ビリー・コーガン(Billy Corgan/本名:William Patrick Corgan Jr./1967年3月17日~)は、

アメリカ合衆国のミュージシャン、詩人。オルタナティヴ・ロックバンド「スマッシング・パンプキンズ」と「ズワン」の中心人物として知られる。

 

 

 

1967年3月17日、ウィリアム・パトリック・コーガンJr.は、イリノイ州シカゴに隣接した町エルク・グローヴ・ヴィレッジで生まれる。父はブルーズ・ミュージシャンのビル・コーガン(Bill Corgan)。

 

1970年、ビリーの弟が生まれた後に両親が離婚。兄弟は父に引き取られ、再婚相手とともに暮らすことになる。継母との関係は良好とは程遠かったが、ビリーは実父と継母の間に生まれた異母弟をかわいがり、よく面倒を見ていたという。今でもビリーはこの弟と親密な関係を保っており、2008年には一緒にスマッシング・パンプキンズのステージに上がったこともある。

その後、実父と継母が離婚すると、ビリーは他の兄弟とともに継母と住むことを選んだ。後年、本人はこのような複雑な家庭環境が表現の源となったと語っている。


ビリーは高校に入学するまで野球に打ち込んでおり、熱心なシカゴ・カブスのファンでもあった。しかし、ある日友人の家でギブソン社製のフライングVを目にしたことをきっかけにギターを始めることを決意。ビリーは自分の貯金を父親に託してギターを買ってきてもらい、レスポールのコピーモデルを手に入れた。この日以来、彼は独学でギターを弾くようになる。

当時の彼は、ヘヴィ・メタルの始祖ブラック・サバスや、クイーン、ボストン、チープトリックなどがお気に入りだった。しかし、バウハウスとザ・キュアーに出会ったことがきっかけでオルタナティヴ・ロックに興味を持つようになる。

高校を優等で卒業したビリーにはミシガン大学をはじめ複数の大学から奨学金の申し出があったが、音楽の道に進むためこれを断った。

 

1985年、ビリーはフロリダ州セントピーターズバーグに移住し、「The Marked」というバンドで活動を開始。だが、思うような成功を収めることができず、夢破れてシカゴに帰ってくる。

 

 

1988年、シカゴのレコード店で働いていたビリーはある日、日系三世のジェームス・イハ(James Yoshinobu “Jonas” Iha/日本名:井葉 吉伸(いは よしのぶ)/1968年3月26日~)と邂逅。意気投合した二人は一緒に曲作りを始め、いつしかバンド結成を考えるようになった。

その後、ライヴハウスで偶然出会ったダーシー・レッキー(D'arcy Elizabeth Wretzky-Brown/1968年5月1日~)がベーシストに迎えられ、共通の友人の紹介でドラマーのジミー・チェンバレン(Jimmy Chamberlin/1964年6月10日~)が加入、こうしてスマッシング・パンプキンズ(The Smashing Pumpkins)が誕生した。

10月5日、シカゴのライヴハウス「メトロ」で4人はバンドとして初めてのステージに立った。

 

 

1990年5月、"I Am One"をLimited Potentialからリリース。

 

12月、"Tristessa"をサブ・ポップ(Sub Pop)からリリース。

 

 

1991年5月28日、初のアルバム『ギッシュ』(Gish)をキャロライン・レコード(Caroline Records)から発売。『ビルボード』誌などのランキングでは際立った動きは見せなかったものの、大学製作のラジオ番組内チャートでは1位を獲得するなど、インディーズ・シーンでは一応の評価を得た。

 

この年は、ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』が発表され、グランジブームが巻き起こっていた年であり、当時パンプキンズは数多あるオルタナティヴ・バンドの一つにすぎないとみなされており、ビリーは「次のアルバムで成功しなければ、その次はない」と考えるようになっていた。

 

 

1993年7月27日、2ndアルバム『サイアミーズ・ドリーム』(Siamese Dream)をヴァージンから発売。代表曲のひとつで米誌『ビルボード』の「オルタナティブ・ロック」チャート(以下「オルタナ」)4位・全英44位になった“トゥデイ”(Today)をはじめ、オルタナ7位・全英31位になった"Cherub Rock"、"オルタナ8位・全英11位になった"Disarmなどを収録した同作は、聴衆と評論家の双方に受け入れられ、全米10位・全英4位、プラチナ認定を受けるなど商業的にも成功した。

 

 

 

 


