上田 正樹(うえだ まさき/1949年7月7日~)は、日本のR&B・ソウルシンガー、シンガーソングライター。

 

 

 

1949年7月7日、上田正樹は京都府京都市に生まれる。京都大学医学部卒業の医師である父の下、恵まれた環境で育っていた。

 

京都市立第三錦林小学校二年の時、結核に感染していた父の病状が悪化、母も感染したため、兵庫県姫路市にある母親の実家に預けられる。

 

間もなく父が亡くなる。

母は回復し、父の親友でやはり医師と再婚する。

 

小学校四年の冬に、岐阜県高山市へと移った。母を巡るジェラシーから「絶対この義父には負けたくない」と東大医学部を目指して猛勉強を始める。

 

高山市立松倉中学校では生徒会長も務める。

中学卒業後は、県下一の名門校である岐阜県立岐阜高等学校に進学。

 

1966年、高校在学中、それまで音楽には余り興味がなかったが、友人に誘われ学生服でアニマルズの名古屋公演を観に行った。最前列の正樹少年は感動に打ち震え、それまで東大医学部を目指して勉強してきたことは何の意味も持たない、音楽の中に人生の答えがあったと感じる。

コンサート観戦後は一緒にアニマルズを観た友人たちとフォーク・バンドを結成。当然勉強は疎かになり成績は急降下した。

見かねた義父が母方の実家に帰し、兵庫県立福崎高等学校に転校させた。

高校卒業後、岐阜大学に入学するが、大阪をはじめとする各地のキャバレーやディスコで音楽修業。

 

 

1972年12月、シングル“金色の太陽が燃える朝に”でテイチクレコードからデビュー。

 

 

1974年、自身のバンド「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」を結成。ラインナップは、上田正樹(Vo)、有山淳司(G)、堤和美(G)、中西康晴(Key)、藤井裕(B)、正木五郎(Ds)の6人。

8月、福島県郡山市で開催された「ワンステップフェスティバル」に上田正樹とサウス・トゥ・サウスでデビュー。

 

 

1975年5月、「上田正樹と有山淳司」名義でLP(アルバム)『ぼちぼちいこか』をバーボンレーベルからリリース。

同年、1970年代屈指のロックイベント「8・8ロックデイ」に出演。

12月、上田正樹とサウス・トゥ・サウスとしてライヴ・アルバム『この熱い魂を伝えたいんや』をバーボンレーベルから発表し、注目を浴びる。

 

 

1976年、泉谷しげるの『家族』(フォーライフ・レコード)のレコーディング・セッションにピア・ノパートで参加。フォークシンガーの三上寛などとも交流していた。
7月、サウス・トゥ・サウスを解散。

 

 

1977年9月、1stソロ・アルバム『上田正樹』をキティ・レコードから発売してソロ・デビュー。

11月12日に大麻取締法違反容疑で逮捕される。


1978年、シングル“感じるままに/ラブ・ソング”を発売。

 

5月、ジミー・クリフの代表曲のカヴァー・シングル“ハーダー・ゼイ・カム(日本語詞)/ハーダー・ゼイ・カム(英語詞)”を発売。

 

10月、アルバム『PUSH & PULL』を発売。

 

 

1979年3月、シングル“女は言葉じゃ通じない/チャンピオンが負けた日”を発売。

 

 

1980年7月、シングル“TOKYO FUN OSAKA SOCK IT TO ME/SWEET SOUL MUSIC”を発売。

 

同年、アルバム『THE SESSION』を発売。

 

 

1981年、CBS・ソニーに移籍。

9月、シングル“東京エキスプレス/ホット・ナンバー”を発売。

 

9月、アルバム『JEALOUS NIGHT』を発売。

12月、シングル“涙のダーリング/ダンス・ザ・ワルツ”を発売。

 

 

1982年5月、シングル“スウィート・キューピッド/ブラザー・ルイ”を発売。

 

5月、アルバム『NO PROBLEM』を発売。

10月21日にシングル“悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-/Night Train To The Sky”を発売。表題曲“悲しい色やね -OSAKA BAY BLUES-”(作詞:康珍化/作曲:林哲司)が有線放送から火が着き、翌1983年にかけてオリコン週間最高順位は第5位・1983年年間順位は第26位、34.8万枚のセールスを記録。日本における自身最高のヒット曲となった。B面の“Night Train To The Sky”は、上田本人が作詞・作曲を手掛けた楽曲である(編曲は井上鑑)。

 

 

12月、アルバム『AFTER MIDNIGHT ~バラードまでそばにいて~』を発売。

 

 

1983年4月、シングル“MISS YOU BABY/ROULETTE”を発売。

9月、シングル“レゲエであの娘を寝かせたら/JAMAICA IN YOUR EYES”を発売。

 

9月、アルバム『HUSKY』を発売。

同年、アルバム『SONGS〜男が女を愛する時〜』をCD独自企画でリリース。

 

 

1984年5月、シングル“TAKAKO/扉を開けろ!That's all right”を発売。

 

6月21日、アルバム『抱きしめたい』を発売。 

11月21日、12インチ・シングル“スタンド・バイ・ミー(ロング・バージョン)/TAKAKO/スタンド・バイ・ミー(レディオ・ミックス)”とCD独自企画『SONGS 2〜ALL OF MY HEART〜を同時発売。

12月21日、アルバム『PRIVATE FILE』を発売。

 

 

1985年4月1日、シングル“キャロラインズホテル/ハートブレイカー”を発売。

8月25日、シングル“人知れず恋/最後の夏”を発売。

同年 「ライヴ・エイド」に出演した。

12月1日、アルバム『サイレンス』をリリース。

 

 

1986年1月22日、シングル“思いでが降る夜 ELEGY/送らないぜ You Know Why I Feel Blue”を発売。

 

