄」役で出演。

6月21日、34thシングル“ブルドッグ”(作詞:伊藤アキラ/作・編曲:都倉俊一)を発売、オリコン40位。

 

11月21日、35thシングル“男と女の紙芝居・三幕”(作詞:伊藤アキラ/作曲:都倉俊一/編曲:田辺信一)を発売、オリコン67位。

 

 

1978年1月7日~4月1日、テレビドラマ版『人間の証明』に「郡恭平」役で出演。

4月21日、36thシングル“どうして‥”(作詞:北公次/作曲:青山孝/編曲:田辺信一)を発売、オリコン83位。

 

5月1日、同年の渋谷公会堂でのライヴ盤『LOVE FOREVER』を発売。

7月1日、37thシングル“宇宙のファンタジー”(日本語詞:北公次/作曲:M.White・V,White・E.D.Barrio/編曲:いしだかつのり)を発売。

 

7月21日、38thシングル“THE END -思いがけず出会ったら-”(作詞:岩谷時子/作曲:青山孝/編曲:いしだかつのり)を発売、オリコン84位。

 

同年、テレビ朝日『江戸川乱歩『暗黒星』より・黒水仙の美女』が俳優としてのジャニーズ事務所在籍最後の仕事であった。

8月31日をもってフォーリーブスは解散。同時に北はジャニーズ事務所を退社した。1989年発行の雑誌『牧歌メロン』に掲載された北公次と平本淳也らのインタビューによると、北が事務所を退社する意向を副社長のメリー喜多川に伝えたところ猛烈に反対された。メリー喜多川はCBS・ソニーのプロデューサーを呼び出し、ジャニーズ事務所に残って欲しいと二人がかりで北を説得する。しかし北は説得を振りきりジャニーズ事務所を敢行した。

退社後はダンス修行目的で渡米。しかし上手く目的を果たせず帰国後、第一プロダクションへ移籍。

10月21日、同年8月31日の新宿の東京厚生年金会館での解散コンサートのライブ盤『GOOD-BYE』を発売。

 

 

1979年4月、覚醒剤取締法違反で北が逮捕された。

釈放後に出身地の和歌山県田辺市に帰郷して漁業組合に就職したが、しばらく勤務した後に退職。その後は白浜温泉のスナックなどでアルバイトをしていた。

まもなく芸能界へ復帰。ジャニーズ事務所時代の芸名をそのまま使用するなど復帰には特に問題なく、俳優としてテレビドラマや舞台に顔を出すようにはなったものの、単発ドラマに数本出演する程度の細々とした活動で終わっている。

 

 

1980年、フジテレビのドラマ『ピーマン白書』のOPテーマ及びEDテーマを担当する覆面バンド「オール・ジャパン・デビル・バンド」のヴォーカルをオファーされるも、東芝EMIが興信所に依頼した素行調査の結果、北は不適合と判断され、代わりに豊川誕に決定する。

復帰後は沢竜二の事務所に在籍、沢は北をミヤコ蝶々の舞台に出すなど俳優として再起させようとするが、北が沢に無断で他の仕事を決めて沢の元を出ていく。


1980年代より、左耳の耳たぶにピアスの穴を一つ開け、左腕の二の腕には洋物のタトゥーを入れていた。

 

 

1982年、客室乗務員だった女性と結婚するも、6年間の結婚生活の後に離婚。その後復縁するが、1992年に再度離婚。


1983年、北のファンであった金子正次(かねこ しょうじ/1949年12月19日-1983年11月6日)のオファーを受け、彼の脚本家で初主演映画『竜二』(PRODUCTION RYUJI)に主人公の弟分「ひろし」役で出演。

 

 

