原田 真二(はらだ しんじ/1958年12月5日~)は、

日本のシンガーソングライター。

 

 

 

1958年12月5日、広島市で出生。同市榎町(現:中区榎町)出身。デビュー当時は、誕生日が1959年1月2日と表記されていたが、これは両親が出生届けを1月2日まで遅らせたためで、出生日は12月5日だった。本稿では、これに準じる。原田の家系は海外移民(アメリカのシアトル)した者が多く、その一部が広島に戻り生まれたのが真二である。

 

安田女子大学附属幼稚園に入園・卒園。

国語の教師だった母の影響で幼少期から大変読書好きな子どもであった。また、分からないなりに船の設計図を作成したり、機械いじりも得意で、幼稚園時のニックネームは「博士」。この頃、将来は設計技師になろうと思っていたという。

 

広島市立本川小学校に入学・卒業。

母が会長を務める「よい本をすすめる母の会」主催のクリスマス発表会、創作童話劇『いなばの白うさぎ』でナレーターを担当。脚本・演出が父、主演は兄。この童話劇は広島テレビで放送され、その活発で愛くるしいキャラがプロデューサーの目に止まり、小学二年の時『テレビ子供ホール』という番組の司会に抜擢され半年間務める。

同じ頃、少年少女合唱隊にも所属。

小学校三年の秋、ペルテスという難病に罹る。入院・自宅静養後、小学校六年で完治するまで、コルセットをはめ母親の運転する自転車の荷台で登校する日々を送る。その間、読書や天体観測に夢中になり、『地球は青かった』等の書物を読みあさり、宇宙飛行士になることを夢見るようになる。NASAに入るための道筋を順序立てて考えていた。

しかし、小学校上学年の時、テレビでザ・モンキーズの音楽ショーを見て音楽に興味を持つようになり、12歳からギターの練習を始める。六年生の時、アマチュア無線技士の免許を取得。

 

広島市立大手町中学校に入学・卒業。

中学1年で、入学早々生徒会の副会長に立候補し当選する。部活は森田健作の青春ドラマ『おれは男だ!』に憧れ剣道部に入部。初段をとり、対抗試合にも出場。

時代はフォークブームのおり、中2の時フォーク・グループを結成。演奏曲は吉田拓郎やガロ他。朝礼で歌ったり学内では既に人気者であったが、受け狙いでやったあのねのねの“魚屋のおっさんの唄”はまったく受けず、朝礼を真っ白にさせたことも。

中2の3学期に、エルビス・プレスリーの衛星生中継、Aloha from Hawaii(1973年1月14日)を観て、「コンサートってこんな興奮するものなんだ!」と、衝撃を受ける。

中3の学祭では、初めてオリジナル曲を披露している。

高校受験のため、プラス思考へ潜在意識を動かすことで人間の潜在能力を引き出すメンタルトレーニングのセミナー「考え方教室」に通い、心の大切さ、人間の可能性について学ぶ。

中学3年の時、エルトン・ジョンが来日。ピアノの弾き語りスタイルでありながらエンターテイメントなライブパフォーマンスのファンとなる。その後もポール・マッカートニー&ウイングスやスティービー・ワンダー、T・レックスなど、洋楽に魅了され、この頃プロになろうと決心を固める。

 

高校は広島で有数の進学校、広島市立舟入高等学校に進んだ。

音楽に目標を定めた原田は、軽音楽部に所属、バンド「ビールス」やガールズバンドでドラムも担当、他に4つのバンドを掛け持つ。ピアノも始め、大人に混じりジャズのビッグバンドにも参加。グレン・ミラーオーケストラの譜面を取り寄せ各パートごとに徹底解剖する等、学力の低下も省みず音楽漬けの日々を送る。

