佐野 元春 (さの もとはる/1956年3月13日~)は、

日本のミュージシャン、シンガーソングライター。

 

 

 

東京都千代田区神田生まれ。当時の家族構成は本人、両親、妹一人。父は会社経営者、母は元新劇女優で青山にてジャズ喫茶を運営していた。出身は台東区の浅草寺に近い下町。

幼少期は漫画家に憧れたが、関心が音楽に移っていく。

中野区立第四中学校入学前後、友人からトランジスタ・ラジオを譲り受け、HOT100系のポップスやブリティッシュ・インヴェイジョン系のロックに傾倒した。

中1の夏、ザ・フーのピート・タウンゼントに憧れ、後にアルバイトで資金を貯めてギターを購入。この時期に詩にもはまり、ランボーやマラルメなど愛読。

中2の初夏、ヘルマン・ヘッセ『赤いブナの木』にメロディを付けたものが初の自作曲になる。

立教高等学校(現・立教新座高等学校)に入学。

高校1年の夏にボブ・ディランを知り、強い影響を受ける。ディランが影響を受けた文学を探っているうちにジャック・ケルアックを知り、ビート・ジェネレーションに傾倒。

15歳時の3大ヒーローは、ボブ・ディラン、J・D・サリンジャー、ジャック・ケルアックだったという。

高校2年で音楽部に入り、ピアノを始める。この頃、吉祥寺の「ジョージ組」なるバイク集団に所属、無謀運転で2回交通事故を起こしている。

高校3年の7月、実家の引っ越しに同行せず一人暮らしを始める。

12月、音楽部を母体とするバンド「バックレイン元春セクション」を結成。当初は5人組だったが、まもなく同級生の妹であるMANNAが加入し、6人編成になる。
なお、学生時代に制作された楽曲のいくつかはプロになってから正式に発表されている。

1974年4月、立教大学社会学部に入学。バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏にヤマハポピュラーソングコンテストに応募する際にホーンセクションが4人加入。佐野(Vo,Pt)、MANNA(Key)、ツインギター、ドラム、ベース、ホーンセクションという10人編成の大所帯バンドになる。ポプコンでは“Bye Bye C-Boy”を歌い杉真理らを抑えて関東・甲信越地区代表になるが10月の本選会では無冠で、同時にバンドの維持が不可能になったために解散。

11月に慶應義塾大学の学園祭のミニコンサートに出演した時に佐藤奈々子と知り会う。

 

1975年冬、佐藤とともに音楽活動を始める。

同年末、佐藤が女性シンガーソングライターのコンテスト出場に際し“鋼渡り”という曲を共作。

 

1976年3月、前述のコンテストで優秀賞を受賞。

秋、佐藤のデビューが決まってからは自身の音楽活動を行う。

 

1977年、佐藤奈々子のアルバム『Funny Walkin'』、『Sweet Swingin'』にも参加。この時期、佐藤の所属事務所の紹介で小坂忠と知り合い、CM音楽の録音などを手伝う。

1978年、再びヤマハポピュラーソングコンテストに出場。“Do What You Like-勝手にしなよ”を歌って関東・甲信越地区代表になり、5月の本選会では優秀曲賞を受賞。

秋、生活のため広告代理店に入社、間もなく真野響子のラジオ番組の制作担当になる。

 

1979年、立教大学を卒業、EPIC・ソニーのプロデューサー小坂洋二から勧誘を受け始める。

秋、アメリカ取材旅行の直後に退社。この時期に小坂の勧誘を受諾してデビューが決まる。

同年末、ヤングジャパンと契約。

 

 

1980年2月、レコーディングに入り、伊藤銀次と知り合う。

3月21日、シングル“アンジェリーナ”(作詞・曲:佐野元春/以下特記が無い限り同じ)でEPIC・ソニーからデビュー。

 

4月7日、TVKの新しい音楽番組『ファイティング80's』レギュラーに抜擢。デビュー後の初ライヴは同番組で、日本電子工学院ホールにて収録。

4月21日、1stアルバム『BACK TO THE STREET』を発表。

8月にマネージャーが交代したことを機に、同じヤングジャパン所属ミュージシャン、アリス、岸田智史、ばんばひろふみなどの前座の仕事が増える。

10月6日、ワンマン・コンサートの打ち合わせで、バックバンド名を「THE HEARTLAND」に決定。

10月21日、2ndシングル“ガラスのジェネレーション”を発売。サッポロビール「吟仕込生ビール」CMソング。

 

