ジョン・フルシアンテ(John Frusciante/出生名:John Anthony Frusciante/1970年3月5日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャン。レッド・ホット・チリ・ペッパーズのギタリスト、ヴォーカリスト。



 

1970年3月5日、ジョン・アンソニー・フルシアンテが、ニューヨーク市クイーンズ地区で生まれた。両親はともに音楽家であった。彼の父ジョン・オーガスタス・フルシアンテはイタリア系で、後にフロリダの巡回裁判所判事になる弁護士だが、元はジュリアード音楽院で訓練を受けたピアニストであった。また、母親のゲイル・ブルーノは専業主婦だったが、結婚する前は有望なヴォーカリストであった。母ゲイルは後に、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの曲“アンダー・ザ・ブリッジ”で歌声を披露している。

 

フルシアンテは家族とともにアリゾナ州ツーソン、その後フロリダに移り、そこで父親はブロワード郡の裁判官になり、 2010年10月まで務めた。

彼の両親は別居し、彼は母親とともにカリフォルニア州サンタモニカに引っ越した。

 

1年後、フルシアンテと彼の母親は、新しい継父とともにロサンゼルスのマービスタに転居。フルシアンテはLAのパンク・ロック・シーンに参加するようになった。

 

9歳の時、彼は The Germs に夢中になり、彼らのアルバム (GI) を繰り返し聴いていた。彼は後に彼自身の発明の非標準的なチューニングを使用して、シングルフィンガーバレのアルバムから曲を演奏した。

11歳の時、フルシアンテは、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ギルモア、ジミ・ヘンドリックスなどのギタリストの勉強を始めた。


15歳の時に観たレッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers/以下「レッチリ」)のライヴに魅了され、ギターとベース、歌詞をすべて暗記する程のめり込む。

 

16歳の時、彼は両親の許可を得て高校を中退し、習熟度テストを完了した。

サポートを受けて、彼はロサンゼルスに移り、音楽家としての才能を伸ばした。

彼はギター工科大学で授業を受け始めたが、実際には出席せずにパンチインするようになり、その後すぐに学校を去った。
 

1988年12月、オリジナル・メンバーのギタリスト、ヒレル・スロヴァクが死去し、代役ギタリストも早々にバンドを去っていたレッチリにオーディションを経て加入。当時18歳のジョン・フルシアンテにとって、これが実質的に初のバンド活動であった。

なお、同じ時期にチャド・スミスもオーディションを受けて加入した。これでラインナップは、アンソニー・キーディス(Anthony Kiedis/Vo)、フリー(Flea/本名:Michael Balzary/B,Cho)、チャド・スミス(Chad Smith/Ds)、そしてジョン・フルシアンテ(G)が揃った。

 

 

1989年8月22日、レッチリは4thアルバム『母乳』(Mother's Milk)をリリース。フルシアンテとスミスが加入後にバンドが発表した初のアルバムは、全米52位に入った。ここから、"Higher Ground"が『ビルボード』誌「オルタナティヴロック」チャート(以下「オルタナ」)11位・全英54位、"Knock Me Down"がオルタナ6位、"Taste the Pain"が全英29位をマーク。

 

 

 

 

1991年9月24日、5thアルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』(Blood Sugar Sex Magik)をリリース、全米3位の大ヒットとなり、世界中で1,300万部を売り上げた。ここから、"Give It Away"が全米73位・オルタナ1位・全英9位、"Under the Bridge"が全米2位・オルタナ6位・全英13位、"Suck My Kiss"がオルタナ15位、"Breaking the Girl"がオルタナ19位・全英41位をマーク。アルバムとシングルの大ヒットにより、バンドは一気にスターダムにのし上がった。

 

 

 

 

 

だが、バンドの余りに急な成功にフルシアンテは戸惑い、反発を覚えた。その心情はやがてバンドからの離反につながっていく。

 

 

1992年9月29日、キャピトル時代のベストアルバム『ホワッツ・ヒッツ!?』(What Hits!?)をリリース、全米22位。
5月7日、ツアーのために来日し、東京のクラブ クアトロでの公演中、フルシアンテはステージに上がることを拒否し、バンド仲間にバンドを去ることを告げた。演奏するよう説得されたがフルシアンテは聞く耳を持たず、翌朝カリフォルニアに向けて出発した。後任のギタリストには、元ジェーンズ・アディクションのギタリスト、デイブ・ナヴァロが収まった。

