ジミ・ジェイミソン(Jimi Jamison/出生名:Jimmy Wayne Jamison/1951年8月23日~2014年9月1日)は、アメリカのヴォーカリスト、シンガーソングライター。

 

 

 

1951年8月23日、ジミー・ウェイン・ジェイミソンは、アメリカ合衆国ミシシッピ州の田舎デュラント(Durant)で生まれる。しかし、生後一日で母親のドロシー(1932年-2009年)とともにテネシー州第2の都市メンフィス(Memphis)に移ったジェイミソンは、自分のことをメンフィスの生まれだと考えていた。

十代の頃、ブルーズロックとソウルミュージックで育ち、独学でギターとピアノの弾き方を覚えたが、歌唱力については時間をかけて磨きをかけていった。

中学校に上がるまでにバンドでの演奏を始めていた。

1960年代半ば、シャーウッドの学校に通っていた中学生の時、人前で初めて演奏を体験する。この時に演奏したのは、ビートルズの“デイトリッパー”であった。

 

12歳の時、ジェイミソンはR&Bバンド「デビュー」(The Debuts)で演奏を始めた。それは彼にとって初めての成功体験であった。

 

1968年、ジェイミソンがメシック高校在学中に、デビューはウェイン・カーソンが書いた最初のシングル“イフ・アイ・クライ”(If I Cry)をリリースし、ヒットを記録した。この曲は元々メンフィスのバンド「ザ・ボックス・トップス」のために作られた曲だったが、グループはその曲をレコーディングする前に破棄した。ボックス・トップスのフロントマンであるアレックス・チルトンは、自分たちの代わりにデビューにそれを与えた。バンドはAtlantic Records によってピックアップされ契約した。 すぐに、デビューの10代の面々はロイ・オービソンやミッチ・ライダー&ザ・デトロイト・ホイールズなどと一緒に旅に出て、バッキンガムズとのツアーも行った。 

 

 

1969年、デビューは解散したが、ジミとローウェルは数年後も一緒に演奏を続け、その後別々の道を歩み始めた。

 

 

1971年初頭、ジェイミソンは、ソングライターのロイ・ハウエル(G)と「オマハ」(Omaha)というバンドで演奏し、ジミはリード・ヴォーカルを担当した。他のメンバー、トミー・キャシー(B)、ウォルター・ポーク(Ds)、デヴィッド・メイヨー (Pf)。 J.R. ウィリアムズとともにメンフィスのトランス マキシマス (TMI) スタジオでレコーディング、“Open Mind”をリリースした。

その後、何人かのバンド・メンバーとオリジナル曲を演奏する可能性を探り、デビッド・ビーバーを支援することになり、最終的にジェイミソンらはバンドから脱退することを決定した。

 

1972年、ジェイミソンはブレンダ・フェイ・メイソンと結婚。長女エイミー・ジェイミソンを授かった。

1974年、デビッド・ビーバーとの2回目のセッション・レコーディングの後、ジャミソンとキャシーはギタリストのバディ・デイビスと組んで、サザン・ロック・バンド「ターゲット」(Target)をメンフィスで結成した。

バンドは地元のアリーナで演奏するまでになり、ライヴで常に評判を築いていった。

 

 

1976年、ターゲットは2枚のシングル、“Are you Ready”と“Let Me Live”をA&M Recordsから発売、さらにセルフタイトルのアルバム『Target』をリリースした。

この頃、ブラック・サバス(Black Sabbath)やキッス(KISS)、ボストン(Boston)などのオープニング・アクトを務めた。

 

 

1977年、ターゲットはシングル“It is Only Love”と、アルバム『Captured』をリリース。だが、アルバムの売り上げに満足しないレコード会社は、バンドとの契約を解除した。

 

その後もバンドは新たなレコード契約の可能性を求めて活動を続けた。

 

 

1980年代初頭、力尽きてターゲットは解散に至る。

 

 

1982年、ジェイミソンは、ターゲットよりも知名度があったハードロック・バンド「コブラ」(Cobra)のリード・シンガーとなる。

バンドはメンフィスの音楽シーンで存在感を増していった。

 