同年末、沢田研二のアルバム『G.S. I LOVE YOU』に楽曲提供。これを皮切りに他ミュージシャンへの楽曲提供も幅広く行うようになる。


1981年2月25日、2ndアルバム『Heart Beat』を発売。“ガラスのジェネレーション”収録。

4月、NHK-FM『サウンドストリート』担当になり、番組内で「元春レイディオショー」開始。

6月21日、4thシングル“SOMEDAY”を発表。

 

同時期、伊藤を通じて知り合った大瀧詠一のプロジェクト「ナイアガラ・トライアングル」に参加。自らのアルバムと『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』のレコーディングを並行して制作。

10月21日、5thシングル“ダウンタウン・ボーイ”を発売。

 

11月、大瀧の「ヘッドフォンコンサート」(渋谷公会堂)に参加、ナイアガラとの交流を深めた。

 

 

1982年3月21日、6thシングル“彼女はデリケート”を発売。元は1980年12月23日発売の沢田研二15枚目のアルバム『G.S.I LOVE YOU』に提供した楽曲で、佐野がセルフカヴァーしシングルとして、ナイアガラ・トライアングル名義のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.2』と同時発売された。

 

5月21日、初のセルフプロデュースとなった3rdアルバム『SOMEDAY』を発表。録音エンジニアに吉野金次を迎え、フィル・スペクター並みのウォール・オブ・サウンドを導入、先行発売シングル“SOMEDAY”が改めて注目を浴び、本作もオリコンアルバムチャートで最高位4位を記録。

 


1983年3月5日、10thシングル“グッドバイからはじめよう”を発売。佐野の祖父の死が歌詞のテーマとされ、高校在学時に書かれた曲だという。

 

4月21日、初のベストアルバム『No Damage (14のありふれたチャイム達)』を発売、オリコンで1位を記録し、佐野元春ブームが起きる。

 

5月に渡米。ニューヨークでアパート生活をしながらクラブシーンのミュージシャンや前衛の映像作家などと交遊関係を築き、現地のミュージシャンとともにラップを取り入れながらもそれを換骨奪胎した「新しいサウンド」で新曲をレコーディングし、アルバム『VISITORS』を制作。

完成の達成感からか、帰国してからも長い間躁状態に悩まされたという。


1984年4月、先行シングル“TONIGHT”を7インチ盤と12インチ盤で同時発売し、売上で12インチ盤が上回った。これ以後、邦楽における12インチ・シングル盤がブームとなった。


5月21日、4thアルバム『VISITORS』を発表、メジャーレーベル系ミュージシャンとしては初の日本語ラップ“COMPLICATION SHAKEDOWN”をはじめ数曲ラップを取り入れ、前作までのナイアガラ系サウンドから一変したことで賛否両論が巻き起こったものの、オリコン1位を記録。全国70カ所のコンサートツアー『VISITORS TOUR '84〜'85』では、TVモニターを何十台も積み重ねて不規則な映像を流すなどアバンギャルドなステージを展開、コンサートの形態にも新たな試みを取り入れた。

 

6月に帰国。

6月21日、12thシングル“COMPLICATION SHAKEDOWN”を発売。

 

11月1日、この日に発売された松田聖子の19thシングル“ハートのイアリング”(作詞:松本隆)を「Holland Rose」名義で作曲提供、オリコン1位を記録した。

 

 

1985年2月1日、国際青年年のテーマ曲として“Young Bloods”を発表。オリコン7位と自身初のトップ10ヒットとなり、同曲の印税はアフリカ難民救済のチャリティーとして寄付された。同年の「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW」にも出演、サザンオールスターズとのセッションが話題となる。

 

5月、エレクトリックサウンドに乗せた自作詩の朗読(スポークン・ワード)と詩集・写真集・ストリートアート等を複合的ミックスしたカセットブック『ELECTRIC GARDEN』を小学館から発表。ポエトリーリーディング“リアルな現実 本気の現実”を3分弱に編集して19thシングルとして発売した。

