浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ/1917年7月22日~1990年12月2日)は、日本の作詞家・作曲家、シンガーソングライター。愛称は「ハマクラ」。




1917年7月22日、浜口庫之助は兵庫県神戸市に生まれる。父は建設会社を経営する実業家で、家庭環境は非常に裕福だった。

家族の多くが音楽好きで、兄弟はチェロ、ギター、ウクレレなどを嗜んだ。

浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、5歳の時には楽譜を読めるようになった。

 

小学2年の時、一家は東京へ引っ越した。

東京府立第四中学校(現:東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は、旧制第一高等学校(現:東京大学教養学部前期課程)入学を目指し勉学に励んだが受験に失敗。

 

1935年、早稲田大学高等予科(現:早稲田大学高等学院)に入学する。

 

1936年、早稲田大学高等予科を中退。

同年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。

 

1937年、渡米の夢が実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧告されて断念した。
米国行きを諦めた浜口は神戸製鋼所に就職したが、社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。

 

1939年、青山学院高等商学部(現:青山学院大学経営学部)に入学。

当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で立教大学や慶應義塾大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した。

1942年9月、青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。

浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の業務の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。

1945年、太平洋戦争終結後、現地で捕虜となる。

 

1946年5月に引き揚げ。

復員後、東京でバンドを結成、進駐軍を相手に演奏を行った。

その後、戦前から活躍していた歌手でウクレレ奏者の灰田勝彦(はいだ かつひこ/ 1911年8月20日-1982年10月26日)の誘いを受けて灰田が所属するハワイアンバンドのメンバーとなったり、自らも平岡精二や犬丸一郎、益田貞信らとハワイアン・バンド「村上一徳とサーフライダース」(後の「スウィング・サーフライダース」)に参加したり、「アフロ・クバーノ」を結成するなどして、音楽活動を継続。

1950年、最初の妻:邦子と結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也(はまぐち もとや/ 1951年7月16日-)。

1953~55年、「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」で『NHK紅白歌合戦』に3年連続出場。第4回は“国境の南(サウス・オブ・ザ・ボーダー)”、第5回は“セントルイス・ブルース・マンボ”、第6回は“インディアン・ラブコール”をそれぞれ披露した。


1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと気付く。そして浜口はバンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家・作曲家へ転向する。


1959年、“黄色いさくらんぼ”(作詞:星野哲郎/作曲:浜口庫之助/歌:スリー・キャッツ)、“僕は泣いちっち”(作詞・曲:浜口庫之助/歌:守屋浩)がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。

 

 

 

1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。

 

 

1960年11月5日、作詞した“有難や節”(作詞:浜口庫之助/作曲:パブリックドメイン/補曲:浜口庫之助/採譜:森一也/歌:守屋浩)を発売、本曲のヒット以降は社会情勢や大衆心理を捉えた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった。また、“有難や節”を題材にした1961年公開の日活映画『有難や節 あゝ有難や有難や』にも「会社社長・浜口庫之進」役で守屋とともに出演している。

 

 

1962年、守屋浩“夜空の笛”(作詞・曲:浜口庫之助)。

 

10月、五月みどり“コロッケの唄”(作詞・曲:浜口庫之助)。

 

 

1963年、妻:邦子と死別。

4月28日に公開された映画『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎監督)に、容貌が似ていることを買われて「昭和天皇」役で出演した。


1965年5月15日、坂本九のシングル曲“涙くんさよなら”が発売。坂本版の発売当初はさほどヒットしなかったが、同年9月にアメリカ人歌手ジョニー・ティロットソン(Johnny Tillotson/1938年4月20日-)がシングル曲として英語と日本語でカヴァーして大ヒット(英題は“Goodbye Mr. Tears”)。同年12月に和田弘とマヒナスターズが、1966年4月にジャニーズ(曲名は“涙くんさようなら”)が各々シングル発売して競作となり、グループ・サウンズ全盛期の名曲として知られるようになった。

 