応援団にも所属し和太鼓を担当。この頃の愛読漫画は『嗚呼!!花の応援団』。

高2の秋、『月刊明星』でフォーライフ・レコードの第一回新人オーディションの広告を見て、修学旅行を休み、ピアノ、ギター、シンセサイザーの演奏から編集まで一人で多重録音を行い、デモテープ作りにかけた。応募作品数3000曲以上というテープ審査では選出されなかったが、その凝ったデモテープが吉田拓郎の目に留まる。どんな人物かと写真を見てみるとアイドル顔負けの美少年だったので慌てて電話を入れ、ディレクターが広島へ出向き、採用を決定した。

 

1977年3月30日、「広島フォーク村」主催の卒業記念&プロとして上京のための出発コンサートとして「ビールス」ラストコンサートを広島市青少年センターにて開催。某大手アイドル事務所など、多くの芸能関係者が原田詣に訪れたという。

4月、青山学院大学経済学部第二部経済学科に入学、後に中退。

10月25日、“てぃーんず ぶるーす”(作詞:松本隆/作曲:原田真二/編曲:鈴木茂・瀬尾一三)でデビュー。オリコン6位。元々は原田が作詞作曲編曲した楽曲があったが、原詩ではストレートで重すぎるということから、松本隆に白羽の矢が立った。アレンジも原田の原案では「洋楽のロックアーティストがあえてアコギを弾いて歌ってるような渋いイメージ」だったが、キーボード主体の当時のニューミュージックの先端を行くサウンドに変更された。その後1ヶ月ごとにシングルを本曲含め計3枚発売(俗にトリプル・デビューという)。原田真二の魅力は(奥が深く)1曲では伝えられない、という理由からの異例のデビューとなった。

 

11月25日、2ndシングル“キャンディ”(作詞:松本隆/作曲:原田真二/編曲:原田真二・阿部雅士)を発売、オリコン10位。

 

12月20日、3rdシングル“シャドー・ボクサー”(作詞:松本隆/作曲:原田真二/編曲:後藤次利)を発売、オリコン14位。

 

 

1978年2月25日、デビューアルバム『Feel Happy』がオリコン史上初の初登場1位となり、4週に渡り首位を維持。デビュー作から全作曲、編曲も手がけ、演奏にも加わり、拓郎とともにプロデューサーとしてもクレジットされた。シンガーソングライターとしては、10代(19歳3ヶ月)でファーストアルバム1位を獲得した男性ソロシンガーは未だ原田真二しかいない。女性ソロでは宇多田ヒカル『First Love』があるのみ。

 

4月10日、4thシングル“タイム・トラベル”(作詞:松本隆/作・編曲:原田真二)を発売すると、デビュー3作を上回る自己最高位を記録。この後所属事務所を「アミューズ」から、井上陽水やブレイク前のRCサクセションが所属していた「りぼん」に移籍。

 

7月24日、デビュー1年目(9ヶ月)かつ10代ソロ歌手としては史上初の武道館単独公演を催行。自らライヴアレンジも手がけ、演奏を重視した純粋なロックコンサートに仕立てた。

同年夏、新人賞レースに参加しないと発表。同じ新人の世良公則&ツイストも後に辞退を発表したが、事務所移籍直後ということもあってか、生意気だとマスコミの批判が原田に集中した。

7月25日、5thシングル“サゥザンド・ナイツ/スペーシィ・ラブ”(ともに作詞:松本隆/作・編曲:原田真二)をリリース、オリコン16位。

 

11月2日、母校青山学院大学の学園祭ライヴで、1万席の所に2万2千人が押し寄せ機動隊まで出動する騒動となり、チケットは持っていたがコンサートを観られなかった者が続出した。

11月21日、6thシングル“OUR SONG”(作詞・作曲・編曲:原田真二/以下特記が無い限り同)を発売、本作では初の作詞を始め、作曲、編曲、オーケストラアレンジ、プロデュースを手がける。SONY「βマックス」CMソング。オリコン19位。

 