7月13日、ライヴエイドに日本代表で参加。“シェイム─君を汚したのは誰”のライヴ演奏シーンがアフリカの飢餓状況の映像と歌詞の英語訳テロップとともに世界に発信された。

 

 

1986年、自身のレーベル「M's Factory」を立ち上げ、責任編集の季刊誌『THIS』を扶桑社より発刊するなど多岐にわたるメディア活動を展開。またライヴ活動においても、東京・日本青年館で月に一度のペースで定期ライヴを行う「Tokyo Monthly」を開催。チケット申し込みの電話回線がパンクする事件が起きる程の人気を博す。ちょうど次作アルバムの制作中ということもあり、レコーディング前の未発表曲を演奏するなどのアクションも頻繁に行われた。

5月21日、17thシングル“STRANGE DAYS -奇妙な日々-”を発売。オリコン5位。

 

7月21日、18thシングル“SEASON IN THE SUN -夏草の誘い-”を発売。オリコン9位。

 

9月21日、19thシングル“WILD HEARTS -冒険者たち-”を発売。オリコン7位。

 

12月、“Young Bloods”や“CHRISTMAS TIME IN BLUE -聖なる夜に口笛吹いて-”を含むアルバム『Café Bohemia』を発売。チャートトップ10入りを果たしていた先行シングル“WILD HEARTS -冒険者たち-”、“STRANGE DAYS -奇妙な日々-”等も収録。ジャズ、ソウル、スカ、レゲエなどの多彩なリズムが採り入れられている楽曲軍は、当時イギリスでムーブメントとなっていた、ブラックミュージックや第三世界の音楽をUKポップ音楽に融合させたアプローチであり、この流れを主導していたロンドンのレコーディング・エンジニア、アラン・ウインスタンレイを起用している。

 

 

1987年9月、初の単独スタジアムライヴを横浜スタジアム(当時)で実施、この日の模様はライヴアルバム『HEARTLAND』として発表、オリコン1位を記録した。
この頃、国内で大きな議論となっていた原子力発電所の建設問題について自身のラジオ番組「AJIスーパーミクスチャー」で特集を組む予定が、地方局からクレームが来て頓挫。急遽シングル“警告どおり 計画どおり”を発表。一方、同番組内で、M'sFactoryレーベル主催者として、自身の偽名ユニット「ブルーベルズ」やTHE HEARTLANDの別名義のバンド、インディペンデントで活躍するアーティストのプロデュース活動も開始。最終的にはコンピレーションアルバム『mf Various Artists Vol.1』としてまとめ、1989年8月に発売となった。



1988年2月26日、20thシングル“ガラスのジェネレーション (LIVE)”を発売。
8月18日、21stシングル“警告どおり 計画どおり”を発売。オリコン9位。

 

次作のアルバム制作のため単身渡英。エルヴィス・コステロなどを手がけたプロデューサーであるコリン・フェアリーを陣頭指揮とし、ブリンズレー・シュウォーツ、アトラクションズ、ピート・トーマス等、UKパブロック周辺のミュージシャンとレコーディングセッションを開始する。


1989年4月21日、22ndシングル“約束の橋”を発売。オリコン20位。

 

6月、アルバム『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』をリリース。“ジュジュ”などを収録し、サウンド面では、伝統的なUKロックと、オリエンタリズムが融合。60年代のF-Beatサウンド的な疾走感をもつタイトル曲から始まり、アフリカンビートやスキッフル、シャッフル、ロックンロールといった様々なリズムが取り入れられている。詩(歌詞)においてはそれまでの英語やカタカナ語でビートにアクセントをつけていく、いわゆる「佐野元春文体」とは一線を画すものとなった。啓示的な内容をもつ現代詩を元に、カタカナ語を廃し、語数も少ない。抽象的かつ象徴的な言葉の組み合わせによってイメージを聴く者に喚起させる手法は、佐野の作品におけるひとつのターニングポイントとなった。

 

 

8月21日、アルバムの表題曲“ナポレオンフィッシュと泳ぐ日”を23rdシングルとしてリカット。オリコン30位。

 

10月8日、24thシングル“シティチャイルド”を発売。オリコン47位。

 

12月9日、25thシングル“雪―あぁ世界は美しい”を発売。オリコン62位。

 