バンドを脱退したフルシアンテは一時期、半ば隠遁生活を送り、ヘロイン中毒とうつ病に苦しんだ。

 

 

1994年3月8日、フルシアンテはソロアルバム『Niandra Lades and Usually Just a T-Shirt』をリリースしてソロデビュー。

 

 

1997年8月26日、フルシアンテは2ndソロ・アルバム『Smile from the Streets You Hold』をリリース。アルバムの最初のトラック“Enter a Uh”は、不可解な歌詞とヒステリックな金切り声が特徴であった。フルシアンテもトラック全体で咳をし、健康状態の悪化を示していた。アルバムは「Height Down」でフェニックスをフィーチャーしています。 フルシアンテは、「ドラッグマネー」を得るためにアルバムをリリースしただ、1999年に市場から撤退した。

 

 

1998年初頭、レッチリはギタリストのデイブ・ナヴァロを解雇し、バンド解散の危機に瀕していた。フリーはキーディスに、フルシアンテの復帰を進言した。



1999年、病と薬物中毒を克服してフルシアンテがレッチリに復帰。以後は、バンドサウンドの核として活躍する。

6月8日、アルバム『カリフォルニケイション』(Californication)をリリース、全米3位・全英5位に達した他、各国でチャート上位を占めた。ここからのシングルは、"Scar Tissue"が全米9位・オルタナ1位・全英15位、"Around the World"がオルタナ7位・全英35位、"Otherside"が全米14位・オルタナ1位・全英33位、そしてタイトルトラックの"Californication"が全米69位・オルタナ1位・全英16位をマークした。

 

 

 

 

 

 

2001年、フルシアンテは3枚目のソロアルバム『To Record Only Water for Ten Days』をリリース。オルタナティヴ・ロックから離れており、エレクトロニックやニュー・ウェーブの要素に重点を置いている。ギター作品に加えて、フルシアンテはさまざまなシンセサイザーを試し、このレコードの特徴となっている。

 

 

2002年7月9日、アルバム『バイ・ザ・ウェイ』(By The Way)をリリース、全米2位・全英1位をはじめ、世界中でチャート首位を獲得した。タイトルトラック"By the Way"が全米34位・オルタナ1位・全英2位になったのをはじめ、"The Zephyr Song"が全米49位・オルタナ6位・全英11位、"Can't Stop"が全米57位・オルタナ1位・全英22位をマークした。

 

 

 

 

 

2003年11月18日、『グレイティスト・ヒッツ』(Greatest Hits)をリリース、全米18位・全英4位に到達。ここから"Fortune Faded"がオルタナ8位・全英11位になった。

 

 

2004年2月24日、4thソロアルバム『Shadows Collide With People』をリリース。チャド・スミスも参加した本作は、全米191位・全英53位をマーク。

 

8月3日、ライヴアルバム『ライブ・イン・ハイド・パーク』(Red Hot Chili Peppers Live in Hyde Park)をリリース、全英1位になった。

11月23日、Josh Klinghofferとの共作アルバム『A Sphere in the Heart of Silence』をRecord Collectionからリリース。

 

 

2006年5月9日、アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』(Stadium Arcadium)をリリース、全米・全英をはじめ、世界各国のチャートで首位を独占した。世界的ヒットとなったこのアルバムからは、"Dani California"が全米6位・オルタナ1位・全英2位、"Tell Me Baby"が全米50位・オルタナ1位・全英16位、"Snow (Hey Oh)"が全米22位・オルタナ1位・全英16位、"Desecration Smile"が全英27位、"Hump de Bump"がオルタナ8位・全英41位を記録した。

 

 

 

 

 

 

5月初旬に始まったアルバムを擁したツアーは、翌2007年8月下旬まで続いたが、ツアー終了後バンドは無期限の活動休止となった。

 

 

2007年、『ローリング・ストーン』誌の2007年2月号(7日発売)でジョン・フルシアンテは、ジョン・メイヤー、デレク・トラックスとともに「現代の三大ギタリスト」 (The New Guitar Gods) に選出された。


2009年1月20日、フルシアンテの8thソロ アルバム『The Empyrean』をRecord Collection からリリース。本作はコンセプト・アルバムで、レッチリからフリーが参加した他、ジョニー・マーらが共演。全米151位・全英105位をマークした。

