マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield/出生名:Michael Gordon Oldfield/1953年5月15日~)は、英国のミュージシャン。

 

 

 

1953年5月15日、マイケル・ゴードン・オールドフィールドは、英国イングランドのバークシャー州レディング(Reading, Berkshire)で、英国人の一般開業医レイモンド・ヘンリー・オールドフィールド(1923-2016年)とアイルランド人の看護師モーリーン(旧姓リストン)の間に誕生。母親はアイルランドのコーク州チャールビル出身で、看護職に就くためにイギリスに移住した。彼には姉のサリーと兄のテレンスがいる。

 

早くから音楽に触れ、幼少時よりピアノを習い始める。

 

7歳の時、母親はダウン症を患っていた弟デヴィッドを出産したが、幼児期に死亡。

母はバルビツレート系薬剤を処方されており、彼女はその依存症になった。 母は精神的健康上の問題を抱えており、残りの人生の多くを精神病院で過ごすことになる。

 

10歳からギターを手にする。最初は父親から贈られた6弦アコースティック・ギターで学んだ。彼は、フォークギタリストのバート・ヤンシュとジョン・レンボーンの曲の一部をコピーし、ポータブルレコードプレーヤーで演奏することで技術を学んだ。彼は楽譜を学ぼうとしたが、学習は「とても、とても遅い」もので、「必要なら、何かを書き留めることもできる。でも、書くのは好きではない。」と述べた。

 

オールドフィールドは地元レディングで、ハイランズ中学校、セント・エドワーズ予備校(現在もタイルハースト・ロードにある)、プレゼンテーション・カレッジ(バス・ロード)に通った。

 

12歳になる頃、 彼は地元のフォーククラブや青少年クラブ、ダンス・パーティーでエレキギターを演奏し、1回のギグで4ポンドもの収入を得るようになっていた。

この頃、オールドフィールドは絵画を始めたため6か月間音楽活動を休止している。

 

13歳の時、一家は当時エセックスにあったハロルド・ウッドに移り、オールドフィールドはホーンチャーチ・グラマー・スクールに通い、そこですでに音楽の才能を発揮し、英語でGCE資格を1つ取得した。

 

1967年、姉のサリーから誘われ、フォーク・デュオ「サリアンジー」(The Sallyangie)を結成。グループ名は、姉の名前とオールドフィールドのお気に入りのヤンシュ曲“アンジー”(Angie)から取られた。 二人はイギリスとパリをツアーし、トランスアトランティック・レコードと契約を結んだ。

 

1968年5月、15歳になった時、校長から長い髪を切るように要求されたオールドフィールドはこれを拒否、突然学校を中退した。その後、オールドフィールドはフルタイムでプロとして音楽を追求することを決意する。

8月、サリアンジーはアルバム『チルドレン・オブ・ザ・サン』(Children of the Sun)を発表した。しかし姉弟デュオはこのアルバム一枚で解散し、オールドフィールドは神経衰弱に陥った。

 

その後、ロンドンでのセッション活動を通じてケヴィン・エアーズやデヴィッド・ベッドフォードと知り合い、ケヴィン・エアーズのバック・バンド「ザ・ホール・ワールド」(The Whole World)でベースを担当する。

 

1970年、エアーズのアルバム『月に撃つ(Shooting at the Moon)』に参加。

 

1971年、エアーズのアルバム『彼女のすべてを歌に(Whatevershebringswesing)』にも参加した。だが、その後バンドは解散したため、セッション・ミュージシャンをしながらベッドフォードから音楽理論を学ぶ。

 