 

1990年5月、デビューから10年目となり、今までのシングル曲とカップリング曲一部を収録した『Moto Singles』を発売。

11月、佐野元春 with THE HEARTLAND名義としては2枚目となる『Time Out!』をリリース、全面アナログレコーディングと、少数編成のバンドサウンドを核とした素朴な音作りの曲が並んだ。詩も「街に暮らす少年少女」が成長した様子を平易な言葉を選んで描きつつも、時代が狂乱の後で疲弊していく様子を見つめながら「家に帰ろう」(収録曲“空よりも高く”より)と歌う。

 

『Time Out!』プロモーションツアー最終公演の大阪フェスティバルホールでは、ステージにオノ・ヨーコと子息のショーン・レノンが登場。ジョン・レノン生誕50周年記念イベント「グリーニング・オブ・ザ・ワールド」(G・O・W)の趣旨に賛同して佐野が作詞作曲し、三人でレコーディングした“エイジアン・フラワーズ”を披露した。なお、東京ドームで開催されたG・O・Wでも共演している。


1991年、過去のバラードの再アレンジも含めたアルバム『Slow Songs』発売。

10月、父が他界。

 

 

1992年1月22日、28thシングル“また明日…”を発売。オリコン22位。

 

4月8日、29thシングル“誰かが君のドアを叩いている”を発売。オリコン9位。

 

7月22日、2年ぶりのオリジナルアルバム『Sweet16』を発売、第34回日本レコード大賞の優秀アルバム賞を受賞した。

 

9月、『Sweet16』を携えての全国ツアー「See Far Miles Tour PartII」がスタート、翌1993年1月まで行われた。

10月28日、30thシングル“約束の橋/Sweet16”を発売。『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』に収録の“約束の橋”がドラマ『二十歳の約束』主題歌に選ばれたことから、“Sweet16”をカップリングに再リリースしたもので、オリコン4位を記録。

 

11月21日、31stシングル“彼女の隣人/レインボー・イン・マイ・ソウル”を発売。“彼女の隣人”はローソンのCMソングに使用された。

11月10日、アルバム『The Circle』をリリース、前作『Sweet16』と、音楽的、感情的に表裏一体となるもので、ソウルやゴスペル、リズム&ブルーズ色が色濃い作品となっている。なお、収録曲“レインガール”はトヨタ「カルディナ」CMソングに起用され、佐野自身もCMに登場した。

 

12月9日、『VISITORS』以降、“約束の橋”を含むベストアルバム『No Damage II』をリリース。

12月、「The Circle Tour」がスタート、ツアーが終わりに近づいた1994年4月、THE HEARTLANDの解散が発表された。

 

 

1994年9月、解散ライヴ「Land Ho!」を、所縁の地である横浜スタジアムで行う。

10月、母ががんで亡くなる。


1995年3月、バンド解散後初めて、阪神・淡路大震災被災者チャリティ・コンサートに出演。誕生日である3月13日にはインターネット時代の本格到来に先駆けて国内初のアーティスト公式サイト「Moto's Web Server」を開設。ファン有志によって作られたこのWebサイトは、オフィシャル・ファンサイトとして、現在もボランティアスタッフにより運営されている。

同年、新作のレコーディングセッションを通じ集まったメンバーにより佐野の新バンドを結成、何度か改名の後、最終的に「The Hobo King Band」という名称になった。

11月1日、32ndシングル“十代の潜水生活/経験の唄”を発売。

 

 

1996年1月21日、33rdシングル“楽しい時 -Fun Time”を発売。オリコン29位。

 

5月22日、34thシングル“ヤァ! ソウルボーイ”を発売。オリコン36位。

 

1996年7月1日、新バンドThe Hobo King Bandを擁する初のアルバム『FRUITS』をリリース。オリジナルアルバム最多となる全17曲は、いずれも2分から3分のポップソングとなっている。THE HEARTLAND解散後の新しいスタイルが早くも提示された本アルバムは、『ミュージック・マガジン』誌で年間ベストアルバムNo.1に選出されるなど、現在も評価の高い作品である。

