ケン・ヘンズレー(Ken Hensley/出生名:Kenneth William David Hensley/1945年8月24日~2020年11月4日)は、英国イングランド出身のミュージシャン。オルガニスト、マルチプレーヤー、音楽プロデューサー。ブリティッシュ・ロック・バンド「ユーライア・ヒープ」の元メンバーとして知られる。
1945年8月24日、ケネス・ウィリアム・デヴィッド・ヘンズレーは、英国イングランドの首都ロンドン南東部にあるプラムステッド(Plumstead)で生まれる。
同年、両親と3人の兄弟、姉とともに、ハートフォードシャー州スティーブニッジ(Stevenage, Hertfordshire)に移住した。
12歳の時、バート・ウィードンの教本からギターの弾き方を学ぶ。
1960年9月、最初のギグをスティーブニッジのメントモア・ペン・ファクトリーで行った。
1962年までに、彼はブルー・ノーツ、ケン・アンド・ザ・カズンズ、キット・アンド・ザ・サラセンズなどで演奏した。
1963年、この時期に彼が参加していたバンドのひとつは「ジミー・ブラウン・サウンド」(The Jimmy Brown Sound)に発展し、現在では失われたいくつかの曲をレコーディングした。
この時、ヘンズリーにとって最初の「プロフェッショナル」の機会がほぼ到来していた。バンドはアメリカのR&B歌手ベン・E・キング(Ben E. King)の英国公演をサポートする予定だったが、それは実現しなかった。
1965年初頭、ヘンズレーは、後にジョン・メイオール&ブルースブレイカーズやローリング・ストーンズで活躍する若いギタリストのミック・テイラー(Mick Taylor/ 1949年1月17日-)や、ブライアン・グラスコック、後にジェスロ・タルに参加する弟のジョン・グラスコックのグラスコック兄弟らとバンドを結成。バンドではテイラーが大部分のギター・パートを演奏したため、ヘンズレーはほとんどの曲を書き、ハモンドB3オルガンを演奏し、ヴォーカルを取った。
同年、ジョー・コーナス(G,Vo)をメンバーに追加し、バンドは名前を「ゴッズ」(The Gods)に決定。バンドは初期はブルーズ・ナンバーを中心に演奏していた。
1966年、ゴッズはロンドンのウェンブリーにあるスターライト・ボールルームで、エリック・クラプトンらのいるクリーム(Cream)のオープニング・アクトを担当した。
1967年初頭、ゴッズはシングル“Come On Down To My Boat Baby/Garage Man”をポリドール・レコードでレコーディングした。この時点でのラインナップは、ミック・テイラー(G)、ケン・ヘンズレー(Vo,Org)、ジョン・グラスコック、ジョー・コーナスとなっていた。
5月、テイラーは、ピーター・グリーン(Peter Green/1946年10月29日-2020年7月25日)に代わるギタリストを探していたジョン・メイオール(John Mayall/1933年11月29日-)から電話を受けた。テイラーはブルースブレイカーズ(John Mayall & The Bluesbreakers)に加わり、彼が抜けた不安定なブルーズ・バンドが残されることになった。ゴッズはクラブや大学をライヴして回り、彼らの運命を復活させようとした。彼らはロンドンに移り、マーキー・クラブに根城を確保した。ゴッズはマーキー・クラブにおけるローリング・ストーンズの後継者であった。
6月、ジョン・グラスコック(B)がポール・ニュートンへ、そしてグレッグ・レイクへと交代。しかし、レイクはサポート役にしては余りにも才能があり過ぎた。
1968年夏、レイクがキング・クリムゾン(King Crimson)へ参加するために脱退。ゴッズは再びグループをまとめなければならなくなり、ジョン・グラスコックに戻ってくるように依頼した。
ジョン・グラスコックが復帰後、彼らはいくつかのプログレッシブ・ロック・アルバムと数枚のシングルをレコーディングした。それらのシングルのうち、ビートルズの“ヘイ・ブルドッグ”(Hey Bulldog)のカヴァーは彼らの最も有名な曲であり、コンピレーション・アルバム『The Great British Psychedelic Trip Vol. 3』に収録されている。ゴッズはサイケデリックとプログレッシブな音楽の融合を果たした。
同年のアルバム『ジェネシス』(Genesis)に収録した“Towards The Skies”や“Time And Eternity”といった曲には、重く引きずるようなハモンドオルガンと歪んだギターリフが含まれており、ケン・ヘンズレーのユニークでかなりドラマチックなヴォーカルがさらなる次元を加えている。
