ルー・リード(Lou Reed/本名:Lewis Allen Reed/1942年3月2日~2013年10月27日)は、

アメリカ合衆国のミュージシャン。

 

 

 

1942年3月2日、ルイス・アレン・リードは合衆国ニューヨーク州ブルックリンのベスエル病院(後のブルックデール)で生まれ、ロングアイランドのフリーポートで育った。ユダヤ系の血を引いており、彼の祖父母は反ユダヤ主義から逃れたロシア系ユダヤ人で、父の代にラビノヴィッツ (Rabinowitz) からリード(Reed)に改姓した。

 

リードはフリーポートのアトキンソン小学校に通い、その後フリーポート中学校に進学した。

ラジオからギターを弾くことを学んだリードは、ロックンロール、リズム&ブルーズに早くから興味を持ち、高校時代にはいくつかのバンドで演奏した。

なお、リードは失読症(dyslexic)だったという。

 

シラキューズ大学に進学、在学中にデルモア・シュワルツ(Delmore Schwartz)に師事して詩作を学ぶ。

 

1963年、大学を中退したルー・リードはニューヨークに移り、レコード会社の雇われソングライターをしながら自分名義のレコード契約の機会をうかがっていた。

 

1964年のある日リードは、現代音楽を学ぶためアメリカに来ていた英国ウェールズ出身のジョン・ケイル(John Cale/1942年3月9日~/Key,B)と出会う。共通の音楽的アプローチを有していた二人は意気投合し、バンドの結成を模索。

 

1965年頃、アンガス・マクリーズ(Perc)、ニューヨーク市立大学の学生であるスターリング・モリソン(G)の2人が加わる。

11月、バンド名が「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」(The Velvet Underground)に決定。由来は、ケイルの友人で、音楽グループ「シアター・オブ・エターナル・ミュージック」の一員だったトニー・コンラッドがリードらに教えた、1963年出版の『The Velvet Underground』というノンフィクションだった。同書はジャーナリストのマイケル・リーが書いた性的倒錯に関する書物だった。マクリーズはバンドの名前にふさわしい名だと考え、「アンダーグラウンド・シネマ」を想起させることから他のメンバーも気に入り決定した。彼らは「ヴェルヴェッツ」の略称でも呼ばれた。

その直後、マクリーズが脱退。後任にモーリン・タッカー(Ds)が加入すると、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」名義で本格的な活動を始める。ルーの友人であったモーリンの兄が大学時代の同僚スターリングをルーに紹介し、後にモーリンも兄を通じてバンドに加入した。

初期のヴェルヴェッツはグリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ビザールを拠点として演奏していた。

ある晩、彼らの演奏を目にしたポップアートの旗手「アンディ・ウォーホル」(Andy Warhol/1928年8月6日~1987年2月22日)が大いに気に入り、自身が企画していた音楽・ダンス・フィルム・照明・そして聴衆をも巻き込むマルチメディア・イベント「エクスプローディング・プラスティック・イネヴィタブル」での演奏をバンドにオファー、同イベントで演奏を行ったヴェルヴェッツは、ニューヨークのヒップな文化人たちに熱狂的に受け容れられた。

これがきっかけで、ウォーホルのプロデュースによるデビューアルバムの制作が決定する。

 

アルバム制作に先立ち、ウォーホルの提案により、彼のスタジオ「ファクトリー」に出入りしていたモデルで女優のニコ(Nico/本名:Christa Päffgen/1938年10月16日~1988年7月18日)がヴォーカルとして参加。ウォーホルはデビューを支援する条件としてニコの参加を打診したという。リードはデビューのために提案を受け入れたが、内心は不満だったという。後年、リードは当時の状況に関して「とにかくニコは特別扱いだった。良い曲は全部ニコに取られてしまうので困った」と語っている。

 

1967年3月12日、5人組となったヴェルヴェッツは、ウォーホルの手によるバナナのジャケットで知られる『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ』(The Velvet Underground and Nico)でデビューを飾った。なお実際にはニコはライヴに数回しか参加せず、本作リリース時には既に離脱していた。“日曜の朝”(Sunday Morning)、“僕は待ち人”(I'm Waiting for the Man)、“ヘロイン”(Heroin)、ニコがリード・ヴォーカルを取った“宿命の女” (Femme Fatale)などを収録。

 

 

 

 

 

