ジャスミン・フェッター(Jasmin Vetter/出生名:Jasmin Elisabeth Vetter/1956年2月22日〜】は、

ドイツの歌手、「アラベスク」(Arabesque)の元メンバー。

 

 

 

1956年2月22日、ジャスミン・エリザベス・フェッターは旧西ドイツに生まれる。

 

1975年、ヨーロッパで人気のシュラーガー・ミュージックのシンガーであるメアリー・アン・ナーゲル(Mary Ann Nagel)は、西ドイツの実業家でプロデューサーのヴォルフガング・メーヴェス(Wolfgang Mewes)にガールズグループの結成を提案。

 

1977年、ヨーロッパのディスコ時代の最盛期にヴォルフガング・メーヴェスも当時西ドイツから世界に向けてヒットを連発していたボニーMに触発されて、自らも同様なプロジェクトを作りたいと思い立つ。そこで傘下の音楽出版社でプロジェクトチームを組織、メアリー・アン・ナーゲルに加えて歌唱コンクールを通じて2人の追加メンバーを採用し、3人組のガールズグループ「アラベスク」(Arabesque)がフランクフルトで結成された。最初のラインナップは、ドイツ人のメアリー・アン・ナーゲル(Mary Ann Nagel)、イギリス人カレン・アン・テッペリス(Karen Ann Tepperis)、そしてウズベク系ドイツ人ミシェーラ・ローズ(Michaela Rose)で構成された。

10月25日、シングル“ハロー・ミスター・モンキー”(Hello Mr. Monkey)を本国でリリース。しかしセールス面で特筆すべき実績を残すことはなかった。

この“ハロー・ミスター・モンキー”の日本における発売権をビクター音楽産業(当時)が取得。

同年、テレビの特別番組でアラベスクは日本に初めて登場し、午後11時のテレビ番組で“ハロー・ミスター・モンキー”を演奏した。

12月1日、“ハロー・ミスター・モンキー”を日本でシングル発売、するとオリコン洋楽シングルチャートで1978年6月26日付から通算3週1位を獲得する大ヒットを記録。同曲の日本での驚くべき一夜の成功により、プロデューサーは日本でのツアーを即時企画した。

 

 

1978年、ファーストアルバム『Friday Night』 (別名『Arabesque-I』)後に、グループはメアリー・ナーゲルの代わりに、ヘイケ・リンボー(Heike Rimbeau)を加入させた。ナーゲルは自宅のあるカールスルーエからグループの本拠地フランクフルトへ毎日長い道のりを通うことに堪えられずに脱落した。

9月25日、2ndシングル“フライデイ・ナイト”(Friday Night)を日本でリリース。本曲はソングライター・チームのジーン・フランクファーター(Jean Frankfurter)とジョン・メオリング(John Moering)がクレジットされた最初の曲の1つであり、このコンビが今後アラベスクのすべての曲を書き続ける。 また、アラベスクの最新メンバーである19歳のヘイケ・リンボーをリードヴォーカルに据えた最初の曲でもあった。 ミシェーラとカレンはバックボーカルを担当した。以下、特記が無い限りレコード発売の日時は日本でのもの。日本では大ヒットとなり、チャートで9位になった。

 

11月1日、シングル“Friday Night”を本国でリリース。

 

 

1979年1月25日、シングル“フライ・ハイ”(Fly High Little Butterfl)を発売、以前のシングルと同様に、この曲はドイツではチャートに失敗したが、日本では大成功を収めた。ヘイケ・リンボーがリードを歌い、カレン・アン・テッペリスとミカエラ・ローズがバックシンガーとして出演した。

 

だが、ヘイケ・リンボーもまた妊娠のため脱退、一時的にドイツのカントリーシンガーであるエルケ・ブリュックハイマーが後任に加わった。彼女は1979年に数回のライヴ公演に出演した。

7月5日、シングル“今夜もロック・ミー”(Rock Me After Midnight)を発売。

 

8月、エルケ・ブリュックハイマーは、サンドラ・アン・ラウアー(Sandra Anne Lauer)に取って代わられた。ラウアーは1975年にヤングスターミュージックコンテストに参加した後レコード契約を結び、“Andy mein Freund” (「My Friend Andy」の意)という曲でデビューした実績を持っていた。

サンドラがグループに加入したのはわずか17歳の時のことだった。

同年、シングル"City Cats"を本国西ドイツでリリース。本曲はサンドラ・ラウアーがリード・ヴォーカルを取り、ジャスミン・エリザベス・フェッター(Jasmin Elisabeth Vetter)とミカエラ・ローズをバックシンガーとして歌った初めてのシングルだった。シングルのリリース後、サンドラ、ジャスミン、ミカエラが正式にグループの正式メンバーになったため、"City Cats"はグループのデビュー曲と見なされている。本曲は、西ドイツの他、フランスおよびその他のいくつかの国でリリースされた。この曲のライヴパフォーマンスでは、グループはカラフルで大胆な「猫」の衣装を着ていることが常だった。

 

