エディ・ヴェダー(Eddie Vedder/出生名:Edward Louis Severson III/1964年12月23日~)は、

アメリカ合衆国のミュージシャン。ロック・バンド「パール・ジャム」のヴォーカル。

 

 

 

1964年12月23日、エディ・ヴェダーは、イリノイ州シカゴの北部に位置する郊外の町エバンストン(Evanston)で、カレン・リー・ヴェダーとエドワード・ルイス・セバーソン・ジュニアの夫婦の間に、エドワード・ルイス・セバーソンIII世として生まれた。

 

1965年、両親が離婚。まもなく母親はミューラーという名の弁護士と再婚したため、ヴェダーの名はエドワード・ミューラーとなり、ミューラーのことを実父だと思い育った。

ミューラー家がエバンストンに住んでいる間は、7人の子どもたちを養育していた。

 

1970年代中頃、ヴェダーと3人の弟を含めた家族はカリフォルニア州サンディエゴ郡へ転居。

12歳の誕生日、母からギターをプレゼントされたことで、サーフィンの他に音楽にも興味を持つようになった。この頃ヴェダーが特に慰められたものは、1973年のザ・フーのアルバム『四重人格』だったという。

 

10代後半頃、母とミューラーが離婚、母と兄弟はシカゴ方面へ帰ったが、ヴェダーは通っていた高校を転校する必要がないよう、継父とカリフォルニアに残った。両親の離婚後、ヴェダーは叔父からミューラーが継父であることを初めて教えられた。ヴェダーは子どもの頃、実父セバーソンと会ったことはあるが、彼のことを単なる両親の友人だと思っていた。ヴェダーが真実を知った頃には、セバーソンは多発性硬化症で亡くなっていた。

 

ヴェダーは高校の最終学年まではアパートで一人暮らしをしていて、エンシニータスのドラッグストアで働いていた。結局、学校と仕事の両立ができず、最終学年で高校を中退、そしてシカゴにいる家族の元に戻り、エディ・ヴェダーに名前を変えた。ヴェダーは母親の旧姓である。

 

1980年代前半、ヴェダーはウェイターとして働きながらGED(General Educational Development/日本の大検のようなもの)を得て、シカゴ近郊の短大へ通った。

 

1984年、ヴェダーはガールフレンドのベス・リーブリングとともにカリフォルニア州サンディエゴ郡へ戻った。そして、ホテルの警備員など様々な仕事をしながらデモテープを作成する忙しい日々を送る。ヴェダーはサーフやデストロイ、ザ・バッツなどサンディエゴの複数のバンドに参加していた。それらのバンドの1つ「インディアン・スタイル」には、後に「レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン」や「オーディオスレイヴ」のドラマーとなるブラッド・ウィルクが所属していた。

 

1988年、ヴェダーはサンディエゴのプログレッシブ・ファンクロックバンド「バッド・レイディオ」にヴォーカルとして参加。バンドは最初デュラン・デュランに影響を受けた音楽だったが、ヴェダー加入後はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのようなオルタナティヴ・ロックの音に変わっていった。

 

1990年、バッド・レイディオから脱退したヴェダーはバンドに属さず、ガソリンスタンドで働いていた。そしてレッド・ホット・チリ・ペッパーズのドラマー、ジャック・アイアンズと知り合って仲良くなり、バスケットボール仲間となった。

同年後半、アイアンズは、ヴォーカルを探しているシアトルのバンドのデモテープをヴェダーに渡した。ヴェダーはテープを聴き、後に「Momma-Son」と呼ばれる 3部作の詞を書いた。それは青年の物語で、父親だと思っていた人は父親ではなく、実の父はすでに死んでいて、連続殺人犯になり、収監されて結局死刑を宣告される内容である。ヴェダーは3曲のヴォーカルを録音し、シアトルにデモテープを送った。この3曲は後にパール・ジャムで演奏され、“Alive”、 “Once”、 “Footsteps”として世に出ることになる。

