ジュディス・ダーラム(Judith Durham/出生名:Judith Mavis Cock/1943年7月3日~2022年8月5日)は、オーストラリアのミュージシャン。同国出身のバンド「ザ・シーカーズ」のメインヴォーカル、ピアノ。

 

 

 

1943年7月3日、ジュディス・メイビス・コックは、オーストラリア連邦のビクトリア州エッセンドンで生まれた。父は、航海士で第二次世界大戦の探検家であったウィリアム・アレクサンダー・コック。母はその妻ヘイゼル(旧姓:ダーラム)。ジュディスは喘息を持って生まれた。

生まれてから1949年まで、彼女は家族とともにエッセンドンのマウント アレクサンダー ロードに住んでいた。

ジュディスは夏休みを、ローズバッドのダーラム・プレイスの西側にある家族が住む下見板の家(その後取り壊された)で過ごした。

 

4歳の時、喘息もちで生まれたジュディスは麻疹に罹り、それが原因で生涯にわたり慢性肺疾患である気管支拡張症(肺の気管支が拡張したまま、元に戻らなくなる病気)を患った。


1949年、父がスマニア州ホバートでの仕事を受け入れた。

 

1950年初頭から、家族はホバート郊外のタローナに住み、ダーラムはそこでファハン学校に通った。

 

1956年にメルボルンに戻り、バルウィンのジョージアン・コートに住んだ。

ジュディスはキュー・ルイトン女子学校で教育を受け、その後RMITに入学した。

ジュディスは当初ピアニストになるつもりで、メルボルン大学音楽院でクラシックピアノのオーストラリア音楽準資格(AMusA)を取得した。

 

彼女はピアノを演奏するプロの仕事をいくつか経験し、ソプラノ歌手としてクラシックの声楽訓練を受け、ブルーズ、ゴスペル、ジャズの曲を演奏した。

 

18歳のある夜、ジュディスの歌手としてのキャリアは、マルバーンのメンフィス・ジャズ・クラブでメルボルン大学ジャズ・バンドのリーダー、ニコラス・リブッシュにバンドと一緒に歌えるかどうか尋ねた時に始まった。

 

1963年、ジュディスは母親の旧姓であるダーラムを名乗って、フランク・トレイナー(JFrank Traynor)率いるバンド「ジャズ・プリーチャーズ」(Jazz Preachers)と同じクラブで演奏を始めた。 

同年、彼女はW&Gレコードからジャズ・プリーチャーズと初のEP『ジュディ・ダーラム』(Judy Durham)をレコーディングした。

同年にオーストラリアのコーラス・グループ「ザ・シーカーズ」(The Seekers) のリードシンガーとなった。

シーカーズはダーラム、アソール・ガイ、ブルース・ウッドリー、ABCラジオプロデューサーのキース・ポガーで構成されていた。ポガーの立場を利用して、3人は空き時間にデモテープを作成することができた。 これは、ジャズ・プリーチャーズのアルバムを録音することに同意する前に、ダーラムの声の別のサンプルを求めていた W&G レコードに提供された。

同年、代わりにW&Gはシーカーズとアルバム『イントロダクション・ザ・シーカーズ』(Introducing the Seekers)の契約を結んだ。このアルバムからは、"Waltzing Matilda"が豪州74位に入った。

 

しかし、ダーラムはジャズ・プリーチャーズと他に2曲、“マディ・ウォーター”(アルバム『ジャズ・フロム・ザ・パルピット』に収録)と“トロンボーン・フランキー”( ベッシー・スミスの“トロンボーン・チョリー”の改作版)の録音を行った。

 

 


1964年初頭、シーカーズは SSフェアスキー号で英国に向かい、グループは音楽エンターテイメントを提供した。当初彼らは10週間後に帰国する予定だったが、ファースト・アルバムのコピーをグレード・エージェンシーに送ったところ、その後も続々と仕事が舞い込んだ。

同年、グループは2枚のアルバム、すなわち『The Seekers」(別名『Roving with the Seekers』)と『Hide & Seekers』(別名『The Four & Only Seekers』または『The New Seekers』)を制作・リリースし、前者の収録曲"Danny Boy"はシーカーズ時代はもちろん、後にソロになってからもダーラムの愛唱歌となった。また、後者は豪州79位になったシングル"What Have They Done to the Rain"を輩出し、米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)にランクインした。

 

 

 

11月4日、EMIの有名なアビー・ロード・スタジオで、シーカーズは“恋はたったひとつ”(I'll Never Find Another You)を録音した。

 

 

1965年2月、“恋はたったひとつ”はシングル・リリースされ、豪州や英国でナンバーワンを獲得、さらに『ビルボード』誌の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)で4位、同誌「アダルト・コンテンポラリー」チャート(以下「AC」)では2位に達した。