1988年2月10日に放送された、フジテレビ『夜のヒットスタジオDELUXEスペシャル』に出演。放送1000回達成記念の3時間特番で、新高輪プリンスホテルからの生中継。 後輩の「たのきんトリオ」、「THE GOOD-BYE」、「シブがき隊」、「少年隊」、「少年忍者」が勢揃いする中、北は江木俊夫と同じテーブルに座り、司会の古舘伊知郎にマイクを向けられてコメントも残した。
同年、映画『フライング 飛翔』では、後輩の男闘呼組の高橋和也と共演。

同年、離婚するが、その後復縁する。
しかし金銭的には行き詰り、以前から喧嘩の度に帰郷と上京を繰り返していたが、離婚を期に田辺市に蟄居。ブティック経営を手伝い、洋服の箱詰め等の雑用をしていた。そこに、ジャニーズ事務所を糾弾するため、各所を奔走してジャニーズの裏情報を募集していたAV監督の村西とおるから復帰話を持ちかけられる。しばし村西の元でマジシャン修行等をするも、北が村西の元を去ったことで復帰話は一時頓挫する。

11月1日、村西の件をきっかけに、自著『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』をデータハウスより出版。本書の主な内容は、ジャニー喜多川や事務所に関する暴露と、自身の仕事面や実人生でのこれまでの転落や不祥事や不調はジャニー喜多川とジャニーズ事務所にあると結論付けるジャニーズ批判、自身の芸能界復活や再デビューを予告する内容だった。ジャニーズに関する暴露や批判以外の記述は1975年発刊の自伝『256ページの絶叫』と重複するため、明かにジャニーズ事務所とジャニー喜多川についての暴露や批判を目的として発行された書籍であった。この後、1989年2月1日『光GENJIへ・再び』、1989年4月1日『光GENJIへ〈3〉みんなで考えようジャニーズ問題』、1989年6月1日『光GENJIへ―最後の警告』、1989年9月1日『さらば!!光GENJIへ』とシリーズ化して相次ぎ出版した。

 


1990年5月17日発売の『週刊宝石』インタビューにて、「『光GENJIへ』」シリーズで得た印税は、CDやビデオの制作費やライヴの開催に注ぎ込んだが、採算が取れなかった」、「現在はきちんとした固定収入が無いのでアルバイトをしたい」、「主演映画(『怪獣の観た夢』)の撮影に入る」、 「離婚した妻が戻ってきて再婚し、二人目の子供が生まれた」などと近況を語った。この他、暴露本の出版を「戦い」と称するなど、データハウスで活動していた頃と変わらない姿勢を見せたり、1989年の雑誌『牧歌メロン Vol.2』でのインタビューと同様の、「ジャニーズについてまだ暴露していない大きな爆弾を持っている」との発言もあり、次の暴露本を発表するための出版社を探しているとのことだった。だが北からの暴露や発信はこれを最後に途絶え、反ジャニーズ活動は収束した。北自身は後年、『光GENJIへ』シリーズ出版やそれに伴うジャニーズ批判活動でについて、ギャラに目がくらんで恩人を裏切ってしまった後悔の念を述べていたという。

 

 

1992年、復縁した妻と再び離婚。

そして舞台や『ピノキオ√964』、『怪獣の見た夢』に散発的に出演後、歌手活動を含めて何もしない時期が続いた。


1994年、44歳の時に客として訪れたスナックのママをしていた7歳年下の女性と交際開始、「彼女に夜の仕事をさせたくない」と東京都内とハワイにブティックを開店、ハワイの婦人服ブランドからの仕入れルートも北が開拓した。同時に結婚話も進行。

3月に入籍し、3度目の結婚。

6月、ハワイで挙式。同月に都内ホテルで披露宴を行い、フォーリーブスの他メンバー3人も出席した。結婚式と披露宴の模様は複数のワイドショーで中継されたが、各番組は祝福ムード一色で、反ジャニーズ活動へは一切言及がなかった。

その後、ブティックと雑貨を扱う喫茶店を東京都江戸川区JR小岩駅南口の商店街「フラワーロード」で開店するが経営が悪化。北はポスティングや介護のアルバイトを兼業するようになった。


