フィービ・スノウ(Phoebe Snow/出生名:Phoebe Ann Laub/1950年7月17日~2011年4月26日)は、アメリカ合衆国の歌手、作曲家、ギタリスト。

 

 

 

1950年7月17日、フィービ・アン・ローブは、ニューヨーク市で生まれ、デルタ・ブルーズ、ブロードウェーのショー・ミュージック、デキシーランド・ジャズ、クラシック音楽、フォーク音楽が四六時中流れる家庭に育った。害虫駆除業者だった父親のメリル・ローブはアメリカの映画と演劇に関する博覧強記的知識を持っており、さらに骨董品の熱心なコレクター・修復家でもあった。母リリ・ローブは、マーサ・グレアム舞踏団で演じたこともあるダンス教師だった。スノウはユダヤ人だった。

スノウはニュージャージー州ティーネック(Teaneck)で成長し、1968年にティーネック高校を卒業した。

その後、イリノイ州マウントキャロルのシマー・カレッジに進んだが卒業はしなかった。学生時代、スノウは賞品のマーティン000-18アコースティックギターを携えてグリニッジ・ヴィレッジのクラブを渡り歩き、アマチュア・ナイトにギターを弾いて歌った。「スノウ」(Snow)の芸名はデラウェア、ラッカワナ・ウェスタン鉄道(英語版)の宣伝で使われた架空のキャラクター(英語版)に由来する。絵画および後の写真をい印刷した画像では、若い女性の「フィービ・スノウ」が鉄道の客車の清潔さを強調すべく白いドレスを身に纏っている(当時のラッカワナの機関車は歴青炭よりも煤煙の発生が少ない無煙炭を使用していた)。

 

 

1972年、グリニッジ・ヴィレッジのビターエンド・クラブに出演している時、シェルター・レコードをレオン・ラッセルと共同で所有するプロモーション担当重役デニー・コーデルに見出されて契約、その後チャーチ・スタジオで初レコーディングを行った。

 

 

1974年、先行シングル"Good Times (Let the Good Times Roll)"でデビュー。

 

7月、1stアルバム『サンフランシスコ・ベイ・ブルース』 (Phoebe Snow)をリリース。ゲストにザ・パースエイジョンズ、ズート・シムズ、テディ・ウィルソン、デビッド・ブロムバーグ、デイブ・メイソンを迎えたこのアルバムは、アメリカ国内で100万枚以上を売り上げ、当時最も評価されたレコードと言われた。本アルバムは米誌『ビルボード』アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)4位とトップ5にランクイン、本アルバムでスノウは、グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされた。

 

シングルは、“ポエトリー・マン” (Poetry Man)が同誌シングルポップチャート「Hot 100」のトップ5、「Adult Contemporary」(以下「AC」)では1位を獲得した他、"ハーポのブルース"(Harpo's Blues)がAC20位にランクインした。

 

 

 

1975年8月、ポール・サイモンとデュエットしたシングル“哀しみにさようなら” (Gone at Last)をリリースすると、全米23位・AC9位とヒット、さらににRIAAにゴールドディスク認定を受けた。

 

同年、共演したサイモンや、ジャクソン・ブラウンとのツアーに同行して前座を務めたスノウは、雑誌『ローリング・ストーン』の表紙にも登場した。

同年の人気番組『サタデー・ナイト・ライブ』への出演では、ソロおよびポール・サイモン、リンダ・ロンシュタットとのデュエットを披露した。1975年の出演時、スノウは娘のヴァレリーを妊娠7ヶ月だった。

サイモンのソロ初の全米No.1ヒット曲“恋人と別れる50の方法”(50 Ways to Leave Your Lover)には、ヴァレリー・シンプソン、パティ・オースティンとともにスノウもバッキング・ヴォーカルとして参加した。この曲と全米23位になった“哀しみにさようなら”(Gone at Last)はともに、サイモンの1975年グラミー賞受賞アルバム『時の流れに』(Still Crazy After All These Years)に収録されている。