8月、佐野がロック・イベント「THIS!」を東京・赤坂BLITZで主催。1998年まで3回開催された同イベントは、山崎まさよし、Dragon Ash、TRICERATOPS、Coccoなど後に第一線で活躍することになるミュージシャン・バンド優秀な新人のショーケース・ライヴとなった。

8月31日、佐藤奈々子が企画した佐野のトリビュートアルバム『BORDER』が発売。ザ・グルーヴァーズ、川村かおり、GREAT3、ヒートウェイヴ、プレイグスらが参加、それぞれ佐野楽曲の新解釈を披露し、トリビュートアルバムブームの先駆け的な存在となった。
9月、The Hobo King Bandと全国ツアー「Fruits Tour」を開始、12月にはアリーナ級会場でライヴを敢行、日本武道館での公演は国内初のインターネット・ライヴ中継を実施した。

11月1日、35thシングル“ヤング・フォーエバー -Young Forever-”を発売。オリコン39位。

 

 

1997年4月22日、36thシングル“Doctor”を発売。

 

同年夏に渡米。ザ・バンドやジャニス・ジョプリンを手かげたプロデューサーであるジョン・サイモンを迎え、アルバム『THE BARN』を制作。ウッドストックのベアズビルにある納屋を改造したスタジオに住み込み状態でレコーディングが進められるという、ウッドストックのマナーに沿ったものであった。近くに住むガース・ハドソン(ザ・バンド)、ジョン・セバスチャン(The Lovin' Spoonful)、エリック・ワイズバーグらがスタジオに訪れてはセッションに参加した。

12月、アルバム『THE BARN』をリリース。アルバム収録曲“Doctor”と“どこにでもいる娘”は、制作期間中に不慮の事故で自身の妹が亡くなった事に関連している。


1998年1~4月、「The Barn Tour」を行う。3月29日の大阪フェスティバルホールでのライヴでは、この日のためにジョン・サイモンとガース・ハドソンが来日し、サイモンはタンバリン、ハドソンはアコーディオンで演奏に参加した。舞台袖で佐野のパフォーマンスを見ていたサイモンは、ステージ上のプロンプターに「Elvis loves you」というメッセージを演奏中の佐野に贈ったという。

 

 

1999年、佐野は、プライベートスタジオを作り、MacとPro Toolsを核としたデジタルレコーディングシステムを構築。そこでさまざまな楽曲のレコーディングを始める。

3月1日、37thシングル“僕は愚かな人類の子供だった”を発売。

 

7月23日、38thシングル“だいじょうぶ、と彼女は言った”を発売。
8月、アルバム『Stones and Eggs』をリリース。ほぼすべての楽器演奏やプログラミングを自身で行った。詩の面では、次第に混乱していくこの国の現実と、その中でサバイバルする人々を表現した作品が増えた。“GO4 Impact”ではDragon Ashの降谷建志とコラボレーションした。

8月、国内初の有料インターネットライヴ「The Underground Live」を開催。まだナローバンド回線だった時代にアンプラグドライヴをThe Hobo King Bandとともに演奏。なお、この模様は当時開局直後のCS局「Viewsic」(現:MUSIC ON! TV)でも生中継された。
12月20、ファンへのメッセージ曲“INNOCENT”が国内初の有料音楽ダウンロードとして販売。将来の音楽ネット販売を見据えた体制として注目を集めた。


2000年、デビュー20周年を迎え、それまでの活動を総括する作品が多くリリースされた。

1月、それまでの代表曲32曲をリミキシングとリマスタリングしたアルバム『The 20th Anniversary Edition 1980-1999 his words and music』をリリース。

9月、主要なクラブミックス、ダンスミックス・ヴァージョンを集めたコンピレーション・アルバム『Club Mix Cllection 1984-1999』をリリース。

11月、コンピレーション・アルバム『GRASS 〜The 20th Anniversary Edition's 2nd〜』を発売。

12月、スポークン・ワード作品集『Spoken Words Collected Poems 1985-2000』を発売。

 

2002年5月、アルバム『SOMEDAY』の発売20周年を記念した『Someday Collector's Edition』を発売。デモなど未発表音源と当時の詳細資料がパッケージされた。

