内田 勘太郎(うちだ かんたろう/本名:内田 昌宏[うちだ まさひろ]/1954年1月22日~)は、

日本のギタリスト。ブルーズバンド「憂歌団」のリードギタリストとして知られる。

 

 

 

1954年1月22日、内田昌宏は大阪府で生まれる。家業は鉄工所。大阪府大阪市出身。

 

1970年、大阪市立工芸高等学校の同級生だった木村 充揮(きむら あつき/本名:木村秀勝/1954年3月24日~/Vo,G)と内田(G,Vo)の二人で「憂歌団」を結成。初ステージは高校の文化祭だった。バンド名は「blues band」(ブルーズ・バンド)の邦訳で、内田が考えた。同高校には後にバンドに加わる島田も在籍していた。

高校卒業後、大阪・阿倍野の喫茶店で定期的にライヴを行う。


1974年、ベースに花岡献治(本名:花岡憲二/1953年7月27日~)、ドラムに内田や木村と同じ高校の同級生の島田和夫(1954年3月19日~2012年10月2日)が加入。不動の4人がそろう。

1975年10月1日、シングル“おそうじオバチャン”(作詞:木村秀勝/作曲:憂歌団)c/w“ひとり暮し”(作詞・曲:尾関真)でトリオレコードのショーボート(SHOW BOAT)レーベルからデビュー。

 

A面曲は彼らの代表曲として知られているが、一週間後に「掃除婦に対して差別的な歌である」との理由により、放送禁止処分を受けた。

 

11月1日、1stアルバム『憂歌団』を発売。“おそうじオバチャン”の他、“嫌んなった”作詞:沖てる夫,作曲:憂歌団、“シカゴ・バウンド”(作詞・曲:尾関真)等を収録。

 

 

 

 

1976年3月、シングル“たくわん”(作詞:沖てる夫/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団)c/w“どてらい女”(作詞:沖てる夫/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団)を発売。

 

7月、2ndアルバム『セカンド・ハンド』を発売。“マディ・ジャンプス・ワン”(作曲:Morgan McKinley/編曲:憂歌団)、“俺の村では俺も人気者”(作詞・曲:尾関真/編曲:憂歌団)等の他、“おそうじオバチャン”が放送禁止になったことに対してバンドが作ったアンサーソング“お政治オバチャン”(作詞:沖てる夫/作曲:憂歌団)を収録。

 

 

 

9月、シングル“パチンコ”(作詞・曲:木村秀勝)c/w“10$の恋”(作詞:沖てる夫/作曲:内田勘太郎)を発売。“パチンコ”はバンドの代表曲となる。

 

12月、スリーピー・ジョン・エスティスの来日公演の前座とバック・バンドを務める。このときの模様は『Blues Is A Live』と題されたライヴ盤となっている。

 

 

1977年3月、初のライヴアルバム『生聞59分』を発売。

 

 

1978年3月、シングル“夜明けのララバイ”(作詞:KURO/作曲:西岡恭蔵)c/w“四面楚歌”(作詞・曲:花岡憲二)を発売。

 

同年、アルバムアルバム『四面楚歌』を発売。

11月、カヴァーアルバム『Blues 1973-1975』を発売。

 


1979年3月、シングル“カントリー・ガール”(作詞:沖てる夫/作曲:内田勘太郎)c/w“嫌んなった”(作詞:沖てる夫/作曲:憂歌団)を発売。

 

6月、アルバム『ローリング・ステディ』を発売。


1980年5月、マディ・ウォーターズと東京、大阪でジョイントする。


1981年8月、アルバム『夢・憂歌』を発売。

同月、シングル“夢”(作詞:花岡献治・塔大介/作曲:花岡献治)c/w“Whoo Baby”(作詞・曲:内田勘太郎)を発売。

 


1982年2月28日、NHK-FM特番『Blues Made In Japan』でRCサクセションとジョイントする。

5月、日比谷野音にて仲井戸麗市をゲストにコンサートを行う。



1983年、フォーライフレコードへ移籍。

9月21日、移籍第一弾アルバム『リラックス・デラックス』をリリース。

シングル“オナカ・イ・タ・イ”(作詞:吉田聖子/作曲:憂歌団/編曲:憂歌団・伊藤銀次)c/w“恥ずかしい”(作詞:吉田聖子/作・編曲:憂歌団・伊藤銀次)を同時発売。

 


1984年7月21日、アルバム『気分』と、シングル“ザ・エン歌”(作詞・曲:木村 秀勝)c/w“夜明けまで”(作詞:KURO/作曲:西岡恭蔵)を発売。

 

 

1985年10月21日、アルバム『UKA』と、シングル“スッポンポン”(作詞:木村充輝/作曲:木村充輝 ・花岡献治)c/w“オモロイナ”(作詞・曲:木村秀勝/編曲:憂歌団)を同時発売。

 

 


