マイク・パットン(Mike Patton/Michael出生名:Michael Allan Patton/1968年1月27日~)は、アメリカ合衆国の歌手、ヴォーカリスト、ミュージシャン、作詞家、作曲家。ロックバンド「フェイス・ノー・モア」のリードシンガーとして有名。

 

 

 

1968年1月27日、マイケル・アラン・パットンは、アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ユーレカ(Eureka, California)で、ソーシャルワーカーの母親と体育教師の父親の間に生まれた。

 

彼が生まれて数年間、家族はカリフォルニア州サンノゼにアパートを持っており、ユーレカに永住するまで多くの時間をそこで過ごした。パットンは、覚えている限りずっと趣味で文章を書いてきたと語る。父親の職業の関係で、パットンはスポーツ愛好家として育ち、1989 年にツアーのキャリアが始まるまで定期的にスポーツの練習をしていた。

彼の初期の音楽の思い出のひとつは、父親が残したアース・ウィンド・アンド・ファイアーのレコードやフランク・ザッパのレコードを聴いたことであった。当時、彼らはパットンに大きな印象を残さなかった。

小学校では優秀な生徒で運動選手でもあったが、良い成績を取ることに集中していたために友人はほとんどいなかった。彼は定期的に両親に映画館まで送ってくれるように頼み、そこで密かにスラッシャー映画や『スター・ウォーズ』を鑑賞し、後者のサウンドトラックは彼に深い影響を与えた。

彼と彼のバンド仲間は一貫して、カリフォルニアの極北にある比較的孤立した街ユーレカで過ごした初期の頃のことを、彼らの将来のキャリアパスの原動力となる強烈な好奇心のおかげだと信じている。ユーレカはサンフランシスコとポートランドの間にある数少ない大きな町の一つであり、密集したセコイアの森に囲まれている。

彼の家族には芸術的な背景はなかったが、パットンは家族が彼に与えた自由を音楽に導いたことに感謝していた。

パットンはユーレカ高校で学び、そこで音楽理論クラスとジャズアンサンブルのメンバーであるベーシストのトレバー・ダンと後にギタリストのトレイ・スプルーアンスに出会った。パットンはトレーディング記録を通じてダンと知り合い、彼らの勤勉さ、皮肉なユーモア、そして不満を通じて絆を深めた。二人とも人気のヘヴィメタルグループの曲を演奏するカヴァーバンド「ジェミニ」のメンバーだった。彼らはすぐにヘヴィなスタイルに興味を持ち、スラッシュメタルのカヴァーバンド「フィーンド」に参加したが、追い出され、その後、ダンがヴォーカル、パットンが楽器を担当し、「タード」という名前でデスメタルテープを録音した。パットンは「非常によく適応しており、(中学校の)仲間からも好かれていた」ものの、「超オタク」の性格を持っており、スポーツ選手からますます疎外されていると感じていた。最終的に、彼はデスメタル音楽シーンで協力的な環境を見つけ、スポーツからアートに焦点を移した。彼とダンにはパンクの友人もいて、そのサブカルチャーに手を広げ始めた。どちらのミュージシャンも『ユリイカ』の麻薬流行や学校のパーティーシーンと関わりたくなかったので、すぐにストレート・エッジを自認するようになった。

一方、1歳年下のトレイ・スプルーアンスとドラマーのジェド・ワッツは、パットンズ・フィーンドと共演したマーシフル・フェイトにインスピレーションを得たバンド「トーチュール」のメンバーであり、FCAと呼ばれる別の2人組エクストリーム・メタル・バンドを結成した。

 

1984年、パットンら4人のミュージシャンは最終的に合流し、「ミスター・バングル」 (Mr.Bungle)を設立。音楽性は実験的でアバンギャルドな色合いが濃く、ヘヴィメタル、ファンク、フリー・ジャズ、サーフ・ロック、パンク・ロック、スカ、ノイズ、デスメタル、ボサノヴァ、カントリー・ミュージックからケチャ、サーカス音楽、アニメやテレビゲームの音楽まで、あらゆる要素を取り入れた音楽スタイルが特徴。初期ライヴでのピエロや死刑執行人、レザーのボンデージマスクなど奇抜な扮装でも話題になった。