ヴェダーのテープを聴いた「マザー・ラヴ・ボーン」のストーン・ゴッサードとジェフ・アメンは、自分たちの新バンドのオーディションを受けにシアトルへ来るようるようヴェダーを誘った。そして、その独創的な音楽にすぐに感動し、ヴェダーの加入が決定。同時期に新ドラマーも加入したバンドは、当時NBAのニュージャージー・ネッツで活躍していたバスケットボール選手の名前をそのまま付けて「ムーキー・ブレイロック」とした。

同年秋、エピック・レコーズと契約を締結するに当り、バンド名について法的な問題に直面し、新たな名前 「パール・ジャム」(Pearl Jam) に変更した。

 

その頃、ゴッサードとアメンが参加していたプロジェクト「テンプル・オブ・ザ・ドッグ」にヴェダーも参加。これは、若干24歳でヘロイン中毒で死んだマザー・ラヴ・ボーンのフロントマンのアンドリュー・ウッド追悼のため、サウンドガーデンのクリス・コーネルが結成したプロジェクトで、サウンドガーデンのドラマーのマット・キャメロンと新人のマイク・マクレディも参加していた。 “Hunger Strike”という曲で、コーネルとヴェダーがデュエットした。コーネルはヴェダーに合わせて歌うのに苦労したという。ヴェダーは他の曲でも同様にバック・ヴォーカルを歌っている。1991年4月、A&Mレコードからアルバム『Temple of the Dog』を発表した。

 

 

1991年3月、バンドはシアトルのロンドン・ブリッジ・スタジオでデビュー・アルバム用レコーディング・セッションに入った。顔ぶれは、エディ・ヴェダー(Vo)、ストーン・ゴッサード(Stone Gossard/1966年7月20日~/G)、マイク・マクレディ(Mike McCready/1965年4月5日~/G)、ジェフ・アメン(Jeff Ament/1963年3月10日~/B)、デイヴ・クルーセン(Dave Krusen/ 1966年3月10日~/Ds)。

5月、レコーディング終了後クルーセンが脱退、テキサスの無名ファンクバンドで活動していたデイヴ・アブラジーズを後任ドラマーとして迎え入れることになった。

7月7日、シングル“Alive”でデビュー。米誌『ビルボード』の「メインストリーム・ロック」チャート(以下「メイン」)16位、イギリス(全英)で16位に入った。

 

8月27日、デビュー・アルバム『Ten』を発売。セールス初動はスロー・ペースだったが、1992年中頃にはブレークし始め、ビルボードのチャートでも2位を記録。その後2年間近く『ビルボード』誌にチャート・インし続けた本作は、当時最も売れたロック・レコードとして記録され、13x プラチナ・アルバムとしてRIAAから認定される結果となった。アルバムからのシングルカットは、メイン3位・全英27位になった“Even Flow”、「Billboad Hot 100」(以下「全米」)79位・メイン5位・全英15位になった“Jeremy”などがヒットした。

 

 

 

 

 


1992年には、テレビ番組への出演が増え、夏のロラパルーザツアーでは、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、サウンドガーデン、ミニストリーなどと競演。そしてマット・ディロン主演の映画『シングルズ』のサウンドトラック・アルバム用に“State of Love and Trust”と“Breath”の2曲を提供し、自らもカメオ出演するなど、徐々に活動の幅を拡げていった。

 

 

1993年、プロデューサーにブレンダン・オブライエン (Brendan O'Brien)を迎え、再びスタジオ入りしてニュー・アルバムのレコーディング・セッションを始める。