リードによれば最初の5年間で3万枚程しか売れなかったという。米国ではアルバム発売後チャート171位に入ったのみだったがルー・リードの死後2013年に129位になった。英国では発売時にチャート入りせず、1994年に一度59位になった後、2013年に43位に入った。

バンドは、CBGBやマクシズ・カンザス・シティなどのライヴハウスでコンサートを実施した。

やがて彼らはウォーホルとの関係を断ち、ニコも正式に脱退した。

 

1968年1月30日、2ndアルバム『ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート』(White Light/White Heat)を発表。前作以上に前衛色をいっそう強め、ホワイトノイズを多用した17分半にも及ぶ大作“シスター・レイ”(Sister Ray)が並ぶなど、より暴力性とノイジーさが際立つ作品となった。しかし、アルバム制作途中でリードとケイルの関係が悪化、バンドを主導していたリードに対してケイルはヴェルヴェッツの中で居場所を失い、本アルバムを最後にケイルは実質的に脱退させられる。後任ベーシストには、マルチプレイヤーのダグ・ユールが加入した。

 

後年、リードは本作の制作状況に関して、「ウォーホルとの関係を断ったことから自由に作れるようになったが、結果的に歯止めがきかなくなり、まとまりを欠く物になった。そして、最終的にケイルが脱退する事態になってしまった」と語ってる。

 

 

1969年3月、3rdアルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド』(The Velvet Underground/『Ⅲ』とも表される)を発表。全体に叙情的な面が目立つが、前作のような過激さも併せ持っている。数多くのカヴァーを生んだ“ペイル・ブルー・アイズ”(Pale Blue Eyes)、タッカーがリード・ヴォーカルをとった“アフター・アワーズ”(After Hours)、メンバー全員で歌う“殺人ミステリー”(The Murder Mystery)等がよく知られる。だが売り上げは相変わらず芳しくなく、レコード会社から契約を切られてしまい、当時レコーディング中だった4枚目のアルバム制作は頓挫してしまう。

 

 

 

 

 

その後、新たにレコード会社との契約が決まり、心機一転、4枚目のアルバム制作に入る。

しかし好調に見えたレコーディングの後半頃からリードの精神状態が急激に悪化、レコード会社移籍のプレッシャーが原因と言われている。

 

1970年8月、ライヴ・ツアーの途中にリードが突然失踪、そのまま脱退してしまう。

11月15日、アルバム『ローデッド』(Loaded)がリリース。本作は制作途中でお蔵入りしたアルバムの内容を大幅に見直し、全曲新たにレコーディング、楽曲自体も多くが新曲となった。内容は、“スウィート・ジェーン”(Sweet Jane)や“ロックン・ロール”(Rock and Roll)といったリードが後年になっても演奏する曲を含むオーソドックスなロックンロール・アルバムであり、以前のような前衛的、実験的な要素は抑えられ、ポップな仕上がりとなっている。ただし、リードは会社側で勝手にリミックスしたと主張しており、同アルバムをあまり評価していない。リードが言うオリジナル・ミックスはボックスセットに収録。また、リードの当初構想に沿った形のアルバムとして、リミックスを含む『Fully Loaded Edition』が後年リリースされている。因みに、本作でドラマーとしてクレジットされているモーリン・タッカーは妊娠中でほとんど演奏しておらず、実際にドラムを叩いていたのはダグ・ユールの弟であるビリー・ユールと数人のスタジオ・ミュージシャンである。本作はその後ロングセラーとなり、結局ヴェルヴェッツの最も売れたアルバムとなった。

 

 

 

ルー・リードのヴェルヴェット・アンダーグラウンドでの活動はわずか4年程で、最後は残念な形での脱退となったが、バンド結成とリード在籍時の活動は、ロックの歴史において、オルタナティヴ・ロックを産み出した「ビッグ・バン」と位置付けられている。

バンドを離れたリードは、以後ソロ活動を開始した。


1972年4月、アルバム『ロックの幻想』(Lou Reed)でRCAからソロ・デビュー。同アルバムにはスティーヴ・ハウやリック・ウェイクマンなどがセッションで参加した。

11月8日、盟友・デヴィッド・ボウイとそのパートナーであるミック・ロンソンと事実上共作した2ndアルバム『トランスフォーマー』(Transformer)を発表、全米29位・全英13位に達した。シングル“ワイルド・サイドを歩け”(Walk on the Wild Side)がグラム・ロックの文脈において支持されて、全米16位・全英10位のヒット、後に米国でホンダのスクーターのCMソングに起用される。

