アル・クーパー(Al Kooper/出生名:Alan Peter Kuperschmidt/1944年2月5日~)は、アメリカ合衆国の作曲家、ミュージシャン、プロデューサー。

 

 

 

1944年2月5日、アラン・ピーター・クーパーシュミットは、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブルックリン区(Brooklyn, New York City)に住むユダヤ人一家に生まれ、クイーンズ区ホリス・ヒルズ(Hollis Hills, Queens, New York)で育つ。

 

少年期より、独学でピアノやギターを学ぶ。

 

1958年、クーパーのプロ・ミュージシャンとしての初仕事は14歳の時、ABCレコードのノベルティソング“ショートショート”で最もよく知られるロイヤル・ティーンズのギタリストとしてだった。1959年との説もある。


1960年、彼はソングライターのボブ・ブラスとアーウィン・レヴィンとチームを組み、シーラーク・ミュージック・パブリッシングのためにデモを書き、録音した。 

 

21歳の時、クーパーはマンハッタンのグリニッジ ビレッジに引っ越した。

1965年1月、ソングライター・チームとしてボブ・ブラス及びアーウィン・レヴィンと共作した“恋のダイアモンド・リング”(This Diamond Ring)がゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズ(Gary Lewis & the Playboys)のデビュー曲に起用され、2月に米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)1位となる。

 

同年、ジーン・ピットニー(Gene Pitney)のためにブラス及びレヴィンとのトリオで、 “I Must Be Seeing Things”を提供、全米31位をマークした。

 

6月15日、ボブ・ディラン(Bob Dylan/1941年5月24日-)がアルバム『追憶のハイウェイ 61』(Highway 61 Revisited)のレコーディングを開始。クーパーは見学のためにスタジオに入り、そこでギタリストで歌手のマイク・ブルームフィールド(Mike Bloomfield/1943年7月28日-1981年2月15日)と邂逅。

6月16日、ディランの“ライク・ア・ローリング・ストーン”(Like a Rolling Stone)レコーディングの際、即興でオルガンの演奏を提案し、飛び入りでセッションに参加、クーパーはハモンド・オルガンでクレジットされている。また、同年の「ニューポート・フォーク・フェスティバル」でディランのバックを務め、レコーディングと同様にハモンド・オルガンを演奏した。

 

同年後半、「ブルース・プロジェクト」(The Blues Project)のオーディションに参加し、オルガン、キーボード、ヴォーカル担当として同グループに加入する。

 

 

1966年1~3月、ボブ・ディランのアルバム『ブロンド・オン・ブロンド』(Blonde on Blonde)のレコーディングに参加。

3月、ブルース・プロジェクトのデビュー・アルバム『Live at The Cafe Au Go Go』でオルガンを弾き、“I Want to Be Your Driver”でリード・ヴォーカルを担当した。

 

同年、ピーター・ポール&マリーの『The Peter, Paul and Mary Album』に参加し、 "Well, Well, Well"でオルガンを演奏。また、トム・ラッシュの『Take a Little Walk with Me』などのレコーディングにも参加した。

 

6月発売のコンピレーション・アルバム『What's Shakin'』で自作曲“Can't Keep From Crying Sometimes”を自身の名義で発表する。

 

11月、ブルース・プロジェクトは2ndアルバム『Projections』をリリース。だが、アルバムが完成してすぐに、バンドは崩壊し始めた。

 

 

1967年春、クーパーはブルース・プロジェクトを脱退。

同年、クーパー脱退後にリリースされた『Live at Town Hall』は、そのタイトルに反して同ホールでのライヴ録音は1曲のみで、他は他会場でのライヴ音源や、ライヴを模すためスタジオ音源に拍手音を多重録音したもので、後者に含まれるクーパーの“ノー・タイム・ライク・ザ・ライト・タイム”("No Time Like the Right Time)は、バンド唯一のチャート入りシングルとなった。

 

6月16~18日、野外コンサート「モントレー・ポップ・フェスティバル」が開催され、クーパーは17日昼の部に単独で出演した。

同年秋、バンド「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」(Blood, Sweat & Tears/略称:BS&T)を結成する。バンド名は、ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash/1932年2月26日-2003年9月12日)の曲名をそのまま拝借している。


1968年初頭にモビー・グレープのジャム・セッションへマイク・ブルームフィールドとともに参加する。クーパーは“Black Currant Jam”で、ブルームフィールドは“Marmalade”でピアノを弾いた。
2月21日、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの1stアルバム『子供は人類の父である』 (Child Is Father to the Man)を発売。全米47位をマークした。

 

3月、BS&Tを音楽性の相違から脱退する。

4月、アルバム『Wow/Grape Jam』が発売。
4月15日にニューヨークのジェネレーション・クラブで、ジミ・ヘンドリックス、B.B.キング、ポール・バターフィールド、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドのエルヴィン・ビショップとフィリップ・ウィルソン(Ds)、バジー・フェイトン(B)、クーパー(Org)らはジャム・セッションした。“ライク・ア・ローリング・ストーン”も演奏され、クーパーはオリジナルと同様にオルガンを弾いた。この演奏はいくつかの非公式CDに収載されている。
7月22日にクーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーヴン・スティルス3人の共同名義でアルバム『スーパー・セッション』(Super Session)を発表、全米12位を記録する。