12月16日、武道館ライヴを中心に、その合宿風景なども追ったドキメンタリー映画『OUR SONG and all of you』が公開。新人としては異例。監督はキャロルの解散コンサートや、近年では地球交響曲<ガイアシンフォニー>シリーズで知られる龍村仁。龍村とは後に、筑波科学万博「健康・スポーツ館」(1985) / TBS「いのちの響 生命交響楽」(1995年)でも映像とテーマ曲で共作。

12月31日、第29回『NHK紅白歌合戦』に初出場、“タイム・トラベル”を演奏した。

 

 

1979年3月21日、7thシングル“スウィート・ベイビー”を発売、オリコン33位。

 

4月21日、2ndアルバム『natural high』をリリース。本作制作のために初の海外レコーディングでロサンゼルスに赴き、海外ミュージシャンとセッション。英語詞以外の作詞、作曲、編曲、プロデュースを自ら手がけた。オリコン7位。

 

9月21日、8thシングル“a day”を月倍、オリコン39位。

 

11月21日、9thシングル“MARCH”を発売、オリコン57位。

 

12月26日、2年続けて武道館ライヴを敢行。

 

 

1980年、21歳で事務所から独立、「株式会社クライシス」を興す。レコード会社もポリドールに移籍。ソロ名義から「原田真二&クライシス」 (SHINJI & CRISIS) として活動開始。

夏頃に、ジョン・レノンによるプロデュースでのレコーディング話が内々で持ち上がるも、1980年12月8日、ジョンがニューヨークで凶弾に倒れ幻となった。

10月5日、ポリドール移籍第一弾として、10thシングル“STRAWBERRY NIGHT”を原田真二&クライシス名義で発売、オリコン54位。

11月5日、アルバム『HUMAN CRISIS』発売。原田曰く「僕の中にあるハードな部分ががつ〜んと出た一品。当時のファンの人たちを裏切りまくった僕のトライでした。」とのこと。

 

 

1981年4月21日、11thシングル“LIFE”を発売、オリコン71位。

 

8月1日、12thシングル“熱思考 -She became cold- ”を発売、オリコン86位。

 

11月1日、13thシングル“EVERY SUNDAY”を発売、オリコン97位。

 

12月25日、CRISISの他、ストリングス&ビッグ・バンドを配しての特別編成クリスマスライブを中野サンプラザで行う。同時に米国への音楽留学による充電(約1年に及ぶ)をステージ上から発表。

 

 

1982年10月、23歳で結婚。結婚パーティーにはCHARや八神純子など音楽仲間も駆けつけた。プロポーズの言葉は「結婚するなら僕がいいじゃん!?」。

 


1983年5月5日、アメリカから帰国後、フォーライフへ再度移籍、シングル“雨のハイウェイ”を「原田真二&クライシス」名義で発売し、『ザ・ベストテン』のスポットライトのコーナーにも出演した。オリコン71位。

9月21日、15thシングル“愛して、かんからりん。”を発売、オリコン93位。

 

12月、翌年発売のニューアルバムの予告的ライヴとして、同名タイトル「Modern Vision」と題したアクトを取り入れたコンサートを渋谷公会堂で開催。

 

 

1984年3月21日、7thアルバム『MODERN VISION』と表題曲“MODERN VISION”を16thシングルとして同時発売。シングルはTOYOTA「セリカ」CMソング、アルバムはオリコン30位。

 

 

5月から、アルバムを携えツアーもスタート。オープニングアクト(演劇)等を取り入れ、アルバムと平行したメッセージをライヴでも発信した。

11月21日、17thシングル“Teardrops”を発売、コンピューターグラフィックスを取り入れた短編ストーリー仕立てのMVを制作。撮影直前に台本から監督まで代わってしまい、本人の納得できる仕上がりにならなかったばかりか、時代的なものもあり、今では直視できない映像だと言っている。原田のMVは、古くは原田の発案で“シャドー・ボクサー”がフィルムコンサート用に制作された。埠頭を走っているだけの単純な映像であったらしいが、このフィルムは幻と化している。