 



1973年7月、閉鎖的な都市における内省的かつ陰鬱な恋愛を映画的手法で描いたコンセプト・アルバム『ベルリン』(Berlin)を発表、方向性の転換によって一元的なコマーシャリズムへの迎合を避けた。米国ではチャート98位となった一方、英国では7位と初のトップ10入りを果たした。

 

 

 

1974年2月、ライヴアルバム『Rock 'n' Roll Animal』をリリース、全米45位・全英26位。

8月、前作が批評家からの批判を受けたことと対照的に、リードの思惑から外れたオーヴァープロデュースとも言える4thアルバム『死の舞踏』(Sally Can't Dance)をリリースすると、全米10位と自身最高のヒットを記録した。

 

 

 

1975年7月、アルバム『無限大の幻覚』(Metal Machine Music)をリリース。二枚組・60分間強の間ギターの多重録音によるノイズのみが収録された「問題作」で、人気絶頂期に発表されたことで大きな賛否を巻き起こした。

12月、アルバム『コニー・アイランド・ベイビー』(Coney Island Baby)をリリース、イギリスでは翌年1月の発売となった本作は、全米41位・全英52位に達した。

 

 

 

1976年10月、アリスタ・レコードと契約し、移籍第一弾『ロックン・ロール・ハート』(Rock And Roll Heart)をリリース、全米64位を記録した。

 

 

1978年、アルバム『ストリート・ハッスル』(Street Hassle)を発売、全米89位。

 

アリスタに移って以降、自身のポップ観とロック観の折衷を求めて、コンスタントな活動ペースを保ちつつ試行錯誤を繰り返した。アレンジ面でもよりスタンダードなロックサウンドと非クラシカルなストリングスやホーンセクションなどとの融合を試みたり、ファンクやフリー・ジャズ、AORなどの要素を導入したり、楽曲の長大化やアコースティック面の強調、バックバンド・メンバーとの共作などがその結果として挙げられる。

 

 

1979年に『警鐘』(The Bells)、1980年に『都会育ち』(Growing Up in Public)と2枚のアルバムをリリース。これを最後にアリスタを離れ、RCAに復帰する。



1982年2月、RCA復帰第一作となったアルバム『ブルー・マスク』(The Blue Mask)ではロバート・クインのギターを得てラフかつノイジーなロックにハードな感触を加えたサウンドに転向した。

 

 

1983年3月、前作とほぼ同一の布陣で更にオーソドックスなロックへ遡行したアルバム『レジェンダリー・ハーツ』(Legendary Hearts)を制作した。

 

 

1984年、アルバム『ニュー・センセーションズ』(New Sensations)をリリース。あえて時流に歩み寄った我流のニュー・ウェイヴを展開し、リスナーを戸惑わせる一方、L. シャンカールやブレッカー・ブラザーズといったビッグ・ネームと共演を果たし、全米56位・全英92位を記録した。

 

 

1986年のアルバム『ミストライアル』(Mistrial)でも同様のニュー・ウェイヴ的な作風を見せ、全米47位・全英69位に達した。

 


1989年1月、自身のルーツと向き合う形となったアルバム『ニューヨーク』(New York)をSire Recordsからリリース、全米40位・全英14位になるなど復調を見せた。

 

 

 

1990年、アンディ・ウォーホルの追悼としてかつての盟友ジョン・ケイルと共同でアルバム『ソングス・フォー・ドレラ』(Songs for Drella )を制作。全米103位・全英22位になった。

 

以後1990年代前半の断続的なヴェルヴェット・アンダーグラウンド再結成をはさみ、

 

 

1992年1月、アルバム『マジック・アンド・ロス』(Magic and Loss)をリリース。全米では80位だったが、前衛では自己最高となる6位を記録。

 

 

1995年、フランク・ザッパのロックの殿堂入りに際してプレゼンテーターを務めた。その際にスピーチを行い、マザーズ・オブ・インヴェンションと自らのヴェルヴェット・アンダーグラウンドを対比させて、ザッパの音楽的功績を称えている。

 

 

1996年、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはロックの殿堂入りを果たした。

2月、アルバム『セット・ザ・トワイライト・リーリング』(Set the Twilight Reeling)をリリース、全米110位・全英26位。

 

 

1997年、"Perfect Day"を「Artists for Children in Need」の一員としてリリース、全英1位。

 