10月19日、2ndアルバム『Vs.』を発売、全米チャート初登場1位を獲得、その後5週間に渡り首位をキープした。本作はアメリカ国内で発売後1週間に95万枚を売り上げるが、この記録は2000年にリンプ・ビズキットに破られるまでは『ビルボード』誌における歴代最高の数字だった。アルバムからのリカットは、"Black"と"Go"がメイン3位、"Daughter"が全米97位・メイン1・オルタナティブロック(以下「オルタナ」)1位・全英18位、"Dissident" がメイン3位・全英14位を記録した。

 

 

 

 

 

 

1994年、新しいアルバムの制作途中でアブラジーズが脱退、ヴェダーのパールジャム加入のきっかけを作ったジャック・アイアンズが後任ドラマーとして加入した。

12月22日、3rdアルバム『バイタロジー (生命学)』(Vitalogy)をリリース。アメリカでのイニシャル・プレス枚数が350万枚で当時の史上最高を記録し、全米チャートでは初登場1位を獲得、発売後1週間の売り上げ枚数は87万7000枚に達し、前作『Vs.』に続き当時歴代2位の売り上げ枚数を記録した。アナログ・レコード盤がCDに先駆けて限定5万枚プレスされ、全米アルバム・チャートで異例の55位を記録する快挙も達成している。デビュー作『Ten』から『Vs.』、そして本作『Vitalogy』の初期3作品がグランジ・ロックを代表するアルバムといわれる。

アルバムからの最大のヒットは"Spin the Black Circle"が全米18位・メイン16位・全英10位を記録した。他には"Not for You"がメイン12位・全英34位、"Better Man"がメイン1位に達した。

 

 

 

 

 

1995年12月4日、EP『Merkin Ball』をリリース、ここからニール・ヤングとの共作“I Got Id”が全米7位・メイン2位・全英25位を記録した。

 

 

1996年、『Vitalogy』収録曲“Spin the Black Circle”がグラミーで「ベスト・ハード・ロック・パフォーマンス賞」を受賞した。

8月27日 、4thアルバム『ノー・コード』 (No Code)を発売、全米1位、RIAAプラチナ獲得、カナダでは2x マルチ・プラチナを獲得している。本アルバムもブレンダン・オブライエンがプロデューサーとして参加した。"Who You Are"をリカットし、全米31位・メイン5位・オルタナ1位・全英18位を記録した。

 

 

 

1998年、アイアンズが持病の悪化により、新アルバム制作を区切りに脱退。後任には解散したサウンド・ガーデンからマット・キャメロン(Matt Cameron/1962年11月28日~/Ds)が加入した。

2月3日、5thアルバム『イールド』(Yield)を発売、ジェームズ・ホーナー『タイタニック:ミュージック・フロム・ザ・モーション・ピクチャー』に阻まれ全米2位止まりだったがRIAAプラチナを獲得、カナダでは、2x マルチ・プラチナを獲得した。アルバムからは、"Given to Fly"が全米21位・メイン1位・オルタナ3位・全英12位、"Wishlist"が全米47位・メイン6位・オルタナ6位・全英30位になった。

 

 

 

11月24日、ライフアルバム『Live on Two Legs』を発売、全米15位。    

12月31日、ファンクラブ向けのクリスマス・ソングとして、J・フランク・ウィルソンのカヴァー曲“Last Kiss”をリリースすると、翌年に全米2位と異例のスマッシュ・ヒットを記録した。

 

 

2000年5月16日、6thアルバム『バイノーラル』(Binaural)を発売、バイノーラル録音(人間の頭部や、その音響効果を再現するダミー・ヘッドやシミュレータなどを利用して、鼓膜に届く状態で音を記録することで、ステレオ・ヘッドフォンやステレオ・イヤフォン等で聴取すると、あたかもその場に居合わせたかのような臨場感を再現できる、という録音方式)に挑んだ本作は、全米2位、RIAAゴールド獲得、カナダでもゴールドディスクを獲得した。本アルバム発売後に行われた2,000箇所にも及ぶツアーから『 Pearl Jam Official Bootlegs 』が作られ、海賊盤対策にバンド自ら乗り出した時期でもある。このアルバムではプロデューサーが チャド・ブレイク (Tchad Blake) に変わり、ブレンダン・オブライエンはミキシングのみ担当している。シングルは、"Nothing as It Seems"が全米49位・メイン3位・オルタナ10位・全英22位、"Light Years"がメイン17位・オルタナ26位・全英52に達した。