11月、ミスター・バングルは隣接のカリフォルニア州ベイサイドで初のショーを開催。ダン、スプルーアンス、パットンは学校では「みんなが大嫌い」で、キャンパス外のテニスコートの隣で一人でたむろしていた。時間を潰すために、彼らは時折深夜の貨物輸送に従事し、近くの町や人里離れた森林地帯で下車し、ヒッチハイクで家に帰った。彼らは、この地域の文化の空虚さと劣化を嫌っていたが、芸術的興味を育ててくれた学校の教師に感謝していた。英語教師はパットンにイエジー・コジンスキの『マルキ・ド・サド』と『ペインテッド・バード』を勧め、音楽教師のダン・ホートンは放課後に音楽室を使わせ、さらにはショーに臨時ホーン奏者として参加させた。

パットンは作家になることを目指して、英文学を学ぶためにカリフォルニア州アーケータの近くの町にあるフンボルト州立大学に入学した。彼は大学で非常に優秀な成績を収め、様々なジャンルの短編小説を数多く書いたが、当時音楽はパットンにとって楽しいものであるものの、単なる趣味であった。

 

 

1986年、パットンはフンボルトにて、ミスター・バングルが何度も演奏したピザパーラーでのショー中に、後に自分が加入することとなるバンドと出会った。そのバンドは1979年、ビリー・グールド (B)、マイク・ボーディン (Ds)らがカリフォルニア州サンフランシスコにて結成したロックバンド「Sharp Young Men」で、後にバンド名を「フェイス・ノー・モア」(Faith No More)と改名、その後、幾度かのメンバーチェンジを経る。

パットンは学校から大学卒業後、1988年にフェイス・ノー・モアに加入するまで、ユーレカにある唯一のレコード店でパートタイムで働いていた。
1980年代後半、ミスター・バングルはカセットのみで多数のデモをリリースした。1986年『The Raging Wrath of the Easter Bunny』、1987年『Bowel of Chiley』、1988年『Goddammit I Love America』、1989年『OU818』である。 最後の3曲は、後に1991年のデビュー・スタジオ・リリースに収録される。

 

 

1988年、マイク・パットンはフェイス・ノー・モアに、解雇されたチャック・モズレーの後任ヴォーカリストとして加入した。

 

 

1989年6月20日、パットン加入後初となる3rdアルバム『ザ・リアル・シング』(The Real Thing)をリリース、全米11位・全英30位に達した。ここからの先行シングル"From Out of Nowhere"が全英23位をマークした。

 

 

 

1990年1月29日、アルバムからリカットされたシングル“エピック” (Epic)は、『MTV』でヘビーローテーションされる後押しもあり、全米9位とトップ10入りを果たす大ヒット、さらに豪州1位、ニュージーランド2位、英国でも25位となる。また、“エピック”はゲーム『Saints Row: The Third』に使用されている。

 

7月2日、リカット・シングル"Falling to Pieces"が全米92位・全英41位。

 

 

1991年、ミスター・バングル名義のセルフ・タイトルの1stアルバム『ミスター・バングル』(Mr. Bungle)をリリース、全英57位。米国ではその後売り上げを伸ばし、22万枚を超えるセールスを記録している。

 

 

1992年5月25日、リード・シングル"Midlife Crisis"をリリース、『ビルボード』誌「オルタナティブ・ロック」チャート(以下「オルタナ」)1位・全英10位。

 

6月8日、4thアルバム『エンジェル・ダスト』(Angel Dust)をリリース。全米10位・全英2位。

 

8月3日、リカット・シングル"A Small Victory"がオルタナ11位・全英29位を記録。

 

11月9日、アルバムから3枚目のシングル"Everything's Ruined"をリリース、全英28位をマークした。

 

12月29日、アルバムから最後のシングル"Easy"をリカット、全米58位・全英3位をはじめ、豪州1位・ノルウェー2位・ニュージーランド6位・スイス9位・オランダ10位など各国でチャート上位に入った。

 

 

1993年、ギタリストのジム・マーティンが解雇される。

同年、映画『Judgment Night』のサウンドトラックに、Boo-Yaa T.R.I.B.E.と共演した"Another Body Murdered"を提供、全英26位。

 

 

1994年、新ギタリストとしてミスター・バングルのトレイ・スプルアンスが加入、新アルバムのレコーディングにとりかかる。

 

 

