ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart/出生名:Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart/1756年1月27日~1791年12月5日)は、オーストリアの音楽家、作曲家。

 

 

 

1756年1月27日、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトこと、ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルトは、ザルツブルクに生まれる。父は元々哲学や歴史を修めるために大学に行ったが途中から音楽家に転じたという経歴を持つザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト、母はアンナ・マリーア・ペルトル。7番目の末っ子で、他の5人は幼児期に死亡し、唯一、5歳上の姉マリーア・アンナ(愛称ナンネル)だけが残った。この幼児の低い生存率は当時では普通であったという。

父は息子に天賦の才があることを早くから見抜き、幼少時から音楽教育を与える。

3歳の時からチェンバロを弾き始める。

 


1761年、5歳の時、最初の作曲を行う(アンダンテ ハ長調 K.1a)。

 

なお、モーツァルトの作品を識別する際には、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録「ケッヘル番号」(K.+数字)が使われる。本曲における「K.1a」がそれである。

 


1762年10月13日、シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した。この際、6歳のモーツァルトは宮殿の床で滑って転んでしまったが、その時に手を差し伸べた7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)に向かって、「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる」と言ったという逸話がある。

 

 

7歳の時、フランクフルトで演奏した際に作家のゲーテがたまたまそれを聴き、そのレベルは「絵画でのラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶ」と思ったと後に回想している。

 


1763~1766年、7-10歳の時、パリ・ロンドン旅行。
 

 

1767~1769年、11-13歳の時、第2回ウィーン旅行。

オペラ『みてくれの馬鹿娘』K.51上演。
 

 

1769~1771年、13-15歳の時、第1回イタリア旅行、父とともにミラノ、ボローニャ、ローマを巡回する。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリ(Gregorio Allegri)の9声部の『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれる。ナポリでは数十日に及ぶ滞在を楽しみ、当時大変な話題の発掘されてからまもない古代ローマ遺跡ポンペイを訪れている。3度に及ぶイタリア旅行の中でも、ボローニャでは作曲者であり教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学んだ。教育の成果はすぐに現れなかったが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていた。モーツァルトはほとんどの音楽教育を外国または旅行中に受けた。

 


1770年、14歳の時、黄金拍車勲章授与。

同年、ボローニャのアカデミア・フィラルモニカの会員に選出される。

12月26日 オペラ『ポントの王ミトリダーテ』K.87初演。

 


1771年、15歳の時、第2回イタリア旅行。

セレナード『アルバのアスカニオ』K.111ミラノ上演。

 


1772~1773年、16-17歳の時、第3回イタリア旅行。

ミラノでオペラ『ルーチョ・シッラ』K.135上演。

 


1773年、17歳の時、第3回ウィーン旅行。

 


1774~1775年、18-19歳の時、第4回ウィーン旅行。

オペラ『偽の女庭師』K.196上演。

 

 

1776年、『セレナーデ第6番 ニ長調 K.239』を作曲。管楽器を省いた小規模な編成で構成され、また『セレナータ・ノットゥルナ』(Serenata notturna)の通称(イタリア語で「夜のセレナーデ」の意)で知られる。

 


1777年、21歳でザルツブルクでの職を辞し、ミュンヘン、次いでマンハイムへ移る。マンハイムでは、正確な演奏、優雅な音色、クレシェンドで有名だったマンハイム楽派の影響を受ける。

10月、パリに行く途中にアウクスブルクに立ち寄り、彼がベーズレと呼んでいた従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会。マリアは父・レオポルトの弟の娘で、この時2人は互いに惹かれあい、モーツァルトは初めて肉体関係を持った。

モーツァルトはマリアに未練を残しつつも、マンハイムの音楽家フリドリン・ウェーバーの娘、アロイジア・ヴェーバーに恋し、結婚の計画を立てるが、父の猛烈な反対を受ける。

 


1778年2月、22歳でパリ行きを命じられ、3~9月パリに滞在。

7月3日、同行した母はパリで死去する。

同年、『きらきら星変奏曲』(独: 12 Variationen über ein französisches Lied "Ah, vous dirai-je, maman" )ハ長調 K. 265を作曲。原題を直訳すると、「フランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲」となる。モーツァルトが18世紀末のフランスで流行したシャンソン"Ah! Vous dirais-je, Maman"(あのね、お母さん)の主題を基に作曲した変奏曲。

 


1779年、23歳の時、ザルツブルクに帰郷。ザルツブルク宮廷にオルガニストとして復帰。

 