 

1987年4月22日、シングル“GO WEST~胸いっぱいの愛を~/プールサイド・ウォーカー WATER MIND”を発売。

 

 

1988年、日本コロムビア/TRIADに移籍。

10月1日、シングル“深夜トランスファー/昨日はもうYesterday”を発売。アルバム『WHEN I WAS YOUR MAN -おまえの男だったときに-』を同時発売。

 

同年公開の映画『悲しい色やねん』では“悲しい色やね”が主題歌となり、上田本人も出演している。

11月2日、シングル“悲しい色やね/TAKAKO”を発売。

 

 

1989年3月1日、シングル“望郷/おまえの男だった時に”を発売。

 

6月21日、シングル“ちゃんとやりたい/You Know I Love You”を発売。

 

7月21日、アルバム『SWEET LOVE BITTER』を発売。

12月10日、アルバム『CHARADE』を発売。

 

 

1991年3月1日、シングル“OSAKA ON MY MIND/家を出る少年だった頃”とアルバム『家を出る少年だった頃』を同時発売。

 

同年、パイオニアLDCに移籍。

9月25日、シングル“ずっと遠くで/WHO'S LOVING YOU”を発売。

 

10月23日、アルバム『STRAIGHT TO THE HEART』を発売。

 

 

1992年2月7日、シングル“Brother J.O. /You Are Everything I Do”を発売。

 

2月26日、ライヴ・アルバム『シンパイスナ、アンシンスナ/サウス・トゥ・サウス’91ライブ』を発売。 

5月1日、アルバム『ブルースを浴びて暮らしたい』を発売。

 

9月23日、シングル“わがまま/ゴスペル・タウン”を発売。

 

 

1993年3月25日、アルバム『Here, I am』を発売。

9月25日、シングル“Midnight Lover/風が駆けぬける”とアルバム『That's A Point』を同時発売。

10月1日、シングル“悲しい色やね/TAKAKO/レゲエであの娘を寝かせたら”と、ベスト・アルバム『上田正樹 ベスト・セレクション』を同時発売。

 

 

1994年1月26日、シングル“It's Alright/Searchin’”を発売。

 

6月25日、シングル“Still Lovin' You/NO MOON”を発売。

 

 

1997年、BMGジャパン/RCAに移籍。

4月23日、シングル“You’re My Soul Mate/You’re the one/素直な気持ち”を発売。同年、東芝EMIに移籍。

6月27日、シングル“きっと一人じゃない/SAYONARA”を発売。

 

 

1999年、日本文化解禁前の韓国にて、名プロデューサーとして知られるキム ヒョンソクからの熱いオファーを受け、アルバムデビュー。その中の楽曲“Hands of Time”は 視聴率30%以上のドラマ『ゴースト』の主題歌にもなり、デビューアルバムは20万枚のセールとなった。

 

これが転機となり、上田正樹の評価はアジアの音楽シーンでも高い評価を得ることになる。


2000年、インドネシアの歌手レザ・アルタメヴィア(Reza Artamevia)とデュエットした“FOREVER PEACE〜duet with REZA”を日本語・インドネシア語・英語でリリース。インドネシアで17週間連続1位を獲得し、その人気がマレーシアへも飛び火、上田正樹の存在は、アジアでも確固たるものとなる。

 

同年、ビデオアーツミュージックに移籍。

7月26日、シングル“Collage/わがまま (New ver.)/わがまま(オリジナル版)”を発売。

8月25日、シングル“ジャスト・マイ・メモリー/おまえを救けにゆく”を発売。

 

 

2002年8月2日、ブルーズ・アルバム『NO MORE BLUES』を発表。

 

 

2003年、JAZZYなスタンダード曲をアコーステイックで上田正樹の新境地を聞かせるアルバム『SMILE』をリリース。

 

 

 

2006年、アルバム『FREEDOM』を発売。

同年、LIVE DVD『MTV PREMIUM LIVE MASAKI UEDA』発売。

 

 

2007年 NHK土曜ドラマ『新マチベン』の主題歌に“somewhere sometime”が採用される。

 

7月25日、“somewhere sometime”も収められたアルバム『OSAKA』を発売。

 

11月、著書『戻りたい過去なんてあらへん -上田正樹語りおろし-』を出版。上田は創価学会員であり、著書の中で上田は池田大作名誉会長について「池田先生。」と呼称し、敬意を示している。

 

 

2008年10月22日、アルバム『ぼちぼちいこか '08 フィーチャリング くいだおれ太郎』を「有山じゅんじと上田正樹」名義で発売。 

 

 

2009年、25年振りとなるジャマイカの世界的リズムセクション「スライ&ロビー」との共演を果たしレゲエアルバム『FINAL FRONTIER-Masaki Ueda with Reggae Rythm』をリリースし、全国ツアーを敢行。多方面より高い評価を得る。

 

 

2010年5月19日、アルバム『SMOOTH ASIA』を発売。

 

 

2011年2月2日、アルバム『俺たちの歌』を発売。

 

 

2012年、アルバム『遠ざかる日本(ふるさと)の歌』を発売。

 

 

2014年9月24日、アルバム『チョットちゃいます Better Sweet Soul -有山岸 featuring上田正樹 with Yoshie.N』を発売。

 

 

2019年12月18日、約10年ぶりとなるオリジナル・スタジオ・アルバム『Soul to Soul』をリリース。バンド・サウンドにこだわり、サウス・トゥ・サウス等のメンバーも顔を揃えた本作品。表題曲“Soul to Soul”(作詞:Masaki Ueda/作曲:Masaki Ueda・Yoshie.N)ではSuzi Kimをゲストに迎えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「上田正樹」

 

 

(関連記事)