 

1983年、ジャミソンにとって初めてのMVとなった“Blood On Your Money”はMTVエアプレイを獲得した。この年は他にシングル"Looking at You"、"Travelin' Man"をリリースした。

 

 

 

同年、コブラはアルバム『ファースト・ストライク』(First Strike)をエピックからリリース。だがアルバムが中程度の商業的成功に止まったこともあり、主に各メンバーが異なることをしたいという理由で、バンドは年末に解散した。

 

この年、離婚。

 

こうしたバンド活動の前後、ジャミソンは様々な成功したミュージシャン達、例えばZZトップやジョー・ウォルシュなどのバック・ヴォーカルを務めている。

 

 

1984年、ジェイミソンはロック・バンド「サバイバー」(Survivor)に誘われる。サバイバーは、デイヴ・ビックラー(Dave Bickler)によるヴォーカルでシルヴェスター・スタローン主演の大ヒット映画『ロッキー3』に提供しNo..1ヒットになった“アイ・オブ・ザ・タイガー”以降、どんどん人気が衰え続けていた。一方、ジェイミソンが慣れ親しんでいたコブラのヘヴィメタルなスタイルとは全く対照的であったため、彼からすれば「ポップ・ロック」なサバイバーのヴォーカルをやることに最初あまり興味はなかった。だが、結局ジェイミソンはバンドに加わり新たなリード・ヴォーカルとなった。
彼がサバイバーと一緒に演奏する際に要求された最大の妥協は、自分達以外の作者が書いた曲の演奏を諦めることだった。「たまにアンコールを始めようという時に、誰かが『レッド・ツェッペリンをやろうぜ!』って言うんだ」。ジェイミソンが1987年に『ナイン・オウ・ワン・ネットワーク』誌に語っている。「それで、『イェー、イェー』ってうなずきたくなるんだよ。それからもうぎりぎりの最後になって『いや、代わりにこっちの曲をやったほうがいいよ』って言うことになるんだ」。

8月、バンド加入後初となる5thアルバム『バイタル・サインズ』(Vital Signs)をリリースすると、全米16位に達し、加入前のアルバムが記録した82位から大きく飛躍。ここからは"I Can't Hold Back"が全米13位・ロック1位、"High on You"が全米8位・ロック8位、"The Search Is Over"が全米4位・AC1位になるなど数曲のシングルが大ヒット、ジェイミソンの加入がサバイバーにすぐさま活気をもたらしたのである。こうしてバンドはスターの地位に、もう一度、それもあっという間に返り咲いた。

 

 

 

 

同年、映画『ベスト・キッド』(The Moment of Truth / The Karate Kid)に主題歌“ザ・モーメント・オブ・トゥルース”(The Moment of Truth)を提供。チャート動向は全米最高位63位と動きが鈍かったが、ジェイミソン在籍時のサバイバーにとって代表的な曲の一つとなった。

 

 

1985年、大ヒット映画ロッキー・シリーズの新しい作品『ロッキー4』に“バーニング・ハート”(Burning Heart)を提供、全米2位・全英5位まで上昇した。バンドにとっても“アイ・オブ・ザ・タイガー”に次ぐヒットになり、映画のサウンドトラックにも収録された本曲は、ジェイミソンの歌で最もよく知られている。

 

同年、デボラ・ティールと結婚。ティールとの間に、ジェームズとレイシーの2人の子どもが生まれた。

 

 

1986年10月9日、ジェイミソン加入後の2枚目となる通算6枚目のアルバム『ホエン・セカンズ・カウント』(When Seconds Count)をリリースすると、全米49位ながら、新たにシングル“イズ・ディス・ラヴ”(Is This Love)が全米9位とトップ10入りした。このアルバムではジェイミソンが4曲を共作、作曲面でバンドに貢献している。その中にはもう一つの印象的なシングル曲“マン・アゲンスト・ザ・ワールド”(Man Against the World)がある。

 

 

 