ゴッズのほとんどの素材は、1960年代後半の典型的ポップ/ロックであり、“Radio Show”や“Yes I Cry”等の曲に代表される。『ウエスト・サイド物語』からの楽曲 “Maria”のカヴァーには、ヴァニラ・ファッジの色合いがある。また、 “Candlelight” や“Real Love Guaranteed”のような数曲には、ヘンズレーとカースレイクが次のバンドであるユーライア・ヒープで広める、より重い音の暗示がある。
1969年、2枚目のアルバム『トゥ・サミュエル・ア・サン』(To Samuel a Son)を録音した後、ゴッズは解散。アルバムが発表されたのは解散後のことだった。
同年、ヘンズレーらは新しいレコード会社と契約、レベル・ラウザーズの歌手であるクリフ・ベネットを採用し、「トー・ファット」 (Toe Fat)を結成した。
同年、ゴッズのサイド・プロジェクト「ヘッド・マシーンズ・オーガズム」(Head Machine's Orgasm)としても短期間活動した。
12月、ミック・ボックスとデヴィッド・バイロンらが在籍していたバンド「スパイス」(Spice)を新たに改名して「ユーライア・ヒープ」(Uriah Heep)が発足。これにヘンズレー(Key/リズムG)も加入し、メイン・コンポーザー、キーボーディストとして活躍した。バンド名はマネージメントを担当していたプロデューサーのGerry Bronの提案によるもので、作家Charles Dickensの小説の登場人物から採用された。だが諸事情により翌1970年初頭まで、バンドは旧名のスパイス名義で活動した。
1970年、トー・ファットはセルフ・タイトルのアルバム『Toe Fat』をリリース。
同年、ゴッズの一部メンバーは変名の「Head Machine」名義で、ケン・ヘンズレー(Key,G,Vo)、ジョン・グラスコック(B)、ジョー・コーナス(G)、リー・カースレイク(Ds)による『Orgasm』というタイトルのアルバムを発表した。
3月からユーライア・ヒープは新生グループとして本格始動する。
途中、ヒープはドラマーをナイジェル・オルソンに変更する。
6月、1stアルバム『ユーライア・ヒープ・ファースト』(...Very 'Eavy ...Very 'Umble/米国盤タイトル『Uriah Heep』)を完成させ、ヴァーティゴ・レーベルからデビュー、全米186位、日本で41位をマーク。このアルバムからは、"Gypsy"が西ドイツ(当時)で28位にチャート・インした。
その後、短期間だけツアーに参加したナイジェル・オルソンに変わり、キース・ベイカーがドラムを務める。
1971年1月、シンフォニックな2ndアルバム『ソールズベリー』(Salisbury)を発表、全米103位・日本47位、さらにフィンランドでは3位に到達。ここからは、"Lady in Black"が西ドイツ5位・スイス6位・フィンランド16位に達した。
同年ドラマーをイアン・クラークに交替。
9月、ブロンズ・レコードから歴代の代表作となる3rdアルバム『対自核』(Look at Yourself)を発表、同年11月13日付の全英アルバムチャート39位を記録しバンド初の全英トップ100アルバムとなり、フィンランドで1位を獲得、日本では5位に入った。タイトル・トラック"Look at Yourself"はスイス4位・西ドイツ33位を記録した。
ヘンズレーはユーライア・ヒープ時代に、個性的なソングライティングで主導権を握る。また、「ディープ・パープル」(Deep Purple)のジョン・ロード(Jon Lord/1941年6月9日 -2012年7月16日)らと並ぶ、1970年代ハードロック界のハモンドオルガン奏者として知られた。
1972年、ドラマーにリー・カースレイク、ベーシストにマーク・クラークを迎える。ツアーから参加したクラークはわずか3ヶ月在籍しただけで、次作の制作レコーディング中に脱退。
5月19日、後任ベーシストにニュージーランド出身のゲイリー・セインを加入させ、ロジャー・ディーンをアート・ワークに起用したアルバム『悪魔と魔法使い』(Demons and Wizards)を発表、全英20位・全米28位をマークした他、フィンランドで1位、西ドイツとノルウェーで5位、スウェーデンで8位に入った。本アルバムからは、“安息の日々”(Easy Livin)が日本で5位・デンマーク9位とスマッシュ・ヒット、"The Wizard"がスイスで8位に入った。
11月、続いて、こちらもアート・ワークをロジャー・ディーンが担当した同傾向のアルバム『魔の饗宴』(The Magician's Birthday)を発表、全英28位・全米31位をはじめ、フィンランド1位・ノルウェー5位・豪州6位・西ドイツ7位・スウェーデン9位を記録。ここからは、"Spider Woman"が西ドイツ14位、"Sweet Lorraine"が全米91位にチャート・インした。