その後も『VISITORS』『Café Bohemia』『ナポレオンフィッシュと泳ぐ日』がそれぞれ20周年記念盤としてリリースされ、ニューヨーク制作の“COMPLICATION SHAKEDOWN”の未発表PVや、『Café Bohemia』制作時に訪れたパリでのプライベートフィルム、横浜スタジアムで行われた「ナポレオンフィッシュツアー」の模様など、その時々の貴重な映像がDVDの形で収録されている。

 

 

2001年、21世紀最初の作品となるべく新作のレコーディングをThe Hobo King Bandとスタートする。バンドにはザ・ハートランド時代からの旧友、古田たかしがドラムで参加。サックスに山本拓夫が参加。レコーディングの模様は逐一「Moto's Web Server」でレポートされていった。


2001年3月、坂本龍一の呼びかけで、地雷廃絶を訴えるキャンペーンに参加、TBS50周年特別企画番組『地雷ZERO 21世紀最初の祈り』に出演した。坂本による地雷除去のためのチャリティーソング“ZERO LANDMINE”(作詞:デヴィッド・シルヴィアン/作曲:坂本龍一)にも参加する。同曲は全編英語で、オリコン1位になった表題曲としては最長の18分を超える大曲である。
5月、非営利組織「Naked Eyes Foundation」を設立。団体の理念を「個人的な社会貢献活動を支援する非営利組織」とし自身の活動による収益の一部を社会貢献に還元するものである。

9月11日、アメリカ同時多発テロが発生。これを受け、すぐに“光 - The Light”を書き下ろし、プライベートスタジオで多重録音、ラフミックス後すぐにMoto's Web ServerからMP3無料ダウンロードでネット配信を行った。所属レコード会社との交渉の末、9月18日〜30日までの期間限定配信となったが、一週間で約10万ダウンロードされることとなった。

9月21・22日、井上鑑らとスポークンワーズ・ライヴ「In motion 2001 - 植民地の夜は更けて」を鎌倉芸術館で行う。その時、観客を前に“光”を演奏した。同曲は戦後60年を迎えた2005年8月17日に改めて有料配信され、収益を前述の通り寄付している。

 

 

2003年、デビュー以来所属していたレーベル、エピックレコードジャパンの25周年記念イベント「LIVE EPIC 25」に参加するも、CCCD問題などでレーベル側と対立。

 

 

2004年6月、エピックレコードを離れ、自主レーベル「Daisy Music」を発足する。原盤制作及び管理は自主レーベルで行い、宣伝と流通はメジャーレコード会社であるユニバーサルミュージックに委託するという、世界的に進むアーティスト主体のメジャーインディペンデントな考えを実践したレーベル形態となっている。
7月21日、自主レーベル第一弾アルバム『THE SUN』をリリース。曲毎に様々な人物の視点で描かれた短編集のような作りで、それらはすべて「2004年の日本」を生きる人々の歌であり、自由の追求、「連帯」がもつ陰と陽の部分、そして夢を見る力をもつことの尊さが歌われている。
同年10月から2005年にかけて「THE SUN TOUR 2004-2005」全国30公演を催行。二部構成ステージとなった本ツアーは、The Hobo King Bandに古田たかし(Dr.)と山本拓夫(Sax)が加わったことで、一部の佐野元春クラシックでThe Heartland時代からお馴染みのライヴアレンジが次々と再現され、続く第二部ではアルバム『THE SUN』がディテールを含めてライヴで再現された。スィングしながら縦横無尽に演奏を繰り広げるジャムバンド的な側面も色濃くなり、現在まで続くThe Hobo King Bandのバンドサウンドが確立されたツアーとなった。


2005年夏には「ap bank fes '05」や埼玉県狭山市で開催された「ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル2005」など音楽フェスティバルに意欲的に参加。また、この年に日本上陸となったiTunes Storeへ、インディペンデントレーベルとして最初の参加表明をするなど、インターネット時代のレーベルとしてその基盤を着実に整備していった。

9月から新作のレコーディング作業を開始する。バンドは盟友The Hobo King Bandではなく、ノーナ・リーヴスの小松シゲル(Ds)、GREAT3の高桑 圭(B)、Mellowheadの深沼元昭(G)という、若い世代とのレコーディングセッションが続けられた。