同年、スノウはフォークシンガーのフィル・カーンズと結婚。同12月に娘ヴァレリー・ローズを授かったが、この子は生まれながら深刻な脳障害を患っていた。スノウは娘を施設で育てることを拒み、彼女が2007年に亡くなるまで自宅で看病を続けた。この娘の養育が事実上、スノウを音楽業界での成功から遠ざけることとなった。

 

 

1976年1月、シェルター・レコードとの契約のこじれからコロムビア・レコードに移籍したスノウは、フィル・ラモーンのプロデュースによる2ndアルバム『夜の調べ』(Second Childhood)をリリース。よりジャジーで内省的なこの作品は全米13位に達し、1976年7月9日にRIAAゴールド認定を受けた。だがシングルは、"Two-Fisted Love"、"All Over"がともにチャート入りを果たせなかった。

 

 

 

同年後半、デビット・ルービンソンのプロデュースで、よりロック指向のサウンドを目指した『雪模様』(It Looks Like Snow)をリリース、全米29位に達した。ここからのシングルは、"Shakey Ground"が全米70位、全英では6位に入った。

 

 

 

1977年、再びラモーンによるアルバム『薔薇の香り』(Never Letting Go)を発表、全米73位を記録。"Love Makes a Woman"が『ビルボード』誌R&Bシングルチャート87位に達した。

 

 

1978年10月、アルバム『詞華集』(Against the Grain)をリリース、バリー・ベケットがプロデュースした本作は、全米100位だった。

その後、コロムビアを離れたが、このころ重い障害を持つ娘の育児の負担により、音楽活動に力が入らなくなっていったと、後にスノウは述懐している。

同年、フィル・カーンズと離婚。カーンズは後に自身がゲイであることをカミングアウトした。

 

 

1979年1月、『詞華集』からポール・マッカートニー“エヴリナイト”(Every Night)のカヴァーをリカット、全英37位に到達した。

 

同年、スノウは注目株のギタリストであるアーレン・ロス(英語版)をリードギタリスト兼音楽監督に起用してアメリカとカナダで広範囲のツアーを行った。

 

 

1981年、スノウはミラージュ・レコードと契約し、ビリー・ジョエルのバンドメンバーとレコーディング、アルバム『ロック・アウェイ』(Rock Away)をリリース。全米位になった本アルバムからカットした"Games"が全米46位、"Mercy, Mercy, Mercy"が全米52位となった。

 

 

 


1983年のローリングストーン・レコードガイドでは、「同世代の歌手の中でも天性の素晴らしい声を持ち、スタイルとしても技術的にもどんな歌でも歌えるのだが、未だ答えの出ていない問題は、これほどの才能をどの方向に向かわせればいいのか、ということである」と、この時点でのスノウのキャリアが総括されている。

1980年代のスノウは長くレコーディングから遠ざかり、自身も重い病気を患いながら、しばしばAT&Tゼネラル・フーズ・インターナショナル・コーヒー、サロン・セレクティヴス、ストーファーズ、その他のCMジングルを、病気の娘の養育費用と生活のために歌うっていた。スノウの歌声は米国綿花法人の広告と、同法人の1990年代のThe Fabric of Our Livesキャンペーンにも登場した。

 

1980年代を通して、自身の命に関わる疾病と戦ってもいた。スノウはテレビドラマ『9時から5時まで』の第1シーズンの主題歌を録音した(第2シーズン以降はドリー・パートンのボーカルが使用された)。スノウはNBCの A Different World の第1シーズン(1987年-1988年)でも主題歌を歌った。


1988年、デイヴ・メイスンとデュエットしたシングル "Dreams I Dream" がAC11位に達した。

 

 

1989年になってスノウはアルバム『サムシング・リアル』(Something Real)で復帰し、さらに"If I Can Just Get Through the Night"がAC13位になった他、オーストラリアとカナダでチャート入り、"Something Real"もAC29位にランクインした。

 

 

 

 