6月、和田弘とマヒナスターズ&田代美代子のデュエット曲“愛して愛して愛しちゃったのよ”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:寺岡真三)が発売、ヒットになった。元歌は、小沢桂子(スリー・キャッツ)が1963年に日本コロムビアから発売した“愛しちゃったの”で、1964年に成田綾子が歌った時はヒットしなかった。

 

9月10日、西郷輝彦の“星娘”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、ヒットとなった。西郷は同年末の『第16回NHK紅白歌合戦』で本曲を歌唱している。

 

この頃、「浜口庫之助ミュージック・カレッジ」を開設、兄弟フォーク・デュオ「ビリーバンバン」の菅原進や、シンガーソングライター下田逸郎、パーカッショニストの斎藤ノブ、後には作詞家のちあき哲也を育て上げるなど、後進の指導や人材育成にも力を注ぎ、かつ才能を発揮した。


1966年4月5日、マイク眞木のシングル“バラが咲いた”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、本曲のヒットにより、眞木は同年末の『第17回NHK紅白歌合戦』に初出場し、リュートを手に歌唱した。1968年時点での累計売上は80万枚。

 

6月21日、青江三奈のデビュー・シングル“恍惚のブルース”(作詞:川内康範/作曲:浜口庫之助/編曲:寺岡真三)が発売、本作はいきなり約80万枚のヒット曲となり、青江三奈は同年大晦日の『第17回NHK紅白歌合戦』に本曲で初出場を果たした。

 

7月1日、西郷輝彦のシングル“星のフラメンコ”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、わずか2か月で50万枚を突破する大ヒットを記録し、西郷にとって代表曲となった。1963年創立の日本クラウンにとっては空前のレコード売上枚数であり、同社は全国のレコード店に感謝状を贈ったという逸話がある。1968年時点での累計売上は95万枚。

 

9月15日、ザ・スパイダースのシングル“夕陽が泣いている”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売、レコードは公称120万枚を超える売り上げを記録した。

 

10月30日、青江三奈の2枚目シングル“ブルー・ブルース”(作詞:川内康範/作曲:浜口庫之助/編曲:寺岡真三)が発売。

同年、和田弘とマヒナ・スターズの楽曲“ここがいいのよ”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲=小杉仁三)が「松平直樹・田代美代子・和田弘とマヒナ・スターズ」名義で発表。マヒナ・スターズのヴォーカル松平直樹と田代美代子のデュエット曲。

同年、“星のフラメンコ”、“バラが咲いた”により、日本レコード大賞(第8回)・作曲賞を受賞。

 

 

1967年1月15日、青江三奈3枚目のシングル“眠られぬ夜のブルース”(作詞:川内康範/作曲:浜口庫之助/編曲:寺岡真三)が発売。

2月、石原裕次郎のシングル“夜霧よ今夜も有難う”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売。B面収録曲“粋な別れ”も浜口の作詞作曲。

 

2月10日、由美かおるのデビュー・シングル“レモンとメロン”(作詞:水島哲/作曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。

 

5月5日、植木等のソロアルバム『ハイおよびです!!』に収録の“花と小父さん”、“笑えピエロ”を提供。“花と小父さん”は同1967年、伊東きよ子にカヴァーされてヒット。その後、植木のセルフ・カヴァーを含め何度かカヴァーされる。

6月15日、坂本九のシングル“エンピツが一本”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売。

 

7月15日、ザ・スパイダースのシングル“風が泣いている”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売、人気絶頂期に発売され、堺正章がソロで歌ってヒットした。

 

11月5日、水原弘のシングル“愛の渚”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小野崎孝輔)を発売、オリコン31位。

 

同年、自身の歌唱で“夜の虫”(作詞・曲:浜口庫之助)を発表、1974年には渚まゆみ、2006年にはみのもんたなど、数多くの歌手にカヴァーされた。

 

 

1968年、“ケメ子の歌”が、1月25日にザ・ジャイアンツ版(作詞・曲:馬場祥弘[小森豪人]/採譜・補作:浜口庫之助/編曲:寺岡真三)、2月1日にザ・ダーツ版(作詞・曲:馬場祥弘[小森豪人]/採譜・補作:浜口庫之助/編曲:浜口庫之助)がそれぞれ発馬される競作となり、浜口が編曲を担ったダーツ版がオリコン2位、ジャイアンツ版は同6位となった。