1988年10月3日、新しいアルバム『今夜は眠れない』(Too Hot to Sleep)をリリース。ジェイミソンとバンド仲間達は、このアルバムをこれまでの中で最も優れたものだと考えたのだが(後にジェイミソンは過去を顧みて語った時に、サバイバーのアルバムの中で一番好きなアルバムだと言っている)、実際は、レコード会社が積極的に販売促進をせず、結果として以前のアルバムのような成功を収めることができなかった。シングルも、"Didn't Know It Was Love"が全米61位・ロック40位、"Across the Miles"が全米74位・AC16位になっただけだった。結局、『今夜は眠れない』は、サバイバーの1980年代の最後のアルバムとなり、バンドは1993年まで活動を停止、実質的な解散状態に陥ることとなった。

 

 

 

 

1989年、水難監視救助隊の活躍を描いた米国のテレビドラマ『ベイウォッチ』(BAYWATCH)が放送開始、ジェイミソンはテーマ曲“I'll Be Ready”を共作し、ソロ名義で歌唱も担当した。本ドラマは好評を博し、2001年まで放送される人気シリーズとなった。

 

 

1991年、1stソロアルバム『ホエン・ラヴ・カムズ・ダウン』(When Love Comes Down)をリリース。

 

 

1993年、サバイバーが再始動するが、ジェイミソンは参加しなかった。このためリード・ヴォーカルにビックラーが復帰するも新作アルバムのリリースはなく、ベスト・アルバムに新曲を収録した程度であった。

 

 

1996年、結成メンバーのジム・ピートリックもサバイバーを離れ、2000年代はソロ・プロジェクトの「プライド・オブ・ライオンズ」に専念した。

 

 

1999年、「ジミ・ジェイミソンズ・サバイバー」の名でアルバム『Empires』が発表されたが、これはサバイバーを名乗ってツアーを続けていたジェイミソンによる2作目のソロ作品というのが実際であった。「サバイバー本体」(結成時からの一貫したメンバーであるフランキー・サリバン)からジェイミソンに対してバンド名の使用を巡り訴訟が起こされていたが、同作発表後サリバンがサバイバー名義の所有権を得たことで決着が付き、アルバムもジミのソロ名義に変更された。

 

 

 

2000年、ジェイミソンがサバイバーに正式復帰。

 

 

2002年、サバイバーが『A Classic Rock Christmas』に"Christmas Is Here"で参加、クリスマス・チャートで6位に入った。

 

 

2006年4月25日、18年振りとなるオリジナル・アルバム『リーチ』(Reach)をサバイバーが発表、ジェイミソンがヴォーカルを務め、フランキー・サリバンがギターとプロデュースを担当し、ジム・ピートリックが作曲でのみ参加した。

 

 

同年、ジェイミソンは再び脱退し、後任としてロビン・マッコーリーが加入。

 

 

2008年、ジミ・ジェイミソンがジム・ピートリックと組んで3作目となるソロ・アルバム『Crossroads Moment』を発表、こちらも「もう1つのサバイバー」復活作品として好評価を得た。ただし、前述の経緯から1999年以降フランキー・サリバンが所有権を取得しているため、彼が参加しないプロジェクト・ユニットがサバイバーの名義を使用することはできない。

 

 

 

2011年、TOTOでの活躍で知られるボビー・キンボールとともに制作したアルバム『キンボール/ジェイミソン』(Kimball/Jamison)をリリースした。

 

 

 

同年、翌2012年にかけてのツアーから、リード・ヴォーカリストにジェイミソンが再度復帰。

 

 

2013年からはデイヴ・ビックラーが再び復帰、ジミ・ジェイミソンとデイヴ・ビックラーのツイン・ヴォーカル体制になっていた。


2014年9月1日、ジミ・ジェイミソンは、出身地テネシー州メンフィスのローリー(Raleigh)にある自宅にて死去、63歳だった。

司法解剖の結果、心血管疾患と動脈の狭窄があり、出血性脳卒中で死亡したことが判明した。

 

 

2017年、ターゲットの1979年録音の音源を『In Range』としてリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジミ・ジェイミソン」「Jimi Jamison」「サバイバー (バンド)」