元プロレスラーで参議院議員も務めたアントニオ猪木さんが1日午前7時40分、都内の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。

 

 

 

 

 

 

アントニオ猪木(アントニオいのき/本名: 猪木 寛至〈いのき かんじ〉/1943年2月20日~2022年10月1日)は、日本のプロレスラー、実業家、政治家。

 


 

神奈川県横浜市鶴見区生麦町(現在の鶴見区岸谷)出身。父親は猪木佐次郎、母は文子(旧姓:相良)。父親は猪木が5歳の時に死去。前田日明は「猪木さんの弁によると父親は県会議員か何かだったって」と著書に書いている。実家は石炭問屋を営んでいたが第二次世界大戦後、世界のエネルギー資源の中心が石炭から石油に変わっていったこともあり倒産。

12歳で横浜市立寺尾中学校に入学するも、生活は厳しかった。

 

13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。ブラジル移住後最初の1年半は、農場で早朝5時から夕方の5時までコーヒー豆の収穫などを中心に過酷な労働を強いられた。

 

1960(昭和35)年4月11日、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。力道山から掛けられた最初の言葉は、「オイ、裸になれ」であった。上半身だけ脱がされて背中の筋肉を見て合格になったという。デビュー後は、猪木の素質に目をつけたサニー・マイヤースからもトレーニングのオファーを受けた。
9月30日、ジャイアント馬場と同日、本名の猪木寛至として、東京都台東区の台東区体育館で大木金太郎を相手にデビュー(7分6秒、逆腕固めで敗退)。

 

1962(昭和37)年11月9日、沖縄県那覇市での長沢秀幸との試合において、リングネームを「アントニオ猪木」に改名。このリングネームは、先輩レスラー豊登による命名である。

 

その後、アメリカ武者修行を経て帰国後、東京プロレスを立ち上げるも3か月で倒産。

 

日本プロレスに復帰し、ジャイアント馬場に次ぐポジションで活躍したが、様々な確執があり、同団体を離脱。

 

1972(昭和47)年1月26日、新日本プロレス(以下「新日」)を旗揚げした。

以降、数々の好カードを組み、力道山亡き後のプロレス黄金時代を築いた。

 

猪木が率いる新日は「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜し、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。

中でも1976年6月26日、プロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。

 

1983年(昭和58年)には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げる。しかし同年6月2日の第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負けを喫した。

この時代、猪木のビジネスの多くが失敗に終わり新日本プロレスの経営を圧迫、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、その後のタイガーマスクや長州力の退団騒動につながって行く。

1988(昭和63)年8月8日の藤波とのIWGP戦は、「猪木が負ければ引退か?」という憶測の中、IWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜いて藤波と決勝を戦い、試合は60分時間切れの引き分け。これが猪木最後のIWGP挑戦となった。

 

1989(平成元)年、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙に比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる。キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。史上初のレスラー出身の国会議員となった。

 

 

1990(平成2)年、湾岸戦争が危惧される中、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、在留外国人を国外出国禁止(事実上の人質)とした。その中に多くの日本人が含まれており、安否が気遣われていたが、外務省主導による人質解放交渉は遅々として進まなかった。こうした状況に痺れを切らした猪木は、被害者家族等を率いてあえて緊張高まるイラクでのイベント「スポーツと平和の祭典」を行うため、バグダードに向かうということを決断する。

12月1日、祭典関係者や人質被害者41家族46人とともにトルコ経由でバグダード入りを果たした。この時フセイン大統領は、一国会議員でしかない猪木を国賓級の扱いで迎えたという。
12月2・3日に行われたスポーツと平和の祭典では家族の面談は許されたものの、解放までには至らなかった。
12月5日、帰国直前に在留邦人の解放が決まり、7日には人質全員の解放が決定する。

 

 

1991(平成3)年、東京都知事選挙に、かつてNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳が出馬を表明した後に出馬を表明したが、マスコミから「なぜ出馬したのか?」と聞かれた際、猪木は「彼(磯村)には、かつて『ニュースセンター9時』でアリとの試合を茶番扱いされたので」と答えた。
その後スポンサーである佐川急便の佐川清会長、総理大臣及び自民党総裁経験者で清和研創始者の福田赳夫や、その愛弟子の森喜朗及び三塚博に説得されて出馬を断念し、磯村と政策協定を結んだ。

なお、猪木の出馬撤回に触発され、内田裕也が出馬、落選している。

 