12月、3トラックEP“星の下 路の上”をリリース。こうした世代を超えたミュージシャンやソングライター同士の連帯は、翌年のポッドキャスト番組『MUSIC UNITED』を経て、深沼元昭、山口 洋(ヒートウェイヴ)、藤井一彦(ザ・グルーヴァーズ)の三人がボーカルとして参加した音楽プロジェクト「MusicUnited.」にまで発展していく。


2006年11月、「Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ2006」に出演し、ザ・ビートルズ“カム・トゥゲザー”を演奏。

年末、音楽誌『ロッキング・オン』主催「COUNTDOWN JAPAN 06/07」に出演した。

 

 

2007年6月、新レーベルから2作目のフルアルバム『COYOTE』を発表。前作の手法から大きく転換し、「コヨーテ」と呼ばれるアウトロー的な男の視点で描かれた「架空のロードムービーのサウンドトラック」というコンセプト・アルバムとなっている。収録全12曲はいずれも、ビート・ジェネレーション的であり、サウンドの面でも今までの佐野元春作品とは違った形の現代性を持っている。特にタイトルトラック“コヨーテ、海へ”という7分にも及ぶロックバラッドは一定の評価を得た。

 

 

この「コヨーテ」というコンセプトはアルバムだけに留まらず、それまでのスポークン・ワード作品をすべて集めたボックスセット『BEATITUDE』、佐野元春の言葉と音楽について纏めた書籍『ビートニクス - コヨーテ、荒れ地を往く』でも共有されている。

 

 

2008年1~3月、The Hobo King Bandと「Sweet Soul Blue Beat」で全国22カ所を回る。『COYOTE』主体ではなく、80年代のレア曲やライヴ定番曲、そしてThe Hobo King Band結成以降の楽曲から構成した公演で、いずれも3時間にも及ぶステージが展開された。
同年、母校の立教大学で文学部客員講師として、詩作などに関する講義「文学講義412〜詩創作論2〜」を受け持つ。この活動は現在も形を変えて継続しており、国内のソングライターを招き各々の創作の核心に迫るというオープン講座が定期的に開催されている。


2009年3月31日には、佐野元春の主たる活動のひとつであるラジオDJがNHK-FMで復活。かつての「サウンドストリート」時代のサブタイトルであった「元春レイディオ・ショー」と銘打たれた音楽番組は、「サウンドストリート」時代から数えて実に22年ぶりとなる。2009年7月から9月,2010年7月から9月にかけては、NHK Eテレにおいて、毎回ソングライターたちをゲストに招いて、主に「歌詞」についてトークしていくテレビ番組『佐野元春のザ・ソングライターズ』を企画・出演。

 

 

2010年、デビュー30周年の数々のアクションが提示されることになる。

9月、ベストアルバム『ベリー・ベスト・オブ・佐野元春 「ソウルボーイへの伝言」』をリリース、翌10月からは、全国クラブハウスツアー「ソウルボーイへの伝言」を全国21ヶ所で開催する。

 

 

2011年1月3日、佐野のアルバム『コヨーテ』をBGMにした堤幸彦監督のロードムービー『コヨーテ、海へ』がWOWOWにて放送、同日には佐野の特番と、ビートを探求する番組も同時に放送された。

1月26日、セルフカヴァーアルバム『月と専制君主』をリリース。

3月、1月から始まったツアーのファイナルを大阪で開催後、東京ファイナルも控えていたが、東日本大震災の影響により公演が延期、一時は開催中止も視野に入れていたが、6月に振替公演が決定し、東京国際フォーラムでの2Days公演にて30周年アニバーサリーイベントを締めくくった。


2012年、Facebookに佐野元春オフィシャル・ページを開設、自身の活動や近況、世相を憂う文章などが綴られている。
3~5月、ビルボードライブ東京と大阪で、The Hobo King Bandによるライブを開催。新曲“トーキョー・シック”を含む20曲程度をチェロを交えたオルタナティブな演奏でファンを驚かせる。

6月~7月、COYOTE BANDとともにクラブハウスツアー「Early Summer Tour」を開催。新曲2曲を含む珍しい曲のオンパレードでファンを喜ばせる。特にライヴ初演奏となる“警告どおり 計画どおり”はファンから意外性を持って迎えられた。
11月7日、ソニーミュージック時代の楽曲がiTunes Storeで販売開始された。
12月、ホットスタッフ・プロモーションのイベント「L'ULTIMO BACIO Anno 11」(ルルティモバーチョ アンノ11)にCOYOTE BANDとしてライヴを行い、珍しい曲を中心にライヴを敢行する。
12月1日に始まり2013年2月の東京フォーラム公演まで行われた「2012-2013 WINTER TOUR」では、6~18歳の観客にチケット代金を全額キャッシュバックする「U18 for Free」という試みを実施。