 

 

8月23日、ロサンゼルスのハリウッド・ボウルで開催されたサイモン&ガーファンクルのコンサートで、レコーディング・エンジニアを担当。本音源もいくつかの海賊盤に収載されている。
9月26・27日、サンフランシスコのフィルモア・ウェストでブルームフィールドと共演する。

9月28日は出演不可能となったブルームフィールドの代役としてエルヴィン・ビショップ、カルロス・サンタナらがクーパーのコンサートに参加した。

同年、ローリング・ストーンズの“無情の世界”(You Can't Always Get What You Want)、バターフィールド・ブルース・バンドのアルバム『In My Own Dream』、ジミ・ヘンドリックスの“長く暑い夏の夜”(Long Hot Summer Night)などのレコーディングに参加する。

 

 

 

1969年、前年にブルームフィールドと共演としたコンサートでのライヴ音源にオーバーダビングを施し、2枚組のアルバム『フィルモアの奇蹟』(The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper)として発表、全米18位を記録した。

 

 

2月、初のソロ・アルバム『アイ・スタンド・アローン』(I Stand Alone)を発表し、米国では1969年3月15日に全米54位を記録、同チャートに13週ランク入りした。

 

 

9月発売のジャニス・イアンのアルバム『愛のためらい』(Who Really Cares )にオルガンで参加する。

同年、2ndソロ・アルバム『孤独な世界』(You Never Know Who Your Friends Are)をリリース。全米125位。

 

 

 

1970年9月、3rdアルバム『イージー・ダズ・イット』(Easy Does It)をリリース。"Brand New Day" と "Love Theme from The Landlord"の2曲は、映画『 The Landlord』のサウンドトラックに提供された。

 

 

1971年6月、4thアルバム『紐育市(お前は女さ)』(New York City [You're A Woman])をリリース。

 


1972年、アトランタ市へ移住。

同年、アルバム『早すぎた自叙伝』(A Possible Projection of the Future / Childhood's End)をリリース、大部分の曲はロンドンでレコーディングされたが、スモーキー・ロビンソンのカヴァー“泣きたいくらいさ”(Swept for You Baby)のみロサンゼルス録音である。クーパーのアルバムとしては初めてシンセサイザーが多用された。収録曲“ザ・マン・イン・ミー”(The Man in Me)はボブ・ディランが1970年のアルバム『新しい夜明け』(New Morning)で発表した曲のカヴァーで、クーパーはオリジナル・ヴァージョンのレコーディングにも参加している。全米200位。

 

 

9月、ジョン・プライン“サム・ストーン”(Sam Stone)のカヴァー・バージョンをシングルとして発表する。

 

12月、アルバム『赤心の歌』(Naked Songs)を発表、評論家筋からの評価は良かったが商業的には今一つで、全米チャート入りは叶わなかった。アルバムに収録された“ジョリー”(Jolie)は日本で特別に愛好された。

 

 

同年、MCAレコードのサブ・レーベル「サウンズ・オブ・ザ・サウス」を設立し、「レーナード・スキナード」(Lynyrd Skynyrd) を世に出してサザン・ロック・ブームの一翼を担う。

 

 

1976年、アルバム『倒錯の世界』(Act Like Nothing's Wrong)をリリース。

 


1980年代以降は寡作となる。

 

 

1981年、ボブ・ディランのワールド・ツアーに帯同、オルガンを演奏した。

 

 

1982年、アルバム『チャンピオンシップ・レスリング』(Championship Wrestling)をリリース。

 

 

1994年、アルバム『Rekooperation』をリリース。

 

 

1995年、ライヴ・アルバム『Soul of a Man』をリリース。

 

 

2001年、ボックス・セット『Rare and Well Done: The Greatest and Most Obscure Recordings 1964-2001』をリリース。

 

 

2003年、来日して初の日本公演を、6月15日:渋谷クラブクアトロ、6月17・18日:SHIBUYA-AX、6月20日:心斎橋クラブクアトロにて実施。

 

 

2005年7月、11年ぶりの新作アルバム『ブラック・コーヒー』(Black Coffee)をリリースした。

 

10月5・6日、東京国際フォーラムホールCにて来日コンサートを開催。

 

 

2007年、来日して、12月7日:Billboard Live OSAKA、12月9・10日:Billboard Live TOKYO、12月12日:Billboard Live FUKUOKAを開催。

 

 

2008年、アルバム『ホワイト・チョコレート』(White Chocolate)をリリース。

 

 

 

2009年、4度目の来日により、4月10日:名古屋Bottom Line、4月11日:大阪BIG CAT、4月14・15日:Shibuya O-EASTで公演を開催。


2016年12月10日に日本で放送された『NHKスペシャル』の「ボブ・ディラン ノーベル賞詩人 魔法の言葉」で、ディランをよく知るミュージシャンとして取材を受ける。

 

 

2023年、クーパーは音楽優秀賞部門でロックの殿堂入りに選ばれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アル・クーパー」「Al Kooper」「The Blues Project」「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」「Blood, Sweat & Tears」

 

 

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