ドロレス・オリオーダン(Dolores O'Riordan/出生名:Dolores Mary Eileen O'Riordan/1971年9月6日~2018年1月15日)は、アイルランドのミュージシャン。ロックバンド「クランベリーズ」のリードシンガー。ソロ歌手としても活動した。
 

 

 

1971年9月6日、ドロレス・マリー・アイリーン・オリオーダンは、アイルランドのリムリック州バリーブリッケンで労働者階級の家庭に生まれる。9人兄妹の末子だが、兄弟のうち2人はドロレスが生まれる前に死亡している。
 

1989年、ノエル(Noel Anthony Hogan/1971年12月25日-/G)とマイク(Michael Gerard Hogan/1973年4月29日-/B)のホーガン兄弟と、ファーガル・ロウラー(Fergal Patrick Lawler/1973年4月29日-/Ds)の3人を中心としてバンドを結成。当時は「cranberry sauce」(クランベリーソース)をもじって「The Cranberry Saw Us」(クランベリー・ソー・アス)というバンド名だった。ヴォーカリストは友人のナイアル・クインだったが、やがて脱退。そこで、彼のガールフレンドのさらに友人であったドロレス・オリオーダンがオーディションの末に加入する。ドロレスはメロディを渡されるとすぐに作詞の能力を発揮し、翌日に完成させて披露した。これが後に大ヒットとなる“リンガー”である。

 

デモ音源300本を制作して国内のレコード店で完売させると、すぐに“リンガー”、“ドリームス”を含む新たなデモを制作開始し、バンド名を「ザ・クランベリーズ」(The Cranberries)と改名。この時に使用したゼリック・スタジオの経営者ピアース・ギルモアは後にクランベリーズのマネージャー/プロデューサーとなっている。デモはイギリスの各レコード会社に送られ、争奪戦の末にアイランド・レコードと契約することが決まる。

クランベリーズはプロデューサーのピアース・ギルモアとともにスタジオに入りシングル“Uncertain”を録音して、ゼリック・レコードから発売。

 

しかしこの作品は失敗に終わり、バンドとギルモアの緊張は高まってしまう。さらにメジャーデビューを目前に控えてギルモアが自己所有のスタジオに関する密約をアイランド・レコードと交わしていたことが判明し、解雇する。バンドは新たにマネージャーとしてラフ・トレード・レコードのジェフ・トラヴィスを雇用、トラヴィスの紹介によりステファン・ストリートプロデューサーとして起用することにした。
 

 

1992年9月28日、シングル“ドリームス”(Dreams)をリリース、全英27位・アイルランド9位・全米42位・米誌『ビルボード』の「オルタナティブ・ロック」チャート(以下「オルタナ」)15位になった。本曲は、米映画『ユー・ガット・メール』の主題歌や、日本でキリンビバレッジ「生茶」のCMに起用された他、香港の人気歌手フェイ・ウォンが“夢中人”としてカヴァーし、大ヒットさせた。

 

 

1993年2月15日、シングル“リンガー”(Linger)をリリース、全英14位・アイルランド3位・全米8位・オルタナ4位になった。

 

3月1日、デビュー・アルバム『ドリームス』(Everybody Else Is Doing It, So Why Can't We?)をリリース、全英1位・アイルランド1位・全米18位になった。女性リードシンガーであるドロレスの表現力豊かなヴォーカルにより、英国を中心に話題となるが、後の世界的成功にはまだ届かない状態であった。

 

しかし、バンドは挫けずにアメリカへ渡って9か月に渡るツアーをザ・ザやスウェードのサポートとして敢行。ツアーで徐々に評判を高めていくと、“リンガー”がMTVでヘヴィ・ローテーションされるようになってくる。これに後押しされるように“リンガー”はチャート8位、アルバム『ドリームス』はダブル・プラチナムに達する。ツアーを終えて地元リムリックに帰郷、イギリスでは年明けにアルバム・チャートを昇りだし、夏に1位となった。



1994年1月1日、アルバム『ノー・ニード・トゥ・アーギュ』(No Need to Argue)を発表。アメリカで初登場6位、年内にトリプル・プラチナムとなった。

 

9月19日、北アイルランド問題を取り上げた反戦歌“ゾンビ”(Zombie)をリカットすると、1990年代的な暗いヘヴィさが大きな話題になった。長期ツアーが翌年まで続く中で、“ゾンビ”は全英では14位ながら世界各国でチャート1位、ゴールドやプラチナム・ディスクになり、売り上げは1400万枚を超えた。

 

アルバムからは他に、"Ode to My Family"が全英26位・アイルランド11位・オルタナ11位になり、数か国でトップ10入り。また、"I Can't Be with You"が全英23位・アイルランド21位、"Ridiculous Thoughts"が全英20位・アイルランド23位・オルタナ14位になった。

 

 

 

同年、カーペンターズ(Carpenters)のトリビュート・アルバム『イフ・アイ・ワー・ア・カーペンター〜カーペンターズに捧ぐ』(If I Were a Carpenter)に“遙かなる影”([They Long to Be] Close to You)のカヴァーを提供。

 

 

1995年初頭にはMTVアンプラグドにも出演した。

 