 

 

1985年3月17日~9月16日、筑波科学万博における「健康・スポーツ館」にて、生命誕生をテーマに17m×23mの大スクリーンで迫る「BREATHE」の音楽を担当。観客動員数はパビリオン中では最大だった。映像監督は龍村仁。

6月21日、20thシングル“伝説KISS”を発売、オリコン86位。

9月21日、21thシングル“見つめてCARRY ON”を発売、オリコン98位。

 

10月、新たに「Friday Night Club」というイベントを企画、定期的にクラブでのライヴを試みた。場所は東京表参道のモリハナエビル「ザ・スペース」。

11月1日、レコードクレジットにおける原田真二&CRISISを解消、再びソロに転じ、Friday Night Clubの乗りを作品にまとめた8thアルバム『Magical Healing』を発売。バンド・サウンドから打ち込みサウンドへ移行。

 

 

1986年10月21日、9thアルバム『DOING WONDERS』をフォーライフ・レコードから発売、オリコン33位。

 

 

1987年7月21日、デビュー10周年として“SWEET HEART”をリリース、オリコン80位。本作を含めて7月〜12月で“LOVE OPERATOR”、“君にもっと近づきたくて”(オリコン80位)と、トリプルでシングルを発売。“君にもっと近づきたくて”は    SHARP「ビデオカメラ」CMソング。

 

 

 

1988年7月、レコード会社を「NECアベニュー」に移籍。社名も「Air Field」と変更し、これに伴いバンド名も「THE AIR」とした。

10月21日、25thシングル“You are my Energy”発売。テレビアニメ『F-エフ』EDテーマ。

11月21日、アルバム『Urban game』発売。

 

 

1989年9月21日、『Urban game』発売に伴うライヴツアーの模様を収めたライブアルバム『Just Urban Night』とライヴビデオ『Live Act Urbangame』を3曲以外は曲目を変え同時発売。

 

1990年2月、プライベートではこの頃より一時期(1990-1991年頃)、「幸福の科学」との接触が取りざたされる。俳優の南原宏治ら5人と「芸術座談会」を行い、その会話が教団機関誌『月刊 幸福の科学』1990年2月号(p.69)に掲載。また1991年9月15日に横浜アリーナで行われた幸福の科学の講演会で、ゲストミュージシャンとしてミニライヴを行う。 これに対して原田は「以前、様々な考え方、見方、世界観を学ぼうと、いろいろな分野の方や宗教家の方々ともお話しさせてもらっていた一環でのコンタクトで、要は自分の中での世界観を持つことと以前から言っており、現在も特定の宗教を信仰しているということはなく無宗教である」としている。また、精神世界を探求する中で、宗教に関しても幅広く知識を学んできたが、その真贋の判断はシンプルで、自分達の利益のための追求でなく、本当に人のために発信しているのかどうかであるとしている。また「民族・宗教・国境の壁を越え共有できるのが音楽」とも言っている。

同年6月、同時期にアメリカで人気を博した「MTVアンプラグド」の影響もあり、「アコースティック・ナイト」と題された、少人数、小さな箱でのアコースティックなライヴにも取り組み始める。

 

 

1992年4月、渋谷「クラブ・クワトロ」ライヴ中に、「日本コロムビア」への移籍を発表。

 

 

1995年12月9日、環境庁主催のチャリティーLive(パシフィコ横浜)の制作に携わり演奏も行う。その後、環境チャリティーコンサート「SEEDS IN THE FIELD」にも数回出演。

 

 

1996年2月21日、TBS『いのちの響 生命交響楽』のテーマ曲“生命交響楽”発売。カップリングは自身が手がけた八王子市立下柚木小学校の校歌をCD化。

 

4月20日、前年に広島原爆から50年を迎えたことを受けて作られた“ひろしまから始めよう”を発売。当時広島で行われたいくつかの平和祈念イベントでも披露。近年のピースライブでも主要に歌われている。