 

 

 

 

2002年11月12日、7thアルバム『ライオット・アクト』(Riot Act)を発売、全米5位、RIAAゴールド獲得、カナダでゴールドを獲得した。プロデューサーはAdam Kasperが務め、ブレンダン・オブライエンはミキシングのみ担当している。アルバムからのシングルは、"I Am Mine"がリカットされ、全米43位・メイン7位・オルタナ6位・全英26位になった。

 

 

2006年5月2日、8thアルバムにして初のセルフタイトルとなった『パール・ジャム』(Pearl Jam)を発売、全米2位、RIAAゴールド獲得、カナダではプラチナを獲得した。本作のプロデューサーは前作と同じAdam Kasperが務めており、ミキシングも担当。"World Wide Suicide"が全米41位・メイン2位・オルタナ1位、"Life Wasted"がメイン13位・オルタナ10位・全英110位を記録した。

 

 

 

 

2007年、ヴェダーは映画『イントゥ・ザ・ワイルド』(Into the Wild) のサウンドトラックを制作。
9月18日、サントラ・アルバム『イントゥ・ザ・ワイルド』(Into the Wild)を発売。アルバムには、インディオのカヴァー“Hard Sun”やジェリー・ヘナンのカヴァー “Society”も収録。この映画のために書いたヴェダーの曲は、フォーク・サウンドを特徴としており、『オールミュージック』のトム・ユーレクは、このサウンドトラックのことを「ルーツであるロックンロールがたまに姿をあらわすフォークソング群」と評した。ヴェダーは2008年のゴールデングローブ賞を『イントゥ・ザ・ワイルド』収録曲“Guaranteed”で獲得。映画の作曲賞でもヴェダーはゴールデングローブ賞にノミネートされた。また、“Guaranteed”は2008年グラミー賞で最優秀映画・テレビ他映像作品楽曲賞と、2008年のワールド・サウンドトラック・アワードで最優秀主題歌賞にノミネートされた。2009年のグラミー賞では、“Rise”が最優秀ロック・ボーカル・パフォーマンス賞ソロ部門にノミネートされた。

 

 

 

2009年9月20日、9thアルバム『バックスペイサー』(Backspacer)を発売、全米とカナダで1位を獲得した。プロデューサーは『イールド』以来約10年ぶりにブレンダン・オブライエンが務め、ミキシングも担当。本作よりバンド自身のレーベル「Monkeywrench」からリリースされ、本国アメリカ以外ではUniversal Music Groupを通じて配給された。"The Fixer"が全米56位・メイン10位・オルタナ3位・全英93位、"Just Breathe / Got Some"が全米78位・メイン36位・オルタナ6位になった。

 

 

 

 

同年、『Ten』の再発に伴い、"Brother"がメイン5位・オルタナ1位を記録した。

 

 

2013年10月15日、10thアルバム『ライトニング・ボルト』(Lightning Bolt)を発売、全米1位、イギリスでは自己タイの2位に達した。"Mind Your Manners"がメイン2位・オルタナ12位、"Sirens"が全米76位・メイン5位・オルタナ4位、タイトルトラック"Lightning Bolt"がメイン6位になった。

 

 

 

 

 

 

2020年3月27日、11thアルバム『ギガトン』(Gigaton)を発売、全米5位・カナダ5位・全英6位を記録した。"Dance of the Clairvoyants"がメイン17位・オルタナ15位、"Superblood Wolfmoon"がメイン4位に達した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「エディ・ヴェダー」「Eddie Vedder」 「パール・ジャム」「Pearl Jam」