ローラ・ブラニガン(Laura Branigan/1952年7月3日~2004年8月26日)は、アメリカ合衆国の歌手。

 

 

 

ニューヨーク州ブルースター(Brewster)出身。

アイルランド系の両親(父ジェームスと母キャスリーン)の間に生まれ、姉妹が2人、弟が1人いる。なお、祖母はオペラ歌手、母はラジオ局専属の歌手であった。

 

高校時代に学校でミュージカルの主役を演じたことがきっかけで、卒業後はマンハッタンに移り住み、1884年設立で2年制の名門演劇学校「アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ」((American Academy of Dramatic Arts/AADA) )に通い始める。

 

その後、「Meadow」というバンドでヴォーカルを担当し、1973年にはアルバム『フレンドシップ』(The Friend Ship)を発表している。

 

 

1970年代後半、レナード・コーエン(Leonard Cohen/1934年9月21日-2016年11月7日)のヨーロッパツアーにバックヴォーカルの一員として参加した。

 

1978年、弁護士のラリーと結婚。

 

1979年、アトランティック・レコードと契約。

 

1980年、シングル"Fool's Affair"をリリース。

 

 

1981年、シングル"Looking Out for Number One"をリリース、米誌『ビルボード』の「ダンス・クラブ・ソング」チャートで60位に入った。

 

 

1982年、アルバムからのリードシングル"All Night with Me"をリリース、全米69位。

 

3月、1stアルバム『グロリア』(Branigan)をリリース、全米34位になった。同アルバムからシングルカットされた“グロリア”(Gloria)が全米2位・全英6位・RIAAプラチナ認定を受ける大ヒットになる。

 

 

 

1983年3月、2ndアルバム『Branigan2』をリリース。全米34位・RIAAゴールド獲得。

 

3月23日、『Branigan2』からのシングル“哀しみのソリテアー”(Solitaire)をリリースすると全米7位と大ヒットする。

 

7月1日、『Branigan2』から2枚目のシングル“愛を知って”(How Am I Supposed to Live WIthout You)をカットすると、こちらも全米12位とヒットした。

 

 

1984年4月、3rdアルバム『セルフ・コントロール』(Self Control)を発表、全米26位・全英16位ながら西ドイツ、アルゼンチンなど多くの国で第1位に輝き、RIAAプラチナ認定を受けるなど、自身の最大のヒット作となる。

 

4月、シングル曲“ラッキー・ワン”(The Lucky One)が第13回東京音楽祭にてグランプリを受賞、同曲は全米20位・全英56位を記録した。

 

また、シングルカットされたアルバムタイトル曲“セルフ・コントロール”(Self Control)は、プロモーションビデオがその過激な内容からアメリカのMTVで放送禁止とされた(後に解禁)など話題になったこともあり、全米4位・全英5位に到達、欧州各国でチャート1位を獲得する大ヒットとtなった。

 

また、同アルバムからは、"Ti Amo"が全米55位・全英100位に入った。

 

硬質なビブラートのかかる5オクターブのパワフルな歌声と大柄な体格を生かしたダイナミックなステージアクションで人気を博し、世界各地をツアーしてコンサートを行ったが、特にラテン・アメリカ、南アフリカでの人気は絶大だった。

また、もともとバーブラ・ストライザンドに憧れてミュージカルを志していたこともあり、映画やテレビドラマ等の出演作も多数ある。

 

 

1985年7月、4thアルバム『Hold Me」をリリース、全米71位・全英64位になった他、スイスやスウェーデンでトップ10入りした。ここからのシングルは、"Spanish Eddie"が全米40位・全英87位、タイトルトラック"Hold Me"が全米82位、"I Found Someone"が全米90位になった。

 

 

 

 

 

1987年7月7日、5thアルバム『Touch』をリリース、全米87位になった。シングルは、"Shattered Glass"が全米48位・全英78位、"Power of Love"が全米26位と久々のトップ40入りを果たし、ライヴなどでの人気曲になった。

 

 

 

 

1988年、ベストアルバム『The Best of Laura Branigan』を、アジア向け、オーストラリアと南アフリカ向けにそれぞれ収録曲を変えてリリース。日本に向けては1991年、独自に“Tokio”を収録してリリース、同曲はシングル発売もされた。

 

 

1990年3月21日、セルフタイトルの6thアルバム『Laura Branigan』をリリース、全米133位。"Moonlight on Water"が全米59位、"Never in a Million Years"がオーストラリアで22位に入った。

 

 

 

 

 

1993年8月17日、7thアルバム『Over My Heart』をリリース、オーストラリアでは辛うじてチャート入りを果たすが、全米チャートからは遂に漏れた。シングルも、"It's Been Hard Enough Getting Over You"と"How Can I Help You Say Goodbye"をリリースしたが、チャート入りは叶わなかった。

 

 

 

   

その後、夫のラリーが結腸癌を患い、彼の看病に時間を費やすため活動を減らした。

 

1996年、夫が他界。

夫との死別から数年間活動を休止したが、時を経て、ショーを時々開催するなどして徐々に活動を広げる。

 

2001年からはレコーディングにも取り組み始めた。

同年6月にニューヨーク郊外の自宅で藤をつる作業中にハシゴから転落し両大腿骨を骨折する重傷を負い、本格的な復帰が遅れる。

 

2002年、音楽活動を再開し、オフ・ブロードウェイのミュージカル『Love、Janis』にジャニス・ジョプリン(の歌唱)役で出演したり、アルバムのレコーディングを進めたりしていた。

同年、彼女の2番目の公式米国ヒットコレクション『The Essentials』がリリース。これには、長い間廃盤が続いたヒット曲“I Found Someone”が収録された。

 

 

2004年8月26日、ニューヨーク州イーストクオーグのロッジにて脳動脈瘤により死去。52歳であった。

なお、親しい友人達の話によると、死の数日前から頭痛を訴えていたが、夫の死から医療への不信を抱いており医者にかかることを拒んでいたとのことである。

彼女の遺灰は、ロングアイランド湾に散骨された。

 

 

2010年6月15日、グレイテスト・ヒッツCDとMVコレクションDVDをセットにした『Shine On: The Ultimate Collection』がGalloから発売。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ローラ・ブラニガン」「Laura Branigan」

 

 

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