 

2000年4月、アルバム『エクスタシー』(Ecstasy)を発表、かつてよりスローなペースながら健在を印象付けた。

 

 

2002年、パロマー天文台でマイク・マイヤーによって発見された小惑星「270553 Loureed」は、ルー・リードに敬意を表して命名された。


2003年にはエドガー・アラン・ポー、殊に「大鴉」を題材にした『ザ・レイヴン』をリリース、自身の現代文学的な詩世界と古色蒼然たる古典文学の融和をドラマティックな音楽によって表現し新境地を開いている。

6月、コンピレーションアルバム『NYC Man (The Ultimate Collection 1967–2003)』をRCA Recordsからリリース、全英31位。アルバムから"Satellite of Love '04"をリカットして、全英10位になった。

 

 

2007年4月、元々自身のメディテーション用にプライヴェートに制作された単調な電子音の反復によるアンビエント『Hudson River Wind Meditations』をSounds Trueからリリース。

同年、南京大虐殺をあつかった映画『NANKING』のために楽曲を提供する。

同年、The Killersの"Tranquilize"に客演し、全英13位。

    

 

2008年4月12日、長らくパートナーであったヴァイオリニストのローリー・アンダーソンと、正式に結婚したことが明らかとなった。挙式はコロラド州にて、極プライベートな形で行われたという。

4月、ジョン・ゾーンやローリー・アンダーソンとの連名によるフリー・インプロヴィゼーション作品『The Stone: Issue Three』をリリース。

12月、「Metal Machine Trio」名義で本格的なアンビエントとノイズミュージックの双方に着手した『The Creation of the Universe』をリリース。

 

 

2011年10月、フランク・ヴェーデキントの『ルル二部作』をモチーフとした『ルル』(Lulu)を Warner Bros. から発表。スピーディかつ起伏に富んだ音楽性の「メタリカ」 (Metallica) を起用しながら、ヴェルヴェッツ時代を想起させる頽廃的な酩酊感と1990年代のメタリカさながらのヘヴィなグルーヴが同居するサウンドとポエトリーリーディングという異色のアプローチをとった作品となった。全米・全英ともに36位に達した。

 

 

 

2013年に入ってから肝臓の移植手術を受けたことがメディアで報じられ、予後にローリー・アンダーソンとの外出写真が出るなどして復帰が待たれていた。

10月27日、肝臓疾患の関連病のためニューヨーク州サウサンプトン(Southampton)にある自宅で死去。71歳没。

遺産については妻のローリー・アンダーソン、リードの妹に母親の介護資金として分配され、また、リードの作品の許認可や著作権管理などは、これまでリードを支えてきたビジネス・マネージャーと会計士に引き続き託されることになるという。

ルー・リードの死去のニュースを受け、多くのミュージシャンが追悼のコメントを寄せている。
追悼コメントを寄せた主なミュージシャンは、以下の通り。
デヴィッド・ボウイ、ジョン・ケイル、ベック、ザ・フー、ライアン・アダムス、カール・バラー、ネイサン・フォロウィル(キングス・オブ・レオン)、ジェラルド・ウェイ、リー・ラナルド(ソニック・ユース)、サブ・ポップ、ナイル・ロジャース、ウィーザー、パトリック・カーニー(ザ・ブラック・キーズ)、アーヴィング・ウェルシュ、トム・モレロ、ポール・エプワース、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、ラーズ・ウルリッヒ(メタリカ)、U2、パティ・スミス、エイドリアン・ブリュー、イギー・ポップ、モリッシー、ジュリアン・カサブランカス(ザ・ストロークス)、ニッキー・シックス(モトリー・クルー)。

 


2015年4月18日、ルー・リード個人としてもロックの殿堂入りを果たした。

 

 

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの時代から前衛性とポップさを兼ね備えた斬新かつ挑戦的な音楽性、陰翳と知性に富みながらも様々なスタイルを持つヴォーカル、音像を形成する上で欠かせないオリジナリティ溢れる独創的なギター・プレイ、人間の暗部を深く鋭く見つめる独特の詩世界を持ち、同時期にデビューしたデヴィッド・ボウイを始め、後のパンク・ロック/ニュー・ウェイヴ、オルタナティヴ・ロック、ひいては音楽界全体に及ぼした影響は計り知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ルー・リード」「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」「Lou Reed」「The Velvet Underground」