ウェイン・フォンタナ(Wayne Fontana/出生名:Glyn Geoffrey Ellis/1945年10月28日~2020年8月6日) は、英国のロックおよびポップ歌手で、マインドベンダーズとの活動でよく知られている。

 

 

 

1945年10月28日、グリン・ジェフリー・エリスは、英国イングランドのランカシャー州マンチェスターのリーベンシュルム(Levenshulme, Manchester, Lancashire)で生まれる。

 

彼は音楽活動を始め、程なくして、エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley/1935年1月8日-1977年8月16日)のドラマーとして知られるD. J. フォンタナ(本名:ドミニク・ジョセフ・フォンタナ[Dominic Joseph Fontana]/1931年3月15日-2018年6月13日)から自身のステージネームを取り、「ウェイン・フォンタナ」(Wayne Fontana)を名乗り始めた。

 

1963年6月、フォンタナは、バック・グループである「マインドベンダーズ」(the Mindbenders)を結成し、偶然にも芸名にと同じ「フォンタナ・レコード」(Fontana Records)とレコーディング契約を結んだ。

同年、シングル"Hello Josephine"を「ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズ」(Wayne Fontana and the Mindbenders)名義でリリース、全英46位に達したが、続くシングル"For You, for You"はチャート入りを逃した。

 

 

 

1964年、"Little Darlin'"は再びチャート入りに失敗した。

 

次いでリリースした"Stop Look and Listen"は、全英37位に入った。

 

同年、"Um, Um, Um, Um, Um, Um"をリリースすると、初のトップ10入りとなる全英5位に到達した。

 

12月、セルフタイトルの1stアルバム『Wayne Fontana and the Mindbenders』をリリース、全英18位になった。

 

 

1965年1月22日、フォンタナはバンドとともに、シングル“ザ・ゲーム・オブ・ラブ”(The Game of Love)を英国でリリースし、全英で自己最高の2位、アメリカでは翌2月のリリースとなり、米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」で首位を獲得、全米No.1に輝いた。

 

2月、2ndアルバム『Eric, Rick, Wayne and Bob – It's Wayne Fontana and the Mindbenders』をリリース。

 

4月、アメリカでのデビュー盤『The Game of Love』をリリース。

 

同年、続くシングル“It's Just a Little Bit Too Late”が全英20位・全英46位、“​​She Needs Love”が全英32位と前作ほどの成功には至らなかった。

 

 

10月、フォンタナはバンドを脱退した。一説によるとコンサートの公演中に離脱したという。

バンドに別れを告げたフォンタナはソロシンガーとして、残されたマインドベンダーズはバンド単体として、それぞれ活動を続けていくことになる。

同年、バンドは辞めたがレーベルとの契約を維持していたフォンタナは、ソロシングル"It Was Easier To Hurt Her"をリリース、全英36位になった。

 

チャートで上位のポジションを達成するのに苦労したフォンタナは、外部の作家による多くの曲をレコーディングし、ほとんどの場合B面に彼自身が作曲した楽曲を収録するようになった。

 

 

1966年7月、1stソロアルバム『Wayne One』をリリース。

 

同年、 "Come on Home"をリリースして全英16位になるも、次のシングルである"Goodbye Bluebird"は全英49位止まりとなった。

その後、ホリーズにヒット曲“バスストップ”を提供したグレアム・グールドマン(Graham Keith Gouldman/1946年5月10日-)によって書かれたナンバー“パメラ、パメラ”(Pamela Pamela)をリリースすると、1967年初めにオーストラリアのケント・ミュージック・レポートで5位、全英11位に到達。フォンタナにとってソロ最大のヒット・シングルとなった。

 

なお、グールドマンは後の1968年にマインドベンダーズに加入、バンドは翌年に解散するが、そこで出会ったエリック・スチュワートと意気投合。スチュワートが立ち上げたストロベリー・スタジオの共同出資者となり、やがて旧知のケヴィン・ゴドレイ、ロル・クレームを誘いハウス・バンドとなる。これが発展して1972年にデビューしたのが10ccである。

 

 

1967年6月、フォンタナはアメリカ盤ソロアルバム『Wayne Fontana』をリリース。

後のシングルには、別のグールドマンの作曲“The Impossible Years”が含まれていた。

 

同年、"Gina"をリリースすると、ブラジルでチャート1位を獲得したが、本国イギリスではチャート入りを逃した。

 

 

1968年、"The Words of Bartholomew"をリリース、オーストラリアでチャート入りを果たしたが、やはりイギリスでは100位以内に顔を出すことさえできなかった。

 

 

1969年、いくつかシングルをリリースしたが、相変わらず商業的な成功を得ることはできなかった。

この年の最後に出した"Charlie Cass"も同様であった。

 

 

1970年、フォンタナはグラストンベリー・フェスティバルの最初のパフォーマーの一人となった。

同年、一連の失敗したリリースの後、フォンタナは活動を休むに至った。 

 

 

1973年、フォンタナはキャリアを再開しようとして、さらに別のグールドマンの曲"Together"を録音した。B面に、マインドベンダーズの元バンドメイトであるエリック・スチュワートと共同制作したオリジナル曲"One Man Woman"を収録してシングルリリースしたが、やはりチャート入りに失敗した。

 

 

 

1976年にポリドールからリリースされた最後のシングル"The Last Bus Home"の後、彼は音楽業界から大きく離れた。

 

 

1980年代初頭の短い期間、サルフォード ジェッツが彼を支援し、ウェイン・フォンタナとマインドベンダーズとして請求されました。フォンタナは後の2017年、『デイリーエクスプレス』のインタビューに当時の自分について「私は自己リタイアし、飲みすぎて、半分の時間でどこにいるのかわかりませんでした。」と語った。

 

飲酒をやめた後、彼は60年代のリバイバル・サーキットに参加した。

 

 

2005年、彼は破産を回避したが、警察がダービーシャー州グロソップの自宅に行った廷吏によって呼び出された後、逮捕された。彼は廷吏の車のボンネットにガソリンを注ぎ、廷吏がまだ中にいる状態で火をつけた。

 

 

2007年5月25日にフォンタナは再拘留された。彼はその後、剣、天秤、王冠、マント、サングラスを身に着けた正義の女神に扮してダービー クラウン コートに出廷し、「正義は盲目である」と主張した。彼は弁護士を解雇した。

同年11月10日、彼は車に火をつけた罪で11か月の刑を宣告されたが、1983 年の精神衛生法に基づいて拘留されていたため、すでに法律で定められた期間と同等の刑期を務めていたということで釈放された。

 

フォンタナは、特に60年代のソリッド シルバー ショーでパフォーマンスを続けた。

 

 

2020年8月6日、ウェイン・フォンタナことグリン・ジェフリー・エリスは、マンチェスターのストックポート(Stockport)にあるステッピング ヒル病院で、癌のため、74歳で亡くなった。彼の長年のパートナーは彼のそばにいた。彼には1人の娘と2人の息子がいた 。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Wayne Fontana」「the Mindbenders」

 

 

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