スノウはまた、1980年にデトロイトのWDIV-TVの "Go 4 It!" キャンペーンの作曲も行った。Reading Rainbow 第10話 The Gift of the Sacred Dog でスティーヴ・ホアリックが作曲した "Ancient Places, Sacred Lands" を歌った。このエピソードはポール・ゴーブル(英語版)による同名の本をもとにしてしており、俳優のマイケル・アンサラがナレーションを担当した。撮影は1983年にモンタナ州クロウ・エージェンシー(英語版)で行われた。

 

スノウは1989年にニューヨーク市のエイヴリー・フィッシャー・ホールのステージで、数ヶ月から発信される5時間のテレビ生中継の『我ら共有の未来(英語版)』の一員として出演した。

1990年には、エレクトラ40周年記念アルバム『ルバイヤート』収録曲として、デラニー&ボニーの“Get ourselves together”を、アース・ウインド&ファイアーのギタリスト、ディック・スミスを従えてカヴァーした。

 

 

1992年にはドナルド・フェイゲンの「ニューヨークロック&ソウルレビュー」ツアーに同行し、同バンドのニューヨーク・ビーコンシアターで録音されたライブ・アルバムにも登場した。

この時期、彼女自身の作品のレコーディングは行われていなかったが、フィービはソロ・アーティストとしてのツアーを、アメリカ、イギリス、ドイツ、初の来日となった日本で行なっている。

1990年代を通して、スノウはハワード・スターンのラジオ番組に数度に渡って出演した。特別番組やバースデイ番組では生演奏を披露した。

 

 

1997年、アメリカのシットコム・シリーズ『ロザンヌ』(the Roseanne)の最終回のエンディングで主題歌“ア・カペラ”(a cappella)を歌った。


1995年にニューヨーク市のリンカーン・センターでの「 The Wizard of Oz in Concert: Dreams Come True 」に参加し、代表的なメドレイ“もしも知恵が:ハートが:勇気があったらな”を歌った。さらに、このコンサートにはジュエル、ジョエル・グレイ、ロジャー・ダルトリー、ジャクソン・ブラウンなどが出演していた。このコンサートのアルバムはライノ・レコードからCDとしてリリースされた。

スノウはPBSの番組『Sessions at West 54th』でスノウの“ポエトリー・マン”の独自のバージョンを即興のデュエットで録音したポップグループのザップ・ママに参加した。ハワイのガールグループであるナレオ(英語版)も“ポエトリー・マン”のカヴァーバージョンを1999年にACチャートでヒットさせた。


1998年、当時のニューヨーク市長ルドルフ・ジュリアーニから文化功労賞を授与された。また、ドン・カーシュナー・ロックアワード、ニューヨーク・ミュージック・アワード、複数のプレイボーイ・ミュージック・ポール賞やクリオ賞などを受賞。

 

 

1999年、キャンプ・デービットでアメリカ大統領ビル・クリントン、ヒラリー夫妻およびクリントン内閣の閣僚らを前にパフォーマンスを披露している。

 

2003年に新曲10曲を納めた14年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Natural Wonder』をイーグル・レコードからリリースした。

 

 

 

スノウは2008年のハワード・スターンの結婚式で演奏し、さらに映画 Noah's Arc: Jumping the Broom に自分役で特別出演した。スノウの楽曲数曲が同作のサウンドトラックで使用された。

 

 

2007年3月18日、娘のヴァレリー・ローズが31歳で亡くなる。

 

 

2008年、ライヴ・アルバム『Live』をリリース、ここにはスノウ自身の数多くのヒット曲とともに“心のかけら”(Piece of My Heart)のカヴァーが収録された。

 

 

2010年1月19日、スノウは脳出血を起こして昏睡状態に陥り、血液凝固や肺炎、心不全などの合併症を併発した。

 

 

2011年4月26日、フィービ・スノウとして知られたフィービ・アン・ローブは、ニュージャージー州エディソン(Edison)で、60歳で死去した。

 

スノウはニュージャージー州バーゲン郡(Bergen County)に居住し、後年は仏教に帰依していたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「フィービ・スノウ」「Phoebe Snow」