1995年3月28日、5thアルバム『キング・フォー・ア・デイ』 (King for a Day... Fool for a Lifetime)をリリース、全米31位・全英5位に達した。ここからのシングルは、"Digging the Grave"が全英16位、"Ricochet"が全英27位、"Evidence"が全英32位に入った。

 

 

 

 

同年、トレイ・スプルアンスが脱退し、新ギタリストとしてキーボード・ローディーのディーン・メンタが加入する。プロモーションのために大規模なワールドツアーに繰り出すものの、メンバーが期待したほど売り上げは伸びず。

同年、ミスター・バングルの2ndアルバム『ディスコ・ヴォランテ』(Disco Volante)をリリース、全米113位・豪州40位。

 

 

1996年、ディーン・メンタに代わってジョン・ハドソン(G)が加入。

同年、ソロ名義の1stアルバム『Adult Themes for Voices』をリリース。フェイス・ノー・モアのツアー中、宿泊した各国のホテルの部屋にて録音した、実験的な作品。様々な発声法を試みている。

 

 

1997年6月3日、6thアルバム『アルバム・オブ・ザ・イヤー』(Album of the Year)をリリース、全米41位・全英7位。ここからは、"Ashes to Ashes"が豪州8位・全英15位・ARIAゴールドを獲得したのをはじめ、"Last Cup of Sorrow"が全英51位を記録した。

 

 

 

同年、Sparksのアルバム『Plagiarism』にて、"This Town Ain't Big Enough for Both of Us"のカヴァーで共演、スイスで7位に入った他、全英40位をマークした。

 

同年、2ndソロ・アルバム『Pranzo Oltranzista』をリリース。

 

 

1998年、フェイス・ノー・モアが解散。

同年、パットンは、アヴァンギャルド・メタルバンド「ファントマス」(Fantômas)を結成。ラインナップは、パットンをはじめ、メルヴィンズのバズ・オズボーン(G)、スレイヤーのデイヴ・ロンバード(Ds)、元ミスター・バングルのトレヴァー・ダン(B)。

11月24日、解散後、フェイス・ノー・モアのベスト・アルバム『フー・ケアーズ・ア・ロット〜グレイテスト・ヒッツ』(Who Cares a Lot?)が発表、全英37位。ここからは、"I Started a Joke"が全英49位に達した。

 

 

同年、ジョン・ゾーンのレーベル「ツァディク」からリリースされた、マーク・ボランのトリビュート・アルバム『グレート・ジューイッシュ・ミュージック:マーク・ボラン』(Great Jewish Music: Marc Bolan)に、様々なミュージシャンが参加する中、パットンはファントマス名義で“Chariot Choogle”をカヴァーして参加。

 

 

1999年、マイク・パットンは、インディペンデント・レーベル「イピキャック・レコーディングス」(日本での配給は「デイメア・レコーディングス」Daymare Recordings) を設立し、レーベルオーナーとして活動。自らのバンドやプロジェクトに加え、ジャズ・サックス奏者のジョン・ゾーンや、ハンサム・ボーイ・モデリング・スクールのダン・ジ・オートメーター、ザ・ディリンジャー・エスケイプ・プランといった様々なミュージシャンとのコラボレーションやゲスト参加、さらには映画のサウンドトラック制作、ゲーム・キャラクターの吹き替えなど、媒体・ジャンルを問わず幅広く活動している。

また、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのメンバーとは、あまり関係が良くないことでも知られる。

同年、ミスター・バングルの3rdアルバム『カリフォルニア』(California)をリリース、全米144位。

 

 

 

同年、ファントマス名義のアルバム『ファントマス』(Fantômas)をリリース。

 

 

2000年、ミスター・バングルが活動を停止。

同年、オルタナティブ・メタル/ロック・バンド「トマホーク」 (Tomahawk)を結成。ラインナップは、パットン、元ジーザス・リザードのデュエイン・デニソン(G)、元ヘルメットで現バトルスのジョン・ステニアー(Ds)、メルヴィンズのケヴィン・ラトマニス(B/後に脱退)。

 

 

2001年、「ラヴェージ」 (Lovage)を結成、ダン・ジ・オートメーター、パットン、エリージャン・フィールズのジェニファー・チャールズ、キッド・コアラなどによるプロジェクト。セクシーな歌詞の、ラウンジ・ミュージックのような音楽スタイルを特徴とする。

同年、ファントマスによる映画音楽のカヴァー集『ザ・ディレクターズ・カット』(The Director's Cut)をリリース。米インディーズ30位・豪州18位をマーク。