 

7月29日、フルシアンテがレッチリを脱退。だが、その事実はすぐには公表されなかった。

10月、レッチリが活動を再開。

12月16日、フルシアンテは自身のオフィシャルサイトで「自身の音楽を探求したい」との理由で、レッド・ホット・チリ・ペッパーズからの脱退を公表。最初の脱退時とは異なり、他のメンバーもジョンの意思を尊重しており、円満な脱退となった。

 

 

バンド脱退後、フルシアンテは以前のアルバムのようなギター主体のサウンドを離れ、抽象的なエレクトロニカ、ポップ、ヒップホップの要素を備えた音楽を指向した。

 

 

2012年9月25日、フルシアンテは9thスタジオ・ソロ・アルバム『PBX Funicular Intaglio Zone』をリリース。この作品は、彼の亡き友人であり、元レッチリのツアー・シェフであるウェイン・フォーマンを偲んで書かれ、捧げられた。

同年、フルシアンテは「Trickfinger」名義でEP『Sect In Sgt』をリリースした。

 

 

2013年4月7日、ソロシングル"Wayne"を発表。

 

 

2015年4月、フルシアンテはTrickfinger名義で1stアルバム『Trickfinger』を発表。セルフタイトルのフル・スタジオ・アルバムとなった本作品は、フルシアンテがアシッド・ハウスのジャンルを初めて実験したものである。

 

11月24日、ソロシングル"Fight for Love"と"Medre"を発表。

 

 


2016年4月16日、フルシアンテは電子音楽のEP『Foregrow』をリリース。発売日は、同年のレコード・ストア・デイだった。RZA の映画『The Man with the Iron Fists』のために録音された表題曲“Foregrow”とインストルメンタル3曲で構成されていた。

 

 

2017年9月8日、フルシアンテは Trickfinger の別名で2枚目のスタジオ アルバム『Trickfinger II』をレーベル Acid Test からリリース。

 


2019年12月16日(現地時間では12月15日)、2度目の脱退からちょうど10年後、フリーとバンドの公式インスタグラムでレッド・ホット・チリ・ペッパーズへの二度目の復帰が発表された。

 

 

2020年2月8日、億万長者ロナルド・バークルの息子で映画プロデューサーの故アンドリュー・バークルのためにトニー・ホーク財団が主催した追悼式で、フルシアンテは13年ぶりにチリ・ペッパーズと共演した。
フルシアンテは、数年間ソロ活動で電子音楽に集中していた後、再びギターを弾くことに興奮していると語った。
3月29日、Trickfingerのアルバム『Look Down, See Us』をリリース。

 

6月5日、Trickfingerのアルバム『She Smiles because She Presses the Button』をリリース。

10月23日、ソロ名義でインストルメンタル エレクトロニック アルバム『Maya』をリリースした。 彼はこの一連の音楽制作で、歌ったり歌詞を書いたりすることにあまり興味がなくなり、「機械とコンピューターを行き来する」ことを楽しんだと語った。

 

 

2021年、フルシアンテとフリーは、ギャング オブ フォーへのトリビュート アルバム『The Problem of Leisure: A Celebration of Andy Gill and Gang of Four』に“Not Great Men”のカヴァーを提供した。

 

 

2022年4月1日、レッチリの12枚目のスタジオ アルバムであり、フルシアンテとの16年ぶりのアルバム『Unlimited Love』をリリース、全米1位・全英1位をはじめ世界中で1位を独占した。"Black Summer"が全米78位・米ロック10位・全英43位、"These Are the Ways"が米ロック38位を記録した。

 

 


6月4日、レッチリはインターナショナル スタジアム ツアーを開始した。
10月14日、レッチリは13枚目のスタジオ アルバム『Return of the Dream Canteen』 をリリース。このアルバムは、Unlimited Love と同じセッションで録音されたもので、全米3位・全英2位をはじめ、各国で1位を獲得した。ここからは、"Tippa My Tongue"が米ロック18位にチャートインした。

 

 


2023年2月3日、フルシアンテは、2枚の新しいソロ アルバム『I』と『II』をAcid Testから2枚同時にリリースした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジョン・フルシアンテ」「John Frusciante」「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」Red Hot Chili Peppers

 

 

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