2013年12月30日、大滝詠一が解離性動脈瘤で死去。これを受け佐野は公式サイトで「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」「でもその星は空に昇って、ちょうど北極星のように僕らを照らす存在となった」という趣旨の追悼コメントを発表。

 

 

2014年1月21日より、ラジオ番組『元春レイディオショー』(MRS)にて大滝関連の過去のアーカイブを元に、故人の想い出を振り返る特集「ありがとう、大滝さん」を4週にわたってオンエアした。
2月12日、雪村いづみとのコラボレーション・アルバム『トーキョー・シック』を発売。

 

9月21日、佐野がニューヨークを再び訪れ、『VISITORS』の制作スタッフたちとの再会した姿を映したドキュメンタリー『名盤ドキュメント 佐野元春“ヴィジターズ”〜NYからの衝撃作 30年目の告白〜』がNHK BSプレミアムにて放送される。
10月29日、アルバム『VISITORS』リリース30周年を記念しスペシャルエディション「VISITORS DELUXE EDITION」発売。

 


2015年3月4日には学生時代に制作され、かねてから一部で『伝承歌』として注目されていた“君がいなくちゃ”が正式に発表され、iTunesロックチャートで1位を獲得し、年末には桑田佳祐にラジオ番組で絶賛されている。

 

同年、読売新聞社から要請を受けて制作したCMソング“境界線”や、キヤノン「EOS 8000D」オリジナル連続Webドラマ『遠まわりしようよ、と少年が言った。』のために書き下ろした“私の人生”などのタイアップ付きの楽曲も発表された。

 

9月29日から2016年3月22日まで、TBSラジオ番組『SOUND AVENUE 905』の枠で「元春レイディオショー」が半年限定で復活。2016年2月16日放送分では佐野のファンを公言する爆笑問題が出演するなど、趣向を凝らした内容となった。
12月5日の京都KBSホールから2016年3月27日の東京国際フォーラム ホールAでの公演まで「佐野元春35周年アニバーサリー・ツアー 佐野元春 & THE COYOTE GRAND ROCKESTRA」が開催。


2016年、配信限定でEP“或る秋の日”を発売、“私の人生”などを収録。

8月10日に東京国際フォーラム ホールAで開催された「THIS! 2016」では前年に成立した改正公職選挙法に伴い、選挙権年齢が18歳以上に引き下げられることになった事を祝し、18歳と19歳の者を対象に、開場前に受付窓口に行き年齢を証明する身分証明書を提示することで、チケット代の8200円が無料になる「祝!18歳選挙権」という制度を導入。既にチケットを購入済みの18歳と19歳の者は、当日受付窓口で料金が全額キャッシュバックされた。



2017年4月、ニューヨークを訪れアート・イヴェント『Not Yet Free』を開き、スポークンワーズを披露した。また、この模様は2017年5月28日にNHK BSプレミアムで「佐野元春ニューヨーク旅『Not Yet Free -何が俺たちを狂わせるのか』」と題して放送された。

10月20日、14th配信シングル“こんな夜には c/w 最新マシンを手にした子供達”をリリース。“こんな夜には”は後に“夜に揺れて”に改題された。

 

 

2021年9月22日、佐野の公式Facebookにて、自主レーベル『Daisy Music』の配給先をソニー・ミュージックに移行したと発表。ファンクラブ会報誌『Cafe Bohemia』のインタビューで佐野は「契約書を取り交わしにソニー・ミュージックに行ってきた。エントランスでスタッフが歓迎し、入口には<WELCOME BACK, MOTO>という看板が立て掛けられていた。突然のことで嬉しかった。思い返せば、僕はあの時代に翻弄されるように独立宣言をし、Daisy Musicを設立して以降、独立独歩でここまでやってきた。ソニーとの再会は良い運命だと思う」と述べている。

2021年度芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「佐野元春」