1973年、初のソロ・アルバム『誇り高き言霊』(Proud Words on a Dusty Shelf)をリリース、豪州57位。
3月、日本武道館を含む初来日公演を行う(5公演)。
9月3日、アルバム『スイート・フリーダム』(Sweet Freedom)を発表、全英18位・全米33位の他、ノルウェーとフィンランドで2位、カナダ5位・オーストリア9位をマーク。ここからは"Stealin'"がニュージーランド1位・ノルウェー9位に入った。
1974年6月、初期ヒープらしさを持った最後のアルバム『夢幻劇』(Wonderworld)を
発表、全英23位・全米38位をはじめ、オーストリア2位・ノルウェー3位・フィンランド5位・西ドイツ7位をマーク。本アルバムからは、"Something or Nothing"がノルウェー6位になった。
同年、ゲイリー・セインがコンサート中、感電事故に遭い重傷を負う。復帰はするものの薬物中毒から脱却することができず、グループはセインを解雇する。
同年、キング・クリムゾンのジョン・ウェットン(John Wetton/1949年6月12日-2017年1月31日)がレコーディングにベーシスト兼ヴォーカリストとして加入。
1975年、ソロ・アルバム『愛と苦悩』(Eager to Please)をリリース。
6月13日、ウェットンがベースとメロトロン、バッキング・ヴォーカルで参加したアルバム『幻想への回帰』(Return to Fantasy)を発表。全英7位を記録し、グループにとって唯一の全英トップ10アルバムとなる。また、ノルウェー2位・オーストリア3位・フィンランド8位・スウェーデン9位をマーク。このアルバムからは、"Prima Donna"がノルウェー3位・デンマーク10位を記録した。
12月、ゲイリー・セインがヘロインの過剰摂取の事故により死亡。27歳没。
1976年6月、曲作りの時点から参加したウェットンとヘンズレーとの共作を含むスタジオ・アルバム『ハイ・アンド・マイティ』(High and Mighty)を発表、全英55位・ノルウェー4位とセールス面では振るわなかった。ウェットンがヘンズレーとリード・ヴォーカルをともにとる“ワン・ウェイ・オア・アナザー” (One Way Or Another)はシングルとしてリリースされた。
同年、バンドはアルコール中毒の問題を抱えていたデヴィッド・バイロンを解雇。そしてジョン・ウェットンはU.K.の活動専念のためにグループを脱退している。
1977年2月、新ヴォーカリストにジョン・ロートン、新ベーシストにトレヴァー・ボルダーを迎え、アルバム『ファイアフライ』(Firefly)発表、ノルウェーでは6位に入ったが、全英チャート入りは失敗した。ここからのシングルは、"Sympathy"がデンマークで13位に入った。
11月27日、ハード・ポップ色を色濃くしたアルバム『罪なきいけにえ』(Innocent Victim)をリリース、ノルウェー13位・西ドイツ15位をマーク。ここからは、"Free Me"がニュージーランド3位・スイス8位・西ドイツ9位になった。
1978年9月、アルバム『堕ちた天使』(Fallen Angel)を発表、ノルウェーで10位に入った。ここから、"Love or Nothing"が西ドイツ36位、"Come Back to Me"が西ドイツ40位に入った。
1979年に「Five Miles」セッションでアルバム1枚分のマテリアルを残すものの、リー・カースレイクとジョン・ロートンが脱退し、幻のアルバムと化す (この時期の再発CD盤などで一部音源が聴ける)。
1980年2月、ジョン・スローマンをヴォーカル、クリス・スレイドをドラムに迎えたアルバム『征服者』(Conquest)を発表、4作ぶりに全英アルバムチャート入りを37位で果たした他、ノルウェーで11位に入った。このアルバムからは、ともにヘンズレー作の"Carry On"と"Feelings"がシングル・カットされた。
その後、ヘンズレーはバンドの進む方向性に疑問を抱いたため脱退。後にカナダ人キーボーディストのグレッグ・デシャートを迎え、シングル“シンク・イット・オーヴァー”を発表。アルバムも1枚分のマテリアルを残すものの未発表に終わる。
続いてトレヴァー・ボルダー、ジョン・スローマン、クリス・スレイド、グレッグ・デシャートが脱退、ユーライア・ヒープは活動停止状態となり、ミック・ボックスはミック・ボックス・バンドとして活動を続ける。
同年、ヘンズレーはソロ・アルバム『フリー・スピリット』(Free Spirit)を発表。
1981年、自身のリーダー・バンド「Ken Hensley Band」を結成。
1982年、ヘンズレーは、サザン・ロックやブルーズ・ロックをベースにハード・ロック的要素を加えたバンド「ブラックフット」(Blackfoot)に加入、キーボード、リズム・ギター、バッキング・ヴォーカルを担当した。