 

同年、グループはアルバム『A World of Our Own』(別名『The Seekers』としても知られる)をリリース、全英5位・全米19位をマークした。ここからは、アルバムのタイトルトラック“二人の世界”(A World of Our Own)が豪州2位・全英3位・全米19位・AC2位に達し、南アフリカでは首位を獲得するヒットシングルとなった。

 

 

また、前年のアルバム『Hide & Seekers』から"朝の街に陽が昇る"(Morningtown Ride)をリカットすると、豪州8位・全英2位・全米44位・AC13位をマークするヒットになった。

 

この年、さらにシングル"涙のカーニバル"(The Carnival Is Over)をリリースすると、豪州やイギリス、アイルランドやニュージーランドで首位を獲得、その他多くの国でもトップ3に入る大ヒットになったが、全米105位・AC27位とアメリカでは振るわなかった。なお、"涙のカーニバル"は今日でもイギリスで最も売れたシングルの歴代トップ50に入っている。

 

 

1966年、シングル単独でリリースした“Someday, One Day"が豪州4位・全英11位、"Walk with Me"が豪州33位・全英10位とヒットした。

 

9月、アルバム『カム・ザ・デイ』(Come the Day/別名『Georgy Girl』)をコロムビアからリリース、豪州7位・全英3位・全米7位を記録する。

 

10月、『カム・ザ・デイ』から“ジョージー・ガール”(Georgy Girl)をリカットすると、豪州1位・全英3位になった他、全米2位・AC7位の『ビルボード』誌チャートに加え、米音楽誌『キャッシュボックス』(Cash Box)ではアメリカのチャートで初のナンバーワンを獲得するなど大ヒット。同年公開の同名映画に使用された。

 


1967年3月12日、オーストラリアのメルボルンにあるシドニー マイヤー ミュージック ボウルでのパフォーマンスに20万人以上 (当時の都市の全人口のほぼ10分の1) が集まり、シーカーズはオーストラリアの公式史上最高記録を樹立した。

また、彼らのテレビスペシャル『ザ・シーカーズ・ダウン・アンダー』は史上最大のテレビ視聴者数(視聴率67)を記録。

11月、アルバム『Seekers Seen in Green』をリリース、豪州2位・全英15位をマークした。ここからのシングルは、"On the Other Side"が豪州24位・全米115位を記録した。

 

 

同年、単独リリースのシングル"When Will the Good Apples Fall"が豪州43位・全英11位・AC14位になった他、"Emerald City"が豪州32位・全英50位を記録した。

 

 

この年、シングル"The Olive Tree"を発表、全英33位をマークした。

 

 

1968年初めには、メンバー全員が「1967年のオーストラリア人」として全米最高の栄誉を獲得した。

2月のニュージーランドツアー中、ダーラムはシーカーズを辞める意思をメンバーたちに告げる。

7月、ライヴ・アルバム『Live at the Talk of the Town』をリリース、全英2位。ここからリカットした"朝日のかなたに"(Love Is Kind, Love Is Wine)が豪州51位・全米135位・AC21位を記録した。

 

7月、グループを脱退し、彼女はソロ歌手としてのキャリア追求を始めた。

8月、ダーラムはオーストラリアに帰国。

9月、彼女の最初の単独テレビ特別番組『ジュディス・ダーラムの夕べ』がナイン ネットワークで上映された。

同年、ソロアルバム『For Christmas with Love』をリリース。

 

 

1970年、2ndソロアルバム『Gift of Song 』をリリース。

 

 

同年、彼女はテレビスペシャル『ミート・ジュディス・ダーラム・イン・ロンドン』を制作し、キャリー・ジェイコブス=ボンド(1862年-1946年)の“完璧な一日の終わりに”を演奏して終了した。

 

 

1971年、3rdソロアルバム『Climb Ev'ry Mountain』をリリース。

 


1975年、ダーラムはオーストラリアのテレビシリーズ『キャッシュ・アンド・カンパニー』のエピソード「ゴールデン・ガール」でバーレスク系パフォーマーのサラ・シモンズ役で演技と歌の役を演じた。1800年代のオーストラリアの金鉱が舞台で、このエピソードには夫のロン・エッジワースも登場、ダーラムは “Oh Susanna”、“When Starlight Fades”、“Maggie Mae”、“Rock of Ages”、“There's No Place Like Home“、“The Lord Is My Shepherd”の6曲を演奏した。


1987年、ダーラムはエッジワースとともにメルボルンのトルバドールで一連のコンサートを開催し、二人が書いたオリジナル曲を演奏した。

 

 

1988年、エッジワースと夫婦二人でのコンサートが再演された。



1992年1月、ダーラムは“Australia Land of Today”をリリースし、ARIAチャートで最高124位を記録した。

 

 