 

7月1日、島倉千代子のデビュー15周年記念シングル“愛のさざなみ”(作詞:なかにし礼、作曲:浜口庫之助、編曲:ボビー・サマーズ)が発売、オリコンでは2週連続で20位にランクされ、100万枚の大ヒットとなった。第10回日本レコード大賞特別賞受賞曲であり、『第19回NHK紅白歌合戦』で歌唱された。

 

 

1969年1月15日、ビリーバンバンがシングル“白いブランコ”(作詩:小平なほみ/作曲:菅原進/編曲:森岡賢一郎)を発売し、レコード・デビュー。本曲は1966年頃に浜口が主宰していた「浜口庫之助ミュージック・カレッジ」の門下生であった菅原進が、その当時東京都渋谷区の代官山に在った浜口邸の庭先にあったブランコに座っている時に着想を得て作ったもので、進にとって初めての作曲作品でもあった。作詞は、その当時、浜口庫之助ミュージック・カレッジで作詩(詞)クラスの生徒として在籍していた小平なほみによる。本曲は発売後、15万枚を売るヒットになり、デュオを代表する楽曲となった。

3月1日、マイク真木が結成したGSバンド「ザ・マイクス」の二代目女性ヴォーカリスト高田恭子のソロ・デビュー・シングル“みんな夢の中”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売、1969年7月までに50万枚を売り上げた。本楽曲のロング・ヒットにより高田は、1969年末の「第11回日本レコード大賞」で新人賞を受賞、同年末の『第20回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、本楽曲を歌唱した。

 

同年、トヨタ自動車「トヨタ・カローラ」CMソング“私のカローラ”(作詞・作曲・編曲は浜口庫之助/歌:クラウディアと浜口庫之助)を制作。その後、“いとしのカローラ”(作詞。曲:浜口庫之助)も制作した。

 

 

 

1970年5月1日、にしきのあきらのデビューシングル“もう恋なのか”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、第12回日本レコード大賞・最優秀新人賞、オリコン24位。

 

9月5日、水原弘のシングル“へんな女”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小谷充)が発売、オリコン41位。

 

10月31日、映画『銭ゲバ』が公開、唐十郎が歌唱する主題歌“銭ゲバ大行進”の作曲を手掛けた。

同年に発売されたヤクルト「ジョア」のCMソング“ヤクルト・ジョアのうた”(歌:小柳ルミ子)を制作。

 

 

1971年2月10日、にしきのあきらの3枚目シングル“空に太陽がある限り”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、30.8万枚の売上を記録し、にしきののシングルとしては自身最大の売上となった。オリコン3位。

 

9月10日、ちあきなおみ9枚目のシングル“しのび逢う恋”(作詞:白鳥朝詠/作曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。

 

9月21日、にしきのあきら5枚目シングル“心に火をつけて”(作詞:阿久悠/作曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。

同年、水原弘のシングル“こんど生れてくる時は”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。

 

 

1972年1月21日、にしきのあきら6枚目シングル“愛をありがとう”(作詞:阿久悠/作曲:浜口庫之助/葵まさひこ)を発売。

2月5日、天地真理の2枚目シングル“ちいさな恋”(作詞:安井かずみ/作曲:浜口庫之助/編曲:馬飼野俊一)が発売、売上54万枚、累計売上は90万枚(公称)。オリコン週間1位、1972年度年間9位。

 

同年、渚まゆみのシングル“タスコ慕情”(作詞:阿久悠/作曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売、初めて渚のシングル曲を手掛ける。B面は“青空はひとつ”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)。

同年、石原裕次郎のシングル“恋の町札幌”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売、ヒットになる。本曲は、1995年に石原裕次郎・川中美幸のデュエットで、2012年には里見浩太朗・熊田胡々のデュエットで、それぞれカヴァーされた。