1995年10月24日、CD2枚組(LPでは3枚組)の大作となった3rdアルバム『メロンコリーそして終りのない悲しみ』(Mellon Collie and the Infinite Sadness)を発売すると、米国だけで一千万枚近くのセールスを記録、全米1位・全英4位に達した。グラミー賞で7部門にノミネートされ、『タイム』誌による年間ベストアルバムに選ばれるなど、音楽的にも高い評価を得る。アルバムからのシングルは、"Bullet with Butterfly Wings"が全米22位・オルタナ2位・全英20位、"1979"が全米12位・オルタナ1位・カナダ1位・全英16位、"Zero"がニュージーランド3位、"Tonight, Tonight"が全米36位・オルタナ5位・全英7位、"Thirty-Three"が全米39位・オルタナ2位・全英21位になるなど、ヒットが続出した。

 

 

 

 

 

 

 

1996年7月、ツアー中のニューヨーク市においてヘロインによる薬物中毒によりサポートメンバーのジョナサン・メルビンが死亡、同室で薬物を摂取していたジミー・チェンバレンが逮捕されるという事件が起きてしまう。バンドは苦渋の決断の末、チェンバレンを解雇する。


1998年6月2日、アルバム『アドア』(Adore)を発表、正式なドラマーの不在のもとで制作され、音楽的にもギターを中心としたサウンドから打ち込みを駆使したサウンドへと変貌を遂げた。しかし、アメリカ国内では前作ほどセールスが伸びず、全米2位・全英5位となった。アルバムからは、シングル"Ava Adore"が全米42位・オルタナ3位・全英11位、"Perfect"が全米54位・オルタナ3位・全英24位になった。

 

 

 


1999年、ビリーはジミーと連絡をとり、バンドに復帰させる。

 

 

2000年2月29日、アルバム『マシーナ/ザ・マシーンズ・オブ・ゴッド』(Machina/The Machines of God)を発表、全米3位・全英7位を記録するが、アルバムの完成と同時にダーシーが脱退。急遽、後任のベーシストとして元ホールのメリッサ・オフ・ダ・マーを迎えることになった。アルバムからのシングルは、"The Everlasting Gaze"がオルタナ4位、"Stand Inside Your Love"がオルタナ2位・全英23、"Try, Try, Try"が全英73位に達した。

 

 

 

 

 

2000年5月23日、ビリーはラジオのインタビューにてパンプキンズの解散を発表。有終の美を飾るべく、日本を含む世界各地を回るツアーが行われた。

同年12月2日、パンプキンズはデビュー時より縁のあるシカゴのライヴハウスで最後の公演を行い、解散した。

解散が発表された後、『マシーナ』の続編として制作された『Machina II/The Friends & Enemies Of Modern Music』が世界で25組のみプレスされ、バンドの友人やファンサイトなどに配られた。同作はインターネットを通じて無償で配信されリスナーのもとに届けられた。このような形式をとった理由について、ビリーは「レコード会社に金儲けさせるくらいなら、ファンに無償提供していろんな人に広めてくれたほうがいいと思った」と語った。

 


2001年夏、ビリーはニュー・オーダーのゲット・レディーツアーにサポートギタリストとして参加。

同年のフジロック・フェスティバルのステージにも立った。

パンプキンズの解散後、ビリーとジミーは、二人に加えて、ビリーの旧友マット・スウィーニー(G,Vo)とともに新バンドの結成に動く。

同年の終わり頃、スウィーニーの紹介でスリントなどでプレイしていたデイビッド・パホ(G)が加わり、4人編成のバンド『ズワン』(Zwan)として始動。

 

 

2002年春、パズ・レンチャンティン(B,Vo)が参加し、ズワンのラインナップが完成。

主にライヴハウスを中心にツアーを行い、これと並行してアルバムの制作を行う。

 

 

2003年1月、彼らの最初にして最後のアルバム『メアリー・スター・オブ・ザ・シー』(Mary Star of the Sea)をリリース、全米チャート初登場3位を記録し、初週に9万枚の売り上げを記録したものの、その後は伸び悩む。結果として、スマパンのアルバム売り上げには程遠い形に終わった。アルバムからは、"Honestly"がオルタナ7位・全英28位、"Lyric"が全英44位になった。

 

 

 