 

10月30日、トマホークのセルフ・タイトルの1stアルバム『トマホーク』(Tomahawk)をリリース。米インディーズ20位・豪州37位。

 

同年、ラヴェージの1stアルバム『Music to Make Love to Your Old Lady By』をリリース。

 

 

2002年、ファントマスとメルヴィンズが合体したバンド「The Fantômas Melvins Big Band」が2000年に行ったライヴの模様を収録したライヴ・アルバム『ミレニアム・モンスターワーク2000』(Millennium Monsterwork 2000)をリリース。

 

 

2003年5月6日、トマホークの2ndアルバム『ミットガス』(Mit Gas)をリリース、全米137位・米インディーズ7位・豪州28位・ノルウェー17位・全英98位。

 

 

2004年1月27日、ファントマスのアルバム『デリリウムコーディア』(Delìrium Còrdia)がリリース。全米183位・米インディーズ7位・豪州54位・フランス118位。

 

 

2005年、ファントマスの通算4枚目となるコンセプト・アルバム『サスペンデッドアニメーション』(Suspended Animation)をリリース。全米158位・米インディーズ7位・豪州49位・フランス118位。

 

 

2006年、ソロ・プロジェクト「ピーピング・トム」 (Peeping Tom)が始動。ノラ・ジョーンズ、ベベウ・ジルベルト、マッシヴ・アタック、ラゼールなどをゲストに迎えて活動。セルフ・タイトルの1stアルバム『ピーピング・トム』(Peeping Tom)をリリース。

 

 

2007年、パットンが、Aldo Sisillo、Roy Paciとともに行ったプロジェクト「モンド・カーネ」(Mondo Cane)を始動。オーケストラの演奏をバックに、イタリアの50・60年代ポップソングをカヴァー。

6月19日、トマホークの3rdアルバム『アノニマス』(Anonymous)をリリース。

 

 

2008年、ダン・ジ・オートメーターとのプロジェクト「クルード」(Crudo)を始動。

同年、ソロ・名義で『ア・パーフェクト・プレイス』(A Perfect Place)をリリース。短編映画のためにパットンが作曲したサウンドトラック。映画本編のDVDと2枚組で発売された。

 

 

2009年、解散前のラインナップで約10年ぶりにフェイス・ノー・モアが再結成を果たし、「Download Festival 2009」に出演するなど、ライヴ活動を展開。

 

 

2010年、ソロ・アルバム『Mondo Cane』をリリース。

 

 

2011年12月のチリ公演を最後にフェイス・ノー・モアが一旦活動停止。

 

 

2013年からフェイス・ノー・モアは再び活動を再開した。

1月29日、トマホークのアルバム『Oddfellows』をリリース、全米69位・米インディーズ9位・豪州37位・ベルギー149位。ここからリード・シングル"Stone Letter"をリリース。

 

 

2014年、トマホークのシングル"M.E.A.T."をリリース。

同年、フェイス・ノー・モア再結成後初のリリースとなるリード・シングル"Motherfucker"を発表。

 

 

2015年5月19日、18年ぶりとなる7thスタジオ・アルバム『ソル・インヴィクタス』(Sol Invictus)を発表、全米15位・全英6位をはじめ、フィンランド1位など世界各国のアルバム・チャートでトップ10入り。ここからのシングルは、"Motherfucker"の他、"Superhero"、"Cone of Shame"がカットされた。

 

 

 

 

2017年、フェイス・ノー・モアのアルバム・デビュー当時の旧メンバーで、パットンの前任ヴォーカリストであったチャック・モズレーが死去。

 

 

2019年、ミスター・バングルが活動を再開。

 

 

2020年、ミスター・バングルの4thアルバム『ザ・レイジング・ラス・オブ・ジ・イースター・バニー・デモ』(The Raging Wrath of the Easter Bunny Demo)をリリース、全米30位・豪州6位・全英53位をマークした。

 

 

 

 

2021年、トマホークの4thアルバム『トニック・インモビリティ』(Tonic Immobility)をリリース。ここからのシングルは、"Business Casual"、"Dog Eat Dog"、"Predators and Scavengers"をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マイク・パットン」「Mike Patton」「Mr. Bungle」「フェイス・ノー・モア」「Faith No More」「Fantômas (band)」「Tomahawk (band)」

 

 

 

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