 

浜口は鮮明に訴えかけるような個性の強い詞・曲作りを得意とし、今もなお一節が多くの人の記憶に残るようなヒット作が多い。

 


1973年、女優の渚まゆみと再婚。一女をもうけた。

5月21日、渚まゆみのシングル“奪われたいの”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。これ以降、渚のシングルA面は浜口作の楽曲が起用された。

 

 

1974年、渚まゆみのシングル“わたし半人前”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:馬飼野俊一)とカヴァー・シングル“夜の虫”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:小杉仁三)が発売。

 

 

1978年、江崎グリコ「プッチンプリン」CMソング。

 

 

1980年11月5日、森進一の50枚目シングル“夢という名の女”(作詞:阿久悠/作曲:浜口庫之助/編曲:薗広昭)が発売。

 

同年、当時プロスキーヤーで登山家、獣医師の三浦雄一郎のデビュー・シングル“恋の雪まつり”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:石田勝範)/“雪山の思い出”(作詞:三浦雄一郎・浜口庫之助/作曲:浜口庫之助/編曲:石田勝範)を手掛ける。

 

 

1983年、渚まゆみ9年ぶりのシングル“涙と幸せ”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:高田弘)が発売。

 

 

1984年、キャベッジパッチキッズ(キャベツ畑人形)のキャンペーンソング“キャベツ畑の子供たち”が「間下このみと子供たち」名義で発売。

 

 

1985年9月21日、渚まゆみのシングル“ロマン札幌”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:竜崎孝路)を発売。


1987年1月23日、島倉千代子に楽曲提供した“人生いろいろ”(作詞:中山大三郎/作曲:浜口庫之助)が発売されると大ヒット。第20回日本作詩大賞、第8回メガロポリス歌謡祭・演歌大賞、第30回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞、第29回日本レコード大賞・作詞賞を受賞、オリコン16位。累計売上は130万枚にも達し、島倉は本曲を「第2のデビュー曲」と思っていると語った。

 

 

1988年、五月みどりのシングル“恋する蝶々”(作詞・曲:浜口庫之助)が発売。



1989年、テレビ北海道開局記念番組『北海道はオーケストラ』の音楽を担当した。


1990年に文化庁から叙勲(勲四等)の打診があったが、「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。大衆のために歌を作るという浜口の思いの強さを物語るエピソードである。

 

 

 

 

1990年12月2日、浜口庫之助は、喉頭癌のため東京都豊島区の癌研究会附属病院にて死去した。73歳没。クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋の富士見町教会で営まれた。

 

 

 

 

1991年5月21日、堺正章の31枚目シングル“海の声 森の声”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:萩田光雄)が発売。

 

 

2006年11月22日、タレントで司会者のみのもんたが“夜の虫”(作詞・曲:浜口庫之助/編曲:竜崎孝路)をカヴァーしてシングルとして発売、ソロCDデビューした。カップリングの“花と小父さん”(クレジット同じ)も浜口の楽曲。同年11月10-16日のUSENの総合チャートで浜崎あゆみ“JEWEL”に次ぐ2位、演歌チャートで1位を獲得。オリコンシングルチャート初登場で演歌チャート6位、総合チャート90位。

 

 

2008年1月23日、コンピレーション・アルバム『浜口庫之助 CM大全』が発売。CMソングなど貴重な音源を収めたコレクション・アルバム。

 

 

2012年12月19日、コンピレーション・アルバム『スター☆デラックス 浜口庫之助 自作自演集』を発売。自身の持ち歌はもちろん、提供曲のセルフ・カヴァーも収録し、ヴォーカリストとしての実力を堪能できる全22曲。

 

 

2013年11月20日、コンピレーション・アルバム『浜口庫之助 メモリアル・ベスト』が発売。2枚組CD。

 

 

2017年7月19日、コンピレーション・アルバム『ハマクラの音楽いろいろ―浜口庫之助・生誕100周年記念企画―』を発売。ハマクラ作品100曲を収録したCD4枚組。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「浜口庫之助」

 

 


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