1986年7月、日比谷野外音楽堂で開催された第1回「ジャパン・ブルース・カーニバル」に出演。以後、活動停止まで、同カーニバルには毎年出演を続けた。

11月21日、シングル“You are my Angel”(作詞・曲:古田喜昭)c/w“夢の印度”(作詞:馬場英輔/作曲:花岡憲二)を発売。

 

 

1987年、阪神電気鉄道CM[ソング“ぼくの町の阪神電車”を歌唱。


1988年5月21日、シングル“大阪ビッグ・リバー・ブルース”(作詞:康珍化/作曲:羽場仁志/編曲:憂歌団・難波正司)c/w“オンリー・ロンリー・ジャマイカ”(作詞:康珍化/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団・難波正司)を発売。

 

 

6月、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴの「シカゴ・ブルーズ・フェスティバル」に日本人として初めて出演。

10月21日、シングル“かぞえきれない雨”(作詞:康珍化/作曲:羽場仁志/編曲:憂歌団・難波正司)c/w“ちっちゃなダイヤモンド”(作詞:康珍化/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団・難波正司)を発売。同時発売で、康珍化をプロデューサーに迎えたアルバム『BLUE'S』が結成以来のビッグヒットとなる。

 

 

 

 

1989年9月21日、シングル“胸が痛い”(作詞:康珍化/作曲:羽田一郎)c/w“想い出の街”(作詞:仲畑貴志/作曲:鈴木キサブロー/編曲:憂歌団・難波正司)を発売。なお、表題曲は“胸が痛い('91 New Version)”c/w“わたしの星”(作詞:神沢礼江/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団・難波正司)として1991年9月21日に、同じく“胸が痛い('91 New Version)”c/w“Good time's rollin',bad time's rollin'”(作詞:康珍化/作曲:内田勘太郎/編曲:憂歌団・難波正司)として1992年8月21日に、それぞれ発売された。

 


1990年、それまでの所属会社であるユニオンシャッフル(奥村ひでまろ社長)解散に伴い、メンバーが独立し株式会社憂歌団オフィスを設立。マネージャーには博多出身の中村鉄平が取締役副社長として就任。株主にはK2の黒田征太郎氏と長友啓典氏の両氏にした依頼した。ジャンケンにより花岡が初代社長に就任したことは有名。

木村が「木村充揮」へ改名、続いて花岡も「花岡献治」へ改名した。
7月25日、シングル“わかれのうた”(作詞:康珍化/作曲:羽田一郎/編曲:憂歌団・難波正司)c/w“キスに願いを”(作詞:康珍化/作曲:花岡献治/編曲:憂歌団・難波正司)を発売。表題曲は『神谷玄次郎捕物控』主題歌。


1993年、ロート製薬「パンシロンNOW」CMソングを担当。

同年、フォーライフを離れ、ワーナーミュージックへ移籍。

7月25日、シングル“純愛だけど朝帰り”(作詞:阿久悠/作曲:花岡献治)c/w“TEARS IN HEAVEN”(作詞:ERIC CLAPTON・WILL JENNINGS/作曲:ERIC CLAPTON・WILL JENNINGS)を発売。

 

 

9月25日、アルバム『GON-TA』をリリースする。CDのジャケットはK2の黒田征太郎と長友啓典に依頼した。

10月25日、シングル“WOO CHILD”(作詞:トシ・スミカワ/作曲:増田俊郎)を発売、映画『月はどっちに出ている』EDテーマ。カップリングはライヴの定番でもある加山雄三のヒット曲のカヴァー“君といつまでも”(作詞:岩谷時子/作曲:弾厚作/編曲:憂歌団・難波正司)。

 

 


1994年9月25日、シングル“ファンキー・モンキー・ベイビー”(作詞:大倉洋一/作曲:矢沢永吉)c/w“あれからゾンビ”(作詞:いとうせいこう/作曲:憂歌団.)。同時発売で、日本語詞カヴァーアルバム『知ってるかい!?』を発売。


10月、TBS系報道番組『筑紫哲也 NEWS23』エンディングテーマに“風を追いかけて~CHASIN' THE WIND~”が起用され、同年12月まで放送された。

11月30日、シングル“風を追いかけて~CHASIN' THE WIND~”(作詞:高杉碧/作曲:増田俊郎)c/w“夜空に陽がさしても”(作詞:高杉碧/作曲:増田俊郎)を発売、前述の通り表題曲は『筑紫哲也 NEWS23』EDテーマ、“夜空に陽がさしてもは『サンデースポーツセンセーション』EDテーマ。

 

12月21日、シングル“HAPPY GO LUCKEY”(作詞:多木比佐夫/作曲:木村充揮)を発売、大遊協イメージソング。カップリングは“パチンコ~ランラン・ブルース、ゲーム・イズ・オーヴァー”(作詞・曲:木村秀勝)。