同年、17歳で加入したサンドラ・ラウアーはアラベスクでリードシンガーのポジションに就いた。ラウアーは、美貌かつ小顔で手足が長いモデル体型の美女で、この頃の日本のアイドルにはいないタイプでグループの人気を牽引した。このサンドラ、ジャスミン、ミカエラのトリオは、1979年から1984年に活動休止するまで、入れ替わることなく活動を続けた。

10月25日、シングル“ペパーミント・ジャック”(Peppermint Jack)を発売。

 

 

1980年2月21日、シングル“ハイ・ライフ”(High Life)を発売。

 

5月、ツアー中の日本でラウアーは18歳の誕生日を迎えた。アラベスクは1982年までの間に計6回来日し、公演を行った。その間、彼らは「ファンシーコンサート」と名付けられたライブアルバムをリリースした。

6月5日、シングル“恋のペントハウス”(Parties In A Penthouse)を発売。

 

同年、シングル"Love Is Just A Game"をオーストラリア限定でリリース。

その後、ドイツに帰国すると、本国のみでリリースされたシングル“Take Me Don't Break Me”がヒットし、ドイツのトップ40に入った。

12月、次のシングル“Marigot Bay”が本国でリリース、数週間で西独チャート8位とアラベスクにとって唯一の本国でのトップ10ヒットになった。グループはこの歌でヨーロッパで複数のテレビ出演をした。アラベスクは、ドイツで極東と同じレベルの成功を収めたことはなかった。他のヨーロッパのディスコトリオ(アラカルトやLuv ')と外観はほぼ同じだが、彼らの曲は主にヨーロッパのディスコシーンではなく日本の聴衆を対象にしていた。ドイツではたった5枚のアルバムが全部リリースされた。このグループは、イタリア、メキシコ、スカンジナビアなど、他の約20か国でリリースされ、しばらくの間、アルゼンチンでも1位になった。

 

 

1981年2月5日、“ミッドナイト・ダンサー”(Midnight Dancer)を発売。

 

5月21日、“恋にメリーゴーランド”(In For A Penny In For A Pound)を発売。

 

8月21日、“ビリーズ・バーベキュー”(Billy's Barbeque)を発売。

 

11月21日、“幸せのジャックポット”(Hit The Jackpot)を発売。

 

同年、ソウルソングフェスティバルに参加した。

 

 

1982年3月21日、“キャバレーロに夢中”(Caballero)を発売。

 

7月21日、“ヤング・ファースト・ラブ”(Young Fingers Get Burnt)を発売。

 

11月21日、“愛のリプライ”(Why No Reply)を発売。

 

 

1983年、“あの愛をもう一度”(Pack It Up)を発売。

 

同年、“気分もエアロビック”(Dance Dance Dance)を発売。

 

同年、“恋のルーザー”(Loser Pays The Piper)を発売。

 


1984年2月、シングル“ハート・オン・ファイア”(Heart On Fire)を発売。

 

同年、ジャスミン・ヴェッターとミカエラ・ローズ、サンドラ・ラウアーのアラベスクは解散。

その後、ジャスミン・ヴェッターとミカエラ・ローズはデュオ「ルージュ」(Rouge)として活動を続けた。デュオはアラベスクの伝統とスタイルを継続することを目指し、ジャスミン・ヴェッターをリードシンガーに据えて活動した。

一方、サンドラ・ラウアーはソロ・アーティストとして自身のキャリアをスタートさせ、後にサンドラとしてマイケル・クレトゥと協力し、「エニグマ」の一員として活動した。
 

 

1986年、ルージュのシングル"Hold On" / "Perfect Timing"をリリース。

 


1987年、ルージュのシングル"Einer Von Uns" / "Nobody Knows" (Entry in the German Eurovision selections 1987)と、"The Leader Of The Pack" / "So Close"をリリース。

 

 

 

1988年、シルージュのシングル"Love Line Operator" / "Love Line Operator" (Instrumental)、"Love Line Operator" (Extended version) / "Love Line Operator" (Real Life Mix)、日本語詞のシングル"Koi Wa No Time"を日本限定リリース。

 

 

同年、アルバム『Rouge』を日本限定発売。

 

 

1989年、 英語詞版"Koi Wa No Time ~Loving Me Totally~を発売。

 

その後、ルージュは解散。

 

 

2006年12月16日、アラベスク(Michaela Roseと2人の新しいメンバー、SabineKaemperとSilkeBraunerをフィーチャー)は、モスクワで開催された2回目の「LegendsofRetroFM」フェスティバルのヘッドライナーを務めました。当時のロシアのマスコミによると、彼らは日本でのツアーを計画しており、おそらく新しいアルバムをリリースする予定だった。現在のトリオは、2018年の時点で、旧東側諸国の多くでパフォーマンスを行っています。

 

 

2013年10月23日、アラベスクのベストアルバム『プラチナム・ベスト アラベスク』が発売。

 


2017年、ミカエラ・ローズはグループの40周年記念の一環として、Monopol Records の支援を受けてリリースされた、アラベスクの曲の1つである「Zanzibar」を再レコーディング。

 

 

ジャスミン・エリザベス・フェッターは現在、Jasmin Vetter of Arabesque and the CityCatsとして活動を継続しているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アラベスク (歌手)」「Arabesque (group)」

https://rainbow-entertainment.com/team/jasmin-vetter-of-arabesque-and-the-citycats/