1993年3月、コンピレーション・アルバム『The Silver Jubilee Album』をEMIからリリース、豪州3位・ニュージーランド3位をマーク。

これ以降、ダーラムはザ・シーカーズとの散発的なレコーディングとパフォーマンスを開始したが、主軸はソロ・パフォーマーとしての活動に置き続けた。

 

 

1994年4月、ソロアルバム『Let Me Find Love』をリリース、豪州8位に入った。

 

4月、シーカーズのコンピレーション・アルバム『A Carnival of Hits』をEMIからリリース、全英7位を記録した。

同年、シーカーズとともに再録音したシングル"A World of Our Own"が全英76位、 同じく"Georgy Girl"が全英79位を記録した。

 

 

1996年3月、ソロアルバム『Mona Lisas』をEMIからリリース、1997年には『Always There』として再リリース、全英46位をマークした。

 

 

1997年10月、シーカーズの一員としてアルバム『Future Road』をリリース、豪州4位・ニュージーランド13位をマークし、ARIAからプラチナ認定を受けた。

 

同年、ソロ名義でRussell HitchcockとMandawuy Yunupinguと共演した"I Am Australian"が豪州17に入った。

 

 

2001年11月、シーカーズはクリスマス・アルバム『Morningtown Ride to Christmas』をリリース、豪州で18位に達し、ARIAプラチナ認定を受けた。

 


2003年、ダーラムは60歳の誕生日を祝う「ザ・ダイヤモンド・ツアー」でイギリスをツアーした。 ツアーにはロイヤル・フェスティバル・ホールも含まれており、コンサートのCDとDVDも発行された。


2006年、ダーラムはオーストラリア国歌“アドバンス オーストラリア フェア”(Advance Australia Fair)の音楽とフレーズの現代化を開始。アボリジニのシンガーソングライターのクッチャ・エドワーズも歌詞を提供している。



2008年10月、ダーラムはアルバム『The Australian Cities Suite』をリリース、豪州81位でチャートインしたが、この収益はすべて慈善団体に寄付された。本プロジェクトは、ヴィクトリア管弦楽団やオーストラリア運動ニューロン疾患協会など、市長慈善基金と協力する慈善団体に利益をもたらすものであった(ダーラムは全国的な後援者であった)。


2009年2月13日、ダーラムはRocKwiz Salutes the Bowl – Sidney Myer Music Bowl 50th Anniversaryのクロージングナンバー“The Carnival Is Over”を演奏し、マイヤーミュージックボウルにサプライズ復帰した。

5月、ダーラムはセント・キルダ・ロードのフェデレーション・ホールで、新しいオーストラリア国歌“アドバンス オーストラリア フェア”(Advance Australia Fair)を初披露。 CDシングルとしてリリースされた。

 

5月23日、彼女はソロアルバム『Up Close and Personal』の発売記念としてメルボルンで1時間の「アカペラ」コンサートを行った。


2011年10月、ダーラムはデッカ・レコードと国際独占契約を結んだ。 ユニバーサル ミュージック オーストラレーシアのジョージ アッシュ社長は、「ジュディス ダーラムをデッカの素晴らしいアーティストの名簿に加えていただくことができて光栄です。デッカ レコードのカタログを飾ったレジェンドたちのことを考えると、ここはジュディスを迎えるのに最適な拠点です。 そして私たちは、ジュディスの新しいレコーディングだけでなく、彼女の素晴らしいカタログでも協力できることにこれ以上興奮することはできません。」と述べた。

10月、ソロアルバム『Epiphany』をリリース。

 

 

2013年11月、ソロアルバム『It's Christmas Time』をリリース。

 

 

 

2015年7月1日、彼女は音楽やさまざまな慈善活動への貢献が評価され、「ビクトリアン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。



2018年6月29日、ダーラムの75歳の誕生日を祝うために、これまで未発表だった14曲のコレクションがアルバム『So Much More』としてリリース、豪州46位にランキングされた。


 

2022年8月5日、ダーラムはメルボルンのアルフレッド病院にて亡くなった。79歳没。英『ガーディアン』紙によると、死因は幼少時から患っていた気管支拡張症だったという。

 

 

2022年9月6日、彼女を送るため、ビクトリア州による州追悼式がハマー・ホールで執り行われた。

ザ・シーカーズの最後のレコーディングである“キャリー・ミー“(Carry Me)は、州追悼式でアソール・ガイによって披露された。ブルース・ウッドリーによって書かれ、ガイ、ポッガー、ウッドリーがダーラムのヴォーカルに自分たちのヴォーカルと楽器演奏を追加した曲だった。

 

 

ダーラムは夫のロン・エッジワースとともにスプリングベールのスプリングベール植物墓地に埋葬されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Judith Durham」「ザ・シーカーズ 」「The Seekers」