1983年5月、加入後初のアルバム『革命と反乱』(Siogo)をリリース。全米82位をマークした。
1984年、『ヴァーティカル・スマイルズ』(Vertical Smiles)をリリース、全米176位を記録。アルバムが2作連続でビルボードの全米トップ200に入るなど中規模なヒットをもたらした。
同年、ブラックフットを脱退。
1985年以降、ヘンズリーは合衆国ミズーリ州セントルイスでセミリタイア生活を送り、いくつかのバンドの作品に出演した。
1989年、W.A.S.P.のアルバム『The Headless Children』にキーボーディストとしてゲスト参加。W.A.S.P.のフロントマン、ブラッキー・ローレスは、「私の知る限り、ケン・ヘンズレーはヘヴィメタル・キーボードのルールブックを書いた」と述べた。
1990年、シンデレラ(Cinderella)の3rdアルバム『Heartbreak Station』にハモンド・オルガンで客演。
ヘンズリーはセントルイスにある「ザ・アティック」レコーディング・スタジオも所有していた。
2001年12月7日、ロンドンのシェパーズ・ブッシュ・エンパイアで行われた毎年恒例のマジシャンズ・バースデー・パーティー中に、ジョン・ロートンとケン・ヘンズリーの両名がユーライア・ヒープとともにステージに登場。このコンサートは録音され、CD/DVDとしてリリースされました。
2002年、21年ぶりのソロ作品『Running Blind』を世界中でリリース、その後デイブ・キルミンスター(G)、アンディ・パイル(B)、ピート・ライリー(Ds)を含む「フリー・スピリット」と呼ばれる彼のバンドとともにワールド・ツアーを催行。
2000年代には、「ユーライア・ヒープ」の旧メンバーであるジョン・ウェットンや、ジョン・ロートンとのコラボーレーション・ツアーを行った。
近年ではヨルン・ランデやグレン・ヒューズなどをゲストに迎えて、ソロ活動を精力的に行なっている。
その後、スペインに移住。
2003年、ヘンズリーは新曲入りのアルバム『ザ・ラスト・ダンス』(The Last Dance)をリリース。
2004年、ユーライア・ヒープの名曲を2004年に再録音したアルバム『ザ・ウィザーズ・ダイアリー・ヴォリューム・ワン』(The Wizard's Diary Vol. 1)をCD&DVDでリリース。
2005年、ヘンズリーのソロ曲を2005年に再録音したアルバム『Cold Autumn Sunday』をリリースした。
2006年から、ソロ名義のプロジェクトの他、リーダー・バンド「Live Fire」を率いてケン・ヘンズレー & ライヴ・ファイア(Ken Hensley & Live Fire)としても活動。
2007年5月、多くの特別ゲストをフィーチャーしたロック オペラ『ブラッド オン ザ ハイウェイ』を公開。この物語は、ロックンロール スターの栄枯盛衰を描いている。 リード・ヴォーカルの役割は、ヘンズリーとグレン・ヒューズ(元ディープ・パープル、トラピーズ、ブラック・サバス)、ヨーン・ランド(元ザ・スネークス、マスタープラン)、ジョン・ロートン、イヴ・ギャラガーの間で分担された。
2008年9月、ヘンズリーは「Heepvention 2008」ファンミーティングのために、元ユーライア・ヒープのバンド仲間であるロートン、カースレイク、ニュートン、元フォーカスのギタリスト、ジャン・デュメとともに再びステージに立った。
その後ヘンズリーは新しいアルバムの執筆とレコーディングを続ける。
2011年、ライヴで新曲を初スタジオ録音したケン・ヘンズレー & ライヴ・ファイア名義のアルバム『Faster』を発表。
2012年、スペインの自宅近くで録音された『Love & Other Mysteries』というタイトルの曲集をリリース。
2013年、ケン・ヘンズレー & ライヴ・ファイアのライヴ・アルバム『Live Fire』がチェリー・レッド(Cherry Red Records)からリリース。
9月、修正されたライブ・ファイアのラインナップで録音された新曲10曲を収録したアルバム『トラブル』(Trouble)を、チェリー・レッドからリリース。
晩年、ヘンズリーは妻のモニカとともに、スペインのアリカンテ近くのアゴスト村に住んでいた。
2020年11月4日、ケン・ヘンズレーは、短期間の闘病の末、スペインにて死去。75歳没。
2021年3月5日、生前に完成させていたソロ・アルバム『My Book of Answers』がリリースされる。これが遺作となった。
(参照)
Wikipedia「ケン・ヘンズレー」「Ken Hensley」「ゴッズ」「 The Gods (band)」「Toe Fat」「ユーライア・ヒープ」「Uriah Heep」「ブラックフット」「Blackfoot (band)」
(関連記事)