 

 

 

1997年3月22日、「The Symphony Sessoions」と題したオーケストラをバックにしたコンサートを行う。(シアターコクーン) 

 

 

1998年2月19日~3月8日、ミュージカル『奇妙なゲーム』で、全曲書き下ろしによる音楽監督を担当。出演は、細川俊之、遠山景織子、坂本昌行など。

3月21日、KONAMI(コナミ)へレコード会社を移籍し、第一弾となる32thシングル“恋は500マイル”を発売、テレビ朝日『深夜水族館』挿入歌、文化放送『CLUB db』のエンディングテーマ。

 

9月23日、33thシングル“夢が踊りだす時”を発売、はごろもフーズ「ディッパーシーチキン」ティーンズ篇のCMソング。

 

 

2000年7月25日~8月30日、松田聖子のCDのプロデュースに伴い、夏のツアーにゲスト参加。

8月26日、公のライヴとしては初の「鎮守の杜コンサート」を、明治神宮で開催。NHK-BSでテレビ中継もされた。ゲストは松田聖子。

12月、松田聖子 X'mas Dinner Showのツアーより2004年夏ツアーまで、夏・冬のライヴツアーのサウンドプロデューサー、バンドマスター、CDプロデュースを務める。

 

2001年10月13日、地球環境行動会議 (GEA)・地球環境警鐘会議、合同レセプションにて加藤登紀子、斉藤ノブ、南アフリカのミュージシャンらと競演し演奏。

 

2002年5月30日、日韓合作映画『白神渡海』の音楽を担当、主題歌“海風 UMIKAZE”を発売。挿入歌は、松田聖子“愛の歌”(2004年、The song of loveとしてSunshineに収録)。

 

 

2003年8月1日、加藤登紀子とのデュエットで、岐阜県の「花の都ぎふ祭り」イメージソング“薔薇と月 -ROSE AND MOON-”を制作し発売。関連のイベントライヴにも数回出演した。

 

2004年6月9日、全面プロデュースを担当した松田聖子のアルバム『Sunshine』が発売、オリコン初登場6位にランクイン。この夏のツアーをもってコンビ解消。

8月8日、フランスで開かれた「カンヌ国際芸術祭」のオープニングセレモニーに、鎮守の杜コンサートの形態を一部持込ライヴを行った。

12月28日、「New Power Generation」と題した若手バンド中心のライヴイベントを企画。自らも川野直輝(Ds)とユニットを結成、後に田中昌志(B)をライヴサポートメンバーに迎え、3ピース形式で「generation」として演奏。2007年まで定期的に開催。二人の息子も自バンドにて参加した。 

 

2005年2月、特定非営利活動法人「ジェントル・アース (Gentle Earth)」を設立。以後様々なNPO関連のチャリティーイベントに携わる。

 

2005年6月5日、愛知県長久手市で開催された「愛・地球博」の「環境の日」イベントで「第三部 鎮守の杜コンサート」を担当。

12月22日、ストリートチルドレンの救済活動を行うNPO法人「Singing Angel Project (SAP)」のフェスティバル(岡山)に参加、2009年まで参加した。

12月、この年より毎年、クリスマス・チャリティー・ディナーライブツアーを行い、収益金の一部はユニセフ等に寄付している。

 

2006年7月24日、「Peace Charity Concert」(hiroshima Voices 2006 / 2007) (Global Harmony 2008 - )に中心的存在として参加&企画制作。その流れで8月5日(日本時間6日)広島原爆投下の日に合わせたニューヨークでの「Universal Peace Day」と題した、民族・宗教の壁を越えた平和祈念イベントに参加。以後毎年継続し、東京、横浜、広島、長崎、リバーサイドチャーチ、リバーサイドパーク、セントラルパーク等で演奏。これは、「No more Hiroshima, No more Nagasaki」という、平和・反核をテーマにしたもの。