2002年1月、フォーリーブスを再結成。往年のファンから支持を受け、ライヴ中心に活動した。

1月17日、ベスト・アルバム『ザ・ベリー・ベスト・オブ・フォーリーブス』発売。

 

8月22日、39thシングル“it's more 愛”(作詞:フォーリーブス/作曲:青山孝/編曲:西込加久見)を発売。    

 

 

2006年には、東日本総合整体学院の広告モデルを務めた。

8月12日、NHK『第38回思い出のメロディー』に出演、57歳にして得意のバック転も披露した。

8月27日、5枚組CD-BOX『フォーリーブス 1968-1978』を発売。

 

 

2007年1月23日、『徹子の部屋』にメンバー揃って出演、解散後の25年間のこと、家族、コンサートの話を語った。

同年、フォーリーブスとしての活動や所属事務所のエフエンタープライズと並行して、個人事務所とファンクラブを設立。

 

 

2008年1月29日、フォーリーブスのツアーと並行し、ソロアーティスト「k.koji」の新出発と銘打ったディナーショーを明治記念館で開催。フォーリーブスの代表曲“踊り子”のカヴァーも含むソロCDを発売、ソロライヴやファンクラブ会員相手の有料イベントを行った。

 


2009年1月28日、青山孝史(2002年に「青山孝」から改名)こと、城下孝行が急逝。57歳没。

青山孝史の死後、北はエフエンタープライズを退社。

3月29日、フォーリーブスが無期限の活動休止。
北は個人事務所で活動を続けたが、ライヴ、コンサートの類や歌手活動から徐々にフェードアウトし、ファンクラブ会員を対象とした有料イベントや、ファンクラブ会員のみが入会できる会員制ストレッチ教室のみのクローズドな活動のみとなった。


2012年2月4日、ファンの前で北の肝臓がん発覚を妻が報告、治療費のカンパを募集。

2月9日、江木とおりもがそれぞれのブログ記事で北の肝臓がん発覚と病状を公表し、二人で話しあい北をサポートしていくとを報告した。

2月21日、容態が急変。病室に江木とおりもが駆けつけて対面した。

 

 

 

2012年2月22日、北公次こと松下公次が、肝臓がんのため都内の病院で死去した。63歳没。

 

 

葬儀は創価学会の「友人葬」形式で営まれ、親族や関係者約250人、ファン約400人が弔問した。江木は仕事のため参列できなかったが、おりもの他、芸能界からは、あおい輝彦、野口五郎、郷ひろみらが参列した。だが、著名人の数はまばらで芸能関係者の姿は少なかった。

 

 

2023年3月にイギリスの公共放送BBCで、ジャニー喜多川によるジャニーズ事務所所属タレントに対する性的虐待問題を追った特集番組『J-POPの捕食者 秘められたスキャンダル』が放送された。週刊文春は過去の特集記事を公開し、取材を再開して新たな記事を掲載した。

4月、元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが日本外国特派員協会で記者会見を開き、性的虐待被害を告発した。他にも、匿名・実名での複数の性的虐待被害の告発が続いた。こうした動きにより、ジャニー喜多川による性加害問題が表面化、問題視されることとなった。

8月、ジャニーズ事務所の依頼を受けた再発防止特別チームが調査を実施し、報告書を提出し記者会見を行った。

9月、これを受けてジャニーズ事務所は記者会見を行い喜多川の性加害の事実を初めて認め謝罪した。

こうした状況下、ジャニー喜多川による性加害問題の再燃やそれに伴うジャニーズ事務所所属タレントのCMやテレビ番組への出演停止などに関して各メディアが報道を行う中、過去の北の著書や発言VTRなどが取り上げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「北公次」「フォーリーブス」

https://www6.big.or.jp/~f-enter/tarent-page-fl.html

 

 

 

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