1973年5月25日、リチャード・ブランソン(Sir Richard Charles Nicholas Branson/ 1950年7月18日-)が主宰する新興レーベル、ヴァージン・レコード(Virgin Records)の第一弾アーティストとして、1stアルバム『チューブラー・ベルズ』(Tubular Bells)でデビュー。2400回もの多重録音を繰り返して制作されたこの壮大なアルバムは全英1位・全米3位を記録。別人の演奏となったが、特徴あるイントロのフレーズが1974年のアメリカ映画『エクソシスト』(The Exorcist)に使用されたことでさらに知名度が向上。現在までに英国内で276万枚を売り上げ、全英歴代トップ30にランクインする程の大ヒットとなり、今日でもプログレッシブ・ロックの歴史的名盤とされている。

ここから"Mike Oldfield's Single"が全英31位になった。

 

 

 

1974年9月2日、2ndアルバム『ハージェスト・リッジ』(Hergest Ridge)をリリース、2作連続で全英1位を記録した。

 

 

 

1975年初め、次のアルバムを書き始めた直後、母親が亡くなった。

11月3日、3rdアルバム『オマドーン』(Ommadawn)をリリース、全英4位を記録。ここから"In Dulci Jubilo" / "On Horseback"が全英4位をマークした。

 

 

 

だが、ヒットが続く中、成功によって生じた精神的重圧に苦しみ、オールドフィールドは長期間の療養生活に入る。

 

 

1976年、シングル"Portsmouth"をリリース、全英3位になった。

 

 

1977年、シングル"William Tell Overture"が全英51位、"Cuckoo Song"が全英53位を記録した。

 

 

 

1978年12月1日、4thアルバム『呪文』(Incantations)を発表してカムバックを果たす。アルバムは全英14位をマークした。

これ以降は、アルバムを発表するだけでなく精力的にツアーも行うようになる。

 

 

1979年、シングル"Guilty"が全英22位、"Blue Peter"が全英19位に入った。

 

 

7月27日、ヨーロッパでのコンサートの模様を収めたライヴ・アルバム『エクスポウズド』(Exposed)をリリース。

11月23日、5thアルバム『プラチナム』(Platinum)をリリース、全英24位。

 

 

1980年10月31日、6thアルバム『QE2』をリリース、全英27位。

 

 

1982年3月19日、7thアルバム『ファイヴ・マイルズ・アウト』(Five Miles Out)をリリース、全英7位。ここからは、タイトル・トラック“ファイヴ・マイルズ・アウト”(Five Miles Out)が全英43位・スペイン4位、ホール&オーツのカヴァーで知られる“ファミリー・マン”(Family Man)が全英45位・スペイン3位・デンマーク7位とシングルヒットになった。

 

 

 

5月26日、渋谷公会堂で1日のみの初来日公演を開催。招聘元は、ウドー音楽事務所。公演では主に『プラチナム』、『チューブラー・ベルズ』、『オマドーン』等からの楽曲を演奏、マギー・ライリー(Maggie Reilly/1956年9月15日-)が参加した。なお、レコードやTシャツ等の物販は行われたが、公演パンフレットの販売はなかった。

 


1983年5月27日、8thアルバム『クライシス』(Crises)をリリース、全英7位をマークした。マギー・ライリーのヴォーカルによる“ムーンライト・シャドウ”(Moonlight Shadow)は、英国でこそシングルチャート4位に留まったが、ヨーロッパ各国でチャート首位を獲得する大ヒットとなり、その後アニー・ハズラムやアゼリン・デビソンがカヴァーする代表曲となる。

 

 

この頃から、時代の変化に合わせて従来のプログレッシブ・ロックからのアプローチをやめ、所属レコード会社であるヴァージンのイニシアティヴの下でポップ寄りの作品を発表するようになる。


 

1984年、Barry Palmerをヴォーカルに迎えた"Crime of Passion"をリリース、全英61位に入った。

 

6月25日、9thアルバム『ディスカバリー』(Discovery)をリリース、全英15位を記録。ライリーがヴォーカルを取り全英48位になった“トゥ・フランス”(To France)をはじめ、ライリーとバリー・パーマーのデュエット・ナンバー“トリックス・オブ・ザ・ライト” (Tricks of the Light)がシングル・ヒットした。