同年夏、予定されていたヨーロッパ・ツアーの多くがキャンセルされ、バンドは活動を停止。

9月になってビリーがラジオのインタビューで解散を宣言した。



2004年、ビリーは『Blinking with Fists』と題した、彼にとって最初の詩集を出版する。この作品では、当時のガールフレンドであったイェレナ・ヤムチュックが表紙をはじめとするアートワークを担当した。


2005年6月21日、ビリー・コーガン初のソロ作品『フューチャー・エンブレイス』(The Future Embrace)を発表。その後、ビー・ジーズのギブ兄弟の曲"To Love Somebody"のカヴァーなどを収録した同アルバムをサポートするため小規模ツアーを行ったが、チャートでの動きは全米31位・全英89位に終わり、アルバムの売り上げは伸びず、アメリカでは最終的に6万9000枚しか売れなかった。

 

 

2005年6月21日、ビリーは新聞『シカゴ・トリビューン』の紙面にて、スマッシング・パンプキンズの再結成を宣言する全面広告を出稿。


 

2006年4月20日、オフィシャルサイトにて活動を再開したことを発表。ビリーとジミーの二人以外のメンバーは明らかにならなかったが、アルバムを制作中であることが伝えられた。



2007年4月、ジェームスとメリッサは再結成に参加する意思がないことを公表。

5月22日、ビリーとジミーに新メンバーを加えたパンプキンズはフランス・パリにて約7年ぶりとなるライヴを行う。

5月21日、先行シングルとして“タランチュラ”(Tarantula)をiTunesでリリース、7月2日には英国でシングルCDがリリースされ、全米54位・オルタナ2位・全英59位になった。

 

7月10日、新アルバムである『ツァイトガイスト』(Zeitgeist)を発売、全米2位・全英4位に達した。

 


2008年、ビリーは今後スマッシング・パンプキンズとして新しいアルバムをリリースするつもりはないことを表明。


2009年3月、ジミー・チェンバレンが再び脱退することを発表。ビリーが唯一のオリジナル・メンバーとなってしまったが、後任探しのオーディションが行われ、19歳のマイク・バーン(Ds)が正式メンバーに選ばれた。
9月、『ティアガーデン・バイ・カレイディスコープ』と題した新作のレコーディングが開始されたことを発表。44曲が収録予定で、完成した曲はオフィシャル・サイトを通じて配信されることになった。


2010年5月、ヴェルーカ・ソルト等での活動歴のあるベーシストのニコール・フィオレンティーノが加入。
8月、パンプキンズは解散以来10年ぶりの来日を果たし、サマーソニック2010に参加した他、東京で二晩続けて追加公演を行った。


2012年6月19日、『オセアニア〜海洋の彼方』(Oceania)を発表。セールス面では好調なスタートを切り、全米4位を記録した。"The Celestials"がオルタナ29位になった。

 

 


2014年3月にビリーは新しくBMGと契約したことを報告する。

6月にはマイク・バーンがバンドを脱退したことと、フィオレンティーノもこれ以降のレコーディングに参加しないことが発表された。

11月からツアーを行い、ベーシストはザ・キラーズのマーク・ストーマー、ドラマーはレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのブラッド・ウィルクが務めた。
12月9日、アルバム『モニュメンツ・トゥ・アン・エレジー』(Monuments to an Elegy)をBMGから発表、全米33位・全英59位ながら好意的なレビューに迎えられた。"One and All"

 


2015年には、脱退したバーンの代役として、ジミー・チェンバレンが二度目の復帰をし、2018年に正式メンバーとして加入、

 

 

2017年10月13日、ソロアルバム『オジララ』(Ogilala)を発売。全米184位。

 

2017年5月にプロレス団体の統括組織であるNWAの名前、商標、ベルトなどを購入し、現在NWAのオーナーとしても活動している。

 

 

2018年、ジェームス・イハが正式メンバーとしてバンドに復帰。

11月16日、アルバム『Shiny and Oh So Bright, Vol. 1 / LP: No Past. No Future. No Sun.』をNapalmからリリース、全米54位・全英43位。シングルは"Solara"と、"Silvery Sometimes (Ghosts)"がチャート入りした。

 

 

 

 

2019年11月22日、ソロアルバム『コティリオンズ』(Cotillions)を発売。

 

 

2020年11月27日、アルバム『Cyr』をSumerianからリリース、全米86位・全英71位を記録した。シングルは、"Cyr/The Colour of Love"がオルタナ19位に達した。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ビリー・コーガン」「Billy Corgan」「スマッシング・パンプキンズ」