1995年1月17日、阪神淡路大震災発生。上田正樹&憂歌団プロデュース「神戸三宮ライブハウス:チキンジョージ」恒例のライヴ「新春歌絵巻」は5月に延期となった。チキンジョージ、憂歌団のスタッフで復興、復興半ばの三ノ宮にブルーシートで急造のステージを作り神戸の、神戸の復興を願った青空ライヴを開催した。この模様は『筑紫哲也 NEWS23』の特集番組としてドキュメント収録を行い、全国に放送された。

10月25日、アルバム『ブルース・バウンド』を発売。シングル“フワ・フワ~もう一杯おネエチャン”(作詞:荒木とよひさ/作曲:内田勘太郎)c/w“みんな急げ”(作詞:荒木とよひさ/作曲:花岡献治)を同時発売。

 


1996年1月7日、この日放送が開始された水木しげる原作のテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』第4シリーズにおいて、OPテーマ曲“ゲゲゲの鬼太郎”(作詞:水木しげる/作曲:いずみたく/編曲:憂歌団)と、EDテーマ曲“カランコロンのうた”(第1話 - 第76話/作詞:水木しげる/作曲:いずみたく/編曲:憂歌団)と“イヤンなっちゃう節”(第77話 - 第114話/作詞:森雪之丞/作曲:岡本朗/編曲:憂歌団・HAKABAS)を担当(1998年3月29日まで)。同シリーズ第33話では、妖怪さら小僧の歌“ぺったらぺたらこ”を盗用してヒットしたバンドという役で、実名で特別出演した。なお、“ぺったらぺたらこ”(作詞:内田勘太郎/作曲:木村充揮・花岡献治)は後に後期EDテーマ“イヤンなっちゃう節”のシングルのカップリング曲として実際に発売された。

 

 

 

 


1998年、バンドの冬眠を宣言し、同年12月に名古屋、大阪、東京で最後のコンサートを行った。


2012年10月2日、島田が神戸市中央区の自宅マンションの階段付近で遺体となって発見され、その後自死と断定された。


2013年5月、憂歌団の再結成を発表。
8月3日、憂歌団として『情熱大陸 SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA'13』大阪公演に出演。

8月10日、同東京公演に出演。
9月7・8日、なんばHatchにて復活ライヴ『憂歌団からの便り。〜島田和夫祭り〜』を開催。オリジナルメンバー3人とゲストドラマー4人による「ドラマーズ」(新井田耕造〈ex.RCサクセション〉・梶原徹也〈ex.THE BLUE HEARTS〉・小林雅之〈JUN SKY WALKER(S)〉・杉山章二丸〈MOJO CLUB〉)という編成だった。
12月1日、先の「ドラマーズ」参加者の中から新井田耕造(1953年3月25日~)が新たなドラマーとして加入。

 

 

2014年3月12日、木村と内田の二人が、「憂歌兄弟」として、アルバム『憂歌兄弟』をSPACE SHOWER MUSICからリリース。内田が居を構える沖縄にて、すべて一発録音で制作した。

 

2014年5月21日、 6thソロアルバム『DES'E MY BLUES』TOWER RECORDSからリリース。「DES'E MY BLUES≒これが俺のブルースだ」と本人自ら断言する純度100%のブルーズ・アルバム。

 

 

2016年10月18日、初のエッセイ集『内田勘太郎 ブルース漂流記』を刊行。幼少からデビューまでをブログで綴ってきた『ギター事始め』を加筆編集。さらに『アコースティック・ギター・マガジン』で連載中の『廻国ギター旅』、影響を受けたブルーズマン、各方面のミュージシャンからのコメント、即役立つブルーズのターンアラウンド直伝譜面、愛用のチャキP-1や旅の道具も大公開。憂歌団解散、再始動、沖縄、現在の活動(2016年時点)についても語り尽くしたもりだくさんの1冊。
“10$の恋”のセルフカヴァーを含む、未発表曲2曲を付録CDに収録。

11月23日、7thソロアルバム『DEEP BOTTLE NECK GUITAR』を極東楽音からリリース。原点であるデルタブルーズに回帰し、ボトルネックに焦点を絞った全曲スライド・ギター・インスト・アルバム。

 

 

 

2019年6月26日、甲本ヒロト(Vo,Herp)との新ユニット「ブギ連」のファーストアルバム『ブギ連』をアリオラジャパンからリリース、日本語のストレート・ブルーズ・アルバム。

 

 

10月9日、 8thソロアルバム『Tohgen Kyo』を極東楽音リリース。究極のギターサウンドで情感たっぷりに奏でられた名曲集。

 

 

 

 

2020年7月末、YouTubeチャンネル【内田勘太郎】にて『内田勘太郎 本日のギタープレイ』スタート♪ 動画投稿継続中!

8月26日、奇妙礼太郎と連名によるアルバム『アイコトバハ』をリリース、ジャケットのイラストは黒田征太郎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(関連記事)

 

 

(参照)

Wikipedia「内田勘太郎」「憂歌団」

 

 

 

 

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