 

 

11月2日、米英合作映画『キリング・フィールド』(The Killing Fields)が公開、オールドフィールド自身初めてサウンドトラックを手掛けた作品となり、“キリング・フィールドのテーマ”(Étude)を制作した。

 

 

1985年、Anita HegerlandとBarry Palmer、そしてAled Jonesをヴォーカルに招いたシングル"Pictures in the Dark"が全英50位になった。

 

 

1987年9月28日、11thアルバム『アイランズ』(Islands)をリリース、全英29位。ボニー・タイラーのヴォーカルによるタイトル・ナンバー“アイランズ”(Islands)が全英チャート入りした。

 

 

1989年7月10日、12thアルバム『アース・ムービング』(Earth Moving)をリリース、全英30位。ここから“イノセント”(Innocent)がドイツで8位に入った。

 

 

1990年5月28日、13thアルバム『アマロック』(Amarok)をリリース、全英49位。

 

 

1991年、「Michael Oldfield」名義で14thアルバム『ヘヴンズ・オープン』(Heaven's Open)をリリース。タイトル・ナンバー“ヘヴンズ・オープン”(Heaven's Open)ではオールドフィールド自身がヴォーカルを取った。

 

 

1992年、ワーナーに移籍。

8月31日、代表作『チューブラー・ベルズ』の続編『チューブラー・ベルズII』(Tubular Bells II)を15thアルバムとして発表し、全英1位をマーク。ここからのシングルは、 "Sentinel"が全英10位、"Tattoo"が全英33位、"The Bell"が全英50位を記録した。

 

 

 

 

 

1993年、コンピレーション・アルバム『四界よりの断片〜エレメンツ』(The Best of Mike Oldfield: Elements)をリリース。ここから"Moonlight Shadow"が全英52位をマークした。

 

 

1994年11月21日、16thアルバム『遥かなる地球の歌』(The Songs of Distant Earth)をリリース、全英24位を記録。ここから、"Hibernaculum"が全英47位、"Let There Be Light"が全英51位に達した。

 

 

 

1996年8月26日、17thアルバム『ヴォイジャー』(Voyager)をリリース、全英12位。ここから"Women of Ireland"が全英70位に入った。

 

 

1998年8月31日、さらなる続編となる18thアルバム『チューブラー・ベルズIII』(Tubular Bells III)を発表、全英4位をマークした。同作のワールドプレミアム公演には、かつてレーベル移籍問題で確執が取りざたされたリチャード・ブランソンが観客として会場に訪れた。

 

 

1999年5月24日、19thアルバム『ギターズ』(Guitars)をリリース、全英40位。 

11月26日、20thアルバム『ザ・ミレニアム・ベル』(The Millennium Bell)をリリース。ここから"Man in the Rain"が全英チャート入りした。

 

 

2002年6月3日、21stアルバム『トレス・ルナス』(Tr3s Lunas aka Tres Lunas)をリリース。Jude Simをヴォーカルに迎えた"To Be Free"がオーストリアで25位に入った。

 

 

2003年5月26日、22ndアルバムとして続編『チューブラー・ベルズ2003』(Tubular Bells)をリリース、全英51位。

 

 

2004年、マーキュリーに移籍。

 

 

2005年9月26日、23rdアルバム『Light & Shade』をリリース。 

 

 

2008年3月17日、24thアルバム『天空の音楽』(Music Of The Spheres)をリリース、全英9位。"Spheres"がシングル・カットされた。

 

 

 

2012年、ロンドンオリンピックの開会式で演奏を行った。

 

 

2013年3月3日、25thアルバム『マン・オン・ザ・ロックス』(Man On The Rocks)をリリース、全英12位。 ここからシングル"Sailing"が全英チャート入りした。

 

 

2017年1月20日、26thアルバム『Return To Ommadawn』をリリース、全英4位。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マイク・オールドフィールド」「Mike Oldfield」「The Sallyangie」