9月11日、9.11(NYテロ事件)追悼セレモニーにも毎年参加。ハドソン川をバックに演奏も行う。

 

2007年1月12日、元アメリカ副大統領アルゴア氏制作の環境映画『不都合な真実』のエンディングテーマ“I need to wake up”の日本語版を制作、配信、アルゴア氏来日レセプションにて演奏。

 

5月13日、“大和〜YAMATO The Global Harmoney〜”発表。広島、呉の(戦艦)大和ミュージアムの主題歌として制作した。戦火の犠牲になった人たちの命を決して無駄にしないという想いと、互いを尊重し合う和の心こそが平和へのキーワードと歌っている。平和イベントで再三披露されている。

8月15日、アルバム『Feel Free』をROPPONGI WAVE RECORDSより発売、これに伴い、リリース記念ライヴを世良公則 (GUILD 9) と合同で行った。

 

10月25日、ニューヨークにある国連に招かれ、長崎被爆をテーマにしたアニメ映画『NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘』の試写会で演奏。

 

2008年2月3日、デビュー30周年記念として37thシングル“Calling…”を発売、カップリングは、原田のファンである小川菜摘のリクエストにより、彼女が司会を務めていた関西テレビトークバラエティー『おじょママ!P』のEDテーマとして作られた“Come On おじょママ〜I Love Luしー〜”。

4月、「Singing Angel Project」の一環でフィリピン・マニラを訪れ、貧困にあえぐ子どもたちの惨状を視察。スラム街スモーキー・マウンテンで働くストリートチルドレンを招待し同所でライヴも行った。

5月4日、平和憲法の象徴である憲法第9条を守る趣旨の「9条世界会議」(幕張メッセ)で演奏。

 

2009年9月、メキシコ国連、軍縮会議で演奏。

 

2010年4月10日、シングル“Goodbye Tears”を発売、日本テレビ『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』広島ローカルテーマソング。PV撮影では、前年4月に35年振り上陸が解禁された長崎 軍艦島でのロケを敢行。

 

9月10~13日(現地日)、被爆ピアノ・ピース・コンサートin ニューヨークに参加。9・11のハドソン川などNY周辺で演奏会を開く。

 

2011年1月、広島市より、広島市民賞を受賞。同賞は、市民に夢と希望とやすらぎを与え、元気な広島、住みよい広島を作るために寄与した人に対し授与される。

3月末より、3月11日の東北地方太平洋沖地震発生を受け、各地で大小様々な震災支援チャリティーライヴに出演&企画を行う。被災地での慰問ライヴも定期的に行う。

 

2013年9月6日、国連の平和教育に関するハイレベルフォーラムにて演奏(ニューヨーク国連本部、信託統治理事会会場)。

 

 

2015年10月8日、シングル“Heart Aid”を発売。

 

 

2017年、デビュー40周年を迎える。

7月26日、デビュー40周年企画第一段となるコンピレーションアルバム『TIME TRAVEL 40th Single Collection』をフォーライフミュージックエンタテインメントから発売、デビュー以降のシングルA面(表題曲)を収録したCD3枚組。それぞれの曲について原田自身が語るエピソードが添えられている。

 

9月20日、デビュー40周年企画第二弾ボックスセット『原田真二1992-1996 コロムビア・イヤーズ・コンプリート』を日本コロムビアから発売。日本コロムビア時代の音源をすべて収録し、当時の想いを語る原田のロングインタビューや未発表写真も満載した、豪華CD5枚組ボックス。

 

10月25日、デビュー40周年企画第三弾アルバム『PRESENCE』をIVYレコードから発売、自身の代表的楽曲をロックアレンジによりセルフカヴァー、スタジオライヴで一発録音した、原田のロック・スピリットあふれる一枚。オリコン225位。

 

 

2019年10月25日、22ndアルバム『ROCKS』をIVYレコードから発売。前作に続きロックアレンジによるセルフカヴァー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「原田真二」