 

1994(平成6)、5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収める。この試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まった。なお「ファイナルカウントダウン」と銘打ったが、カウントがダウンせずに「1・2・3」とアップしている。同年、公設第1秘書(当時)であった佐藤久美子およびスポーツ平和党前幹事長の新間寿らから告発を受ける、いわゆる「猪木スキャンダル」が発生。
これと前後して、もう1人のスポーツ平和党所属議員江本孟紀と党の運営を巡って対立が表面化。

1995(平成7)年の参議院選挙で落選。なお、同じ参院選挙では高田延彦が副党首を務めた「さわやか新党」も立候補したが、「スポーツ平和党」同様に議席を獲得出来なかった。選挙後、江本は離党した。

 

1998(平成10)年4月4日東京ドームにおける引退記念イベント「ファイナルイノキトーナメント」で行われた引退試合で、小川直也らと対戦し勝ち上がってきたドン・フライと対戦、グラウンド・コブラツイストで勝利し引退した。引退の際には「この道を行けばどうなるものか」で始まる『道』の詩を諳んじるスピーチを行った。この『道』のセリフは、後に盛んに春一番らがものまねの対象にしている。

 

 

2004(平成16)年4月を以て、スポーツ平和党は解散した。

 

 

2013年6月5日、日本維新の会より、第23回参議院議員通常選挙比例代表での出馬を表明。日本維新の会共同代表の石原慎太郎立ち会いの下で開催した記者会見で「猪木の元気を日本のために活かしたい」と国政再挑戦への意欲を漲らせた。
7月21日の投開票において、獲得票数35万6606票(同党内最多得票)で当選し、18年ぶりの国政復帰を果たした。
7月29日より議員氏名として「アントニオ 猪木」を使用することが、参議院で許可された。

 

 

2019年6月5日、第25回参議院議員通常選挙に出馬せず引退する意向を表明した。不出馬の理由は高齢であることや選挙に向けた野党間協定に対する思い等があることを述べた。

 

 

2020年7月26日、自身のツイッターで、難病の「心アミロイドーシス」という病におかされていることを告白。闘病生活を送っている。

2021年11月27日放送のNHK BSプレミアム『燃える闘魂 ラストスタンド 〜アントニオ猪木 病床からのメッセージ〜』にて、正式な病名は心アミロイドーシスではなく「全身性トランスサイレチンアミロイドーシス」だと公表した。

2022年10月1日、全身性トランスサイレチンアミロイドーシスによる心不全のため自宅で死去。79歳没。

 

 

 

「イノキボンバイエ」のフレーズを持つ入場曲“炎のファイター 〜INOKI BOM-BA-YE〜”は、元々モハメド・アリの伝記映画『アリ/ザ・グレーテスト』の挿入曲(マイケル・マッサー作曲)であったが、猪木と対戦したアリから猪木に贈られ、それをアレンジしたものである。猪木の弟子で、「猪木最後の闘魂継承者」と呼ばれる藤田和之は、同曲のオーケストレーション・バージョンを入場曲とする。また高校野球の応援などでも使用されることが多い。

「ボンバイエ」はリンガラ語の「Boma ye」(ボマ・イェ)が訛ったもので、直訳は「彼を殺せ」だが、「やっちまえ」程度の意味で使われる言葉である。アリがコンゴの首都キンシャサでジョージ・フォアマンと戦った際の声援が由来とされる。




1977(昭和52)年にシングルレコード“アントニオ猪木のテーマ 炎のファイター/炎のファイター(パート2)”(演奏:マンドリル)が発売(東芝EMI IER-20307)。

同年、「炎のファイター〜アントニオ猪木のテーマ」(演奏、歌 : アントニオ猪木とザ・ファイターズ)も発売された。B面には歌詞(作詞:なかにし礼)をつけた“いつも一緒に”(歌:倍賞美津子)がカップリングされていた(東芝EMI TP-10341)。歌詞をつけたのはアリ戦後に彼から曲のレコードが家に送られてきた際に、倍賞が提案したからである。

 

 

 

 

現役時代から様々なビジネスに手を出していた猪木だが、「タバスコ」を広めたのは猪木の功績である。

 

 

 

 

 

晩年の猪木と言えば、思い出す、この赤いマフラー。

 

 

 

 

常に何かと闘い続けてきたのが

アントニオ猪木の人生だったように思う。

 

どうか安らかにお休みください

 

合掌

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アントニオ猪木」