 

1996年4月8日、新しいアルバムからの先行シングル"Salvation"をリリース、全英13位・アイルランド8位・オルタナ1位になった。

 

4月30日、オリオーダンの脱退が噂される中、ブルース・フェアバーンをプロデューサーに迎えて3rdアルバム『トゥ・ザ・フェイスフル・ディパーテッド - 追憶と旅立ち』(To the Faithful Departed)を発表。全英2位・全米4位になるものの前作ほどのヒットにはならず、チャートでは急降下した。

 

7月1日、アルバムから2枚目のシングル“フリー・トゥ・ディサイド”(Free to Decide)をリリースすると、全英33位・アイルランド23位ながら、アメリカでは全米22位・オルタナ8位に入るなど“リンガー”以来のヒットになった。

 

続くシングル"When You're Gone"も全米22位にチャートインした。

 

しかしオリオーダンがハード・スケジュールにより過労のためドクター・ストップとなってツアーは中断、バンドは2年の休暇を取る。

 

1999年4月19日、次作『ベリー・ザ・ハチェット』(Bury the Hatchet)をリリース、前作同様ロック色の強いアルバムとなり、13か国で1位となるものの全英7位・全米13位となる。

 

アルバムからは、"Promises"が全英13位・アイルランド19位・オルタナ12位、"Animal Instinct"が全英54位になった。

 

 

これに伴うツアーはバンド史上最大規模で最も成功したものとなり、パリ公演の模様は『ミレニアム・ライヴ・イン・パリ』として後にビデオ化された。



2001年、アルバムに先駆けてリリースされたシングル"Analyse"が全英89位・アイルランド28位になった他、イタリアで6位になった。

 

10月22日、5thアルバム『ウェイク・アップ・アンド・スメル・ザ・コーヒー』(Wake Up and Smell the Coffee)をリリースすると、初期のファンが待ち望んでいたステファン・ストリートがプロデューサーとして戻ってきた本作は歓迎された。しかしチャート成績は芳しくなく、アルバムからの2枚目と3枚目のシングルはイギリスでチャート入りできずに終わってしまう。それでもアルバムの売上枚数は現在までに150万枚を超えている。

    
 

2002年9月16日、クランベリーズは初のコンピレーション盤『スターズ:ザ・ベスト・オブ・クランベリーズ 1992-2002』( Stars - The Best of 1992 - 2002)を発表してツアーを行う。アルバムは全英16位・アイルランド4位となった他、ベルギーとイタリアで3位、スイスで4位に達した。ここからタイトルトラック“Stars”をカット、活動休止前の最後のシングルリリースとなった本曲は、イタリアでチャート入りした。

 

 


2004年、クランベリーズは各メンバー個別のキャリアのためバンド活動を休止することを発表する。

 

 

2007年5月4日、ドロレスは1stソロアルバム『アー・ユー・リスニング?』(Are You Listening?)をサンクチュアリからリリース、全英28位・アイルランド15位・全米77位になった他、イタリアでは2位に達した。ここからのシングルは、"Ordinary Day"がアイルランド50位、イタリアで2位を獲得した。

 

 


2009年8月21日、2ndソロアルバム『ノー・バゲッジ』(No Baggage)をクッキング・ヴァイナル、ラウンダーからリリース、アイルランドでは80位に終わったが、イタリアで6位、ヨーロッパで3万枚を売り上げた。

 

8月25日、ドロレスがバンドの活動再開を発表。

11月中旬より北アメリカツアーを行い、2010年明けからは南アメリカ、続けてヨーロッパを回るツアーを催行。


2012年2月27日、11年ぶりの6thアルバム『ローゼズ』(Roses)をリリース、しかし全英37位・アイルランド17位・全米51位に終わった。

 

 

 

2017年4月28日、シングル・リリースした曲をアコースティックやオーケストラなど一味違ったアレンジで収録した7thアルバム『サムシング・エルス』(Something Else)をリリース、全英18位・アイルランド18位・全米54位になった。ここからは、"Why"とアコースティック・バージョンの"リンガー"がカットされた。

 

 

 

2018年1月15日、レコーディングのためロンドンに滞在中、ドロレス・オリオーダンが宿泊先のロンドン・ヒルトン・オン・パークレーンの浴室で亡くなっているのが発見された。46歳没。
目立った外傷はなく、血中からは処方されていた薬以外の成分は検出されなかったが、基準値の4倍を超えるアルコールが検出されたため、最終的な死因は「急性アルコール中毒で泥酔した事による溺死」と診断された。

訃報を受け、アイルランドのマイケル・D・ヒギンズ大統領は「彼女の死を知って大きな悲しみを抱いている。アイルランドの音楽界にとって大きな損失だ」との声明を発表した。

 

 

2019年4月26日、ドロレス最後のアルバム『イン・ジ・エンド』(In the End)をリリース、全英10位・アイルランド3位になった。

 

 

 

 

ドロレス・オリオーダンを失ったクランベリーズは、このアルバムの発表をもって、タイトル通り、終わりを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ドロレス・オリオーダン」「Dolores O'Riordan」「クランベリーズ」

 

 

 

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