1780年、24歳でオペラ『イドメネオ』K.366準備のためにミュンヘンに赴く。

マリア・テレジア崩御。

 


1781年、25歳の時、ザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命により、ミュンヘンからウィーンへ移る。

5月9日、コロレドと衝突し解雇されるも、そのままウィーンに定住を決意する。以降、フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てる。

 


1782年7月、オペラ『後宮からの誘拐』K.384を作曲、ウィーンで初演を迎える。

 

8月3日、父の反対を押し切り、コンスタンツェ・ヴェーバーと結婚。

 

 

1783年、27歳で再びザルツブルクに帰郷。

大ミサ曲ハ短調 K.427を上演。

 

6月、長男誕生するもザルツブルク旅行中に死亡。
この頃、ウィーンもしくはザルツブルクで『ピアノソナタ第11番(トルコ行進曲付き)』を作曲したといわれる(パリで1778年説もある)。第3楽章が有名な「トルコ行進曲」であるため、「トルコ行進曲付き」と呼ばれることが多い。

 

 

 

1784年、28歳の年に、第2子カール・トーマス・モーツァルト誕生。
フリーメイソンリーの慈善ロッジ(ウィーン)に入会(書類上では12月5日)。

 


1785年、29歳で弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈(「ハイドン・セット」)。

 

同年、『ピアノ協奏曲第21番 ハ長調』 K. 467を作曲。モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも人気が高い作品の一つであり、第2楽章が1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』に使われたため、この映画の原題となった主人公の女性綱渡り師の名をとって、近年は『エルヴィラ・マディガン』の愛称で呼ばれることがある。

 

 

1786年5月1日、30歳の時、オペラ『フィガロの結婚』K.492を初演し、当初ウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、翌年に当時オーストリア領だったボヘミア(現:チェコ)の首都プラハで大ヒットした。これがプラハ訪問につながる。

 

 

同年、ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K. 488 を作曲、古典派のピアノ協奏曲の最高峰に位置する作品の一つ。

 

 

 

1787年5月28日、31歳の時、父・レオポルトが死去。

8月10日、ウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(Eine kleine Nachtmusik)K. 525の作曲を完了。モーツァルトの中でもよく知られた作品の一つで、表題は「小さな夜の曲」の意。

 

 

同年、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni)K.527を初演。原題は「罰せられた放蕩者またはドン・ジョヴァンニ」の意。

 

 

1788年、32歳で所謂「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲する。第41番はローマ神話の最高神ユーピテルにちなんで『ジュピター』(ドイツ語ではユーピター)のニックネームを持つ。なお、第40番を除いてモーツアルトが自分で演奏を聴くことはなかったと見られる。

 

 

 

 

この頃、フリーメイソン仲間のヨハン・プフベルクからの借金が増えてくる。

 


1789年、33歳でベルリン旅行。

 


1790年、34歳の時、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(伊:Così fan tutte)K.588が初演。正式なタイトルはCosì fan tutte, ossia La scuola degli amanti(「女はみなこうしたもの」、または「恋人たちの学校」)。

 

 

1791年、35歳の時、オペラ『皇帝ティートの慈悲』K.621初演。

9月28日、オペラ『魔笛』K.620が完成、9月31日に初演を迎える。

 

9月のプラハ上演の時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。

11月から体調が悪化。

11月20日、レクイエム K.626に取り組んでいる最中から病床に伏す。

 

12月5日0時55分、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、ウィーンで死去した。35歳没。

死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

 

症状としては全身の浮腫と高熱であったという。ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。実際の死因は「リューマチ性炎症熱」であったと考えられている。

一方、モーツァルトは1791年7月、自分がアクア・トファーナ(亜砒酸が主要成分の水溶液で、当時の美顔、美白薬だが毒としても有名だった)で毒殺されかけていると考え、それを妻に伝えている。実際、妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポーク・カツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言う。当時は遺体のむくみが毒殺の証拠だと考えられており、モーツァルトの遺体がひどくむくんでいたのもそのためだと言われた。また、死後ウィーンの新聞が「毒殺されたのではないか」と報じた。さらに1820年頃になると、ウィーンでは「ロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中でサリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行し、サリエリに対して疑惑の目が向けられた。

 

 

モーツァルトの作品は、声楽曲、器楽曲はじめあらゆるジャンルにわたり、作品総数は断片も含め900曲以上に及ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」